〜出会い〜


〜この水と生ける水との交換〜
@人生とはまことに苛酷な砂漠の旅である。
すべての人は重荷を負い、疲れ果てかわき切り、あえぎあえぎ、重い足取りで夢遊病者の如く、ただあてもなく歩き続けている。
Aイエスは言われた。
「すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう。」(マタイ11・28)
B「わたしが荒野に水をいだし、さばくに川を流れさせて、わたしの選んだ民に飲ませるからだ。」(イザヤ43・20)
良き牧者である主は、迷える羊をたずねて、「ユダヤを去って、またガリラヤへ行かれた。
しかし、イエスはサマリヤを通過しなければならなかった。そこで、イエスはサマリヤのスカルという町においでになった。」(ヨハネ4・3〜5)
C初夏の太陽がかんかんと照りつける道を、エルサレムからサマリヤのスカルまで、7、8時間を要する道を歩き続けてこられたのである。
かって主が通られしこの道を、私も初夏の候、車で通ったことがある。
ペテロもヨハネも通ったその道を、感動しながら祈りつつ黙想しつつ。
Dサマリヤの井戸辺にて、キリストと罪深き異邦の婦人との出会いの光景は、新約聖書中最も感動的な場面の一つである。
そこに最も人間的なキリストの姿と、神的なキリストの御姿が、鮮やかに啓示されている。
「そこにヤコブの井戸があった。イエスは旅の疲れを覚えて、そのまま、この井戸のそばにすわっておられた。時は昼の12時ごろであった。」(ヨハネ4・6)
エルサレムからの強行軍、暑さとかわきのために、すっかり疲れ果てたイエスの姿は、わたしたちと全く変わるところがない。
旅路に疲れたイエスの姿ほど親近感を与えるものはない。
主がこのような姿を取り給うたればこそ、異邦人の罪ある女も近づき得たのである。
E「ひとりのサマリヤの女が水をくみにきたので、イエスはこの女に、『水を飲ませて下さい』と言われた。」(ヨハネ4・7)
それは、この水と生ける水との交換を求めてのことである。
言(ロゴス)が人性をとられたのは、人間に神性を与えんために他ならない。
Fするとサマリヤの女はイエスに言った。
「あなたはユダヤ人でありながら、どうしてサマリヤの女のわたしに、飲ませてくれとおっしゃるのですか。」(ヨハネ4・9)
冷たい彼女の反応には、あからさまに敵意をふくみ、エルサレムの仇(あだ)はスカルで打つの態度である。
それはユダヤ人が「サマリヤ人の水は豚の血よりも汚れている」と、日頃からサマリヤ人を軽蔑していたからである。
〜わたしが与える水は、その人のうちで泉となり・・・・・〜
@しかし柔和謙遜なイエスは、「もしあなたが神の賜物のことを知り、また、『水を飲ませてくれ』と言った者が、だれであるか知っていたならば、あなたの方から願い出て、その人から生ける水をもらったことであろう」(ヨハネ4・10)と、彼女の好奇心をさそい、生ける水を求めるように誘導された。
このことばの中には二つの重要なことが語られている。
神の賜物と、水を飲ませてくれと言った人物が、誰かとの正しい認識が強調されていることである。
A「神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスにおける永遠のいのちである。」(ロ−マの信徒への手紙6・23)
この比類なき恩寵の賜物に驚け!サマリヤの女はその人が単にユダヤ人であることのみを知り、他は全く知らない。
Bこのお方こそ生ける水の源である主(エレミヤ17・13)、いのちの泉(詩編36・10)。
自分に水を求めた人が、逆に生ける水を与えると言うのである。
ヤコブが掘って与えた水よりも、更に勝る生ける水を与え得る人物は、ヤコブよりも偉大な人物かと、いく分皮肉まじりに彼女は理解しないままに生ける水を求める。
久しく固く閉ざされていた彼女の心は、太陽の直射に出合った花の蕾(つぼみ)のように、キリストに向かって心を開いた。
Cそこでイエスは言われた。
「この水を飲む者はだれでも、またかわくであろう。
しかし、わたしが与える水を飲む者は、いつまでも、かわくことがないばかりか、わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠の命に至る水が、わきあがる。」(ヨハネ4・13〜14)
D「この水」はその源泉を地の中に持ち、ヤコブが人間の生活の方便のために掘り出したもので、人間が人間の生活の方便のためにつくり出した宗教を暗示している。
人間のつくり出したすべての宗教は、人間の霊魂の真の渇きをいやさず、真のいのちを与え得ない。
Eしかし、主ご自身の与え給う生ける水は、真に霊魂の渇きをいやし、永遠の命を与え、満足と平安(やすらぎ)を与える。
〜ユダヤ人・偉大な人・預言者〜
@人間が渇き慕いあえぎ求めているものは、生ける神ご自身との出会いなのである。
人間の霊魂は神によってのみ満たされ、神以下のものをもってしては満たされないように、神によってつくられているのである。
彼女にとって神の賜物も、生ける水も、キリストご自身もなおまだ秘密のヴェ−ルに包まれているのである。
Aそこでイエスは彼女を包んでいる厚いヴェ−ルを破るために、「あなたの夫を呼びに行って、ここに連れてきなさい」(ヨハネ4・16)と命ずる。
はたせるかな彼女はひどく狼狽する。
鋭いメスが患部に触れたからである。
キリストはその神性の全知力により、彼女が6人の男性と罪深い生活をしていたことを知っておられた。
彼女は自分の秘密を知っているものがあるとするなら、全知の神と自分のみであると考えていた。
しかるに、はからずもここで出合った一ユダヤ人が、自分の秘密を知り尽くしていたのである。
この現実をどう解釈すべきかと自問自答する。
しかして、全知の神の霊を宿せし偉大な預言者に相違ないとの結論を出す。
かくして彼女のイエスに対する理解は急速度に前進する(ヨハネ4・19)。
B多くの人々もまた、彼女が辿(たど)った同じコ−スを辿る。
彼女は、もしこの方が偉大な預言者であるなら、ユダヤ人とサマリヤ人との間で久しく争われている、宗教論争に終止符を打ち、明快な解答を与えてくれるに相違ない。
ゲリジム山か、サマリヤの宗教かユダヤ教か、そこで彼女は質問する(ヨハネ4・20)
Cそれに対するイエスの解答は極めて深遠であった。
「女よ、わたしの言うことを信じなさい。」(ヨハネ4・21)
このことばは絶対的であり命令的でさえある。
この女はサマリヤ人の宗教のもとに、サマリヤ人の信仰態度をもって信じ続けてきた。
しかしその信仰においては、罪の力から解放されることなく、神との出会いの体験をも与えられず、永遠のいのちを現在において、確実に把握せしめることはなかった。
かくの如きは偽りの神、偽りの宗教である。
ユダヤ教は真の神を信じていても、その儀式主義、律法主義をもってしても、神との出会いの体験を与えない。
それは神との出会いの生ける道であり、仲介者であるメシヤを持たないからである。
生ける水なる聖霊、永遠のいのち、神との出会いを真実に望むなら、「わたしの言うことを信じなさい」とイエスは強く主張されたのである。
D「救はユダヤ人から来る。」(ヨハネ4・22)
聖書の啓示は、メシヤはユダヤ人、アブラハムの子孫、ダビデの系図(マタイ1・1)より出現すると約束しているのである。
それゆえ、ユダヤ人、偉大な人、預言者、更に前進してはどうかと暗示を与えられたのである。
E「まことの礼拝」(ヨハネ4・23)とはなにか。
知らないものを形式的に礼拝することではない。
当然礼拝すべき至高の御者、知っている方を正当に礼拝すべきである。
まことの礼拝とは、必然的に生ける神との、人格的出会いに他ならない。
F生ける神との出会いのためにこそ、メシヤはくるのである。
メシヤによって、メシヤを通じて、メシヤを道として、真理、いのち、生ける真の神に出会うのである。
今こそ、その時がまさに来ている。
G「神は霊である。」(ヨハネ4・24)
神は、本性上霊である。
それゆえ、人間の肉をもっては見ることも、触れることもできない。
人間と神とが出会うためには、両者の間にある無限の断層を埋める必要がある。
そのために霊なる神が、見えるものとなり、触れ得るものとなるために、ロゴスは受肉したのである。
H人間の肉眼で見えないものも、プリズムを通して見ることによって、今まで見ることが不可能であったものが、見えるようになる如く、イエス・キリストに対する信仰のプリズム、二重のプリズム、すなわちメシヤ性と神性に対する信仰によって、イエス・キリストの人性の最奥にメシヤを見、更にメシヤにおいて神を見るのである。
I彼女はイエスのヒントにより、信仰のピントを是正しながら、改めてイエスを仰ぎ見る。
ユダヤ人・・・・預言者・・・・キリスト。
二重にかすんでいた映像が、今この瞬間鮮明にあらわれてきたのである。
今まで見えなかったもの、イエスの人性の幕屋の中に、まばゆいばかり輝くメシヤを見たのである。
彼女は偉大な発見に感嘆の声をあげる。
J「わたしは、キリストと呼ばれるメシヤがこられることを知っています。」(ヨハネ4・25)
彼女は遂にこの信仰の階段にまでかけのぼった。
彼女の信仰告白は注目すべきものである。
Kサマリヤ人はユダヤ人と異邦人との混血人種である。
彼女自身、「わたしたちの父ヤコブ」(ヨハネ4・12)と言って、自分達の太祖にヤコブを持つことを誇らかに示している。
しかし、事実サマリヤ人には異邦人の血の方が濃厚である。
人種的にもそうであるが、宗教的面よりしてもそうである。
彼らの宗教はモ−セの五書に異宗教の混入せしものである。
全世界のすべての宗教も、聖書の一部分プラス原始異邦的宗教との混血宗教である。
L真の神であり、永遠のいのちが出現するとき、いのちなきものは消滅し、義の太陽が出現する時、もろもろの微光はその姿を消し去る。
M「キリスト」(ヨハネ4・25)、この語はギリシャ語で、油そそがれた者を意味し、異邦人語である。
N「メシヤ」は、選民ユダヤ人が、聖書に啓示されている約束の救世主を意味して用いるヘブル語である。
したがってギリシャ語のキリストと、ヘブル語のメシヤとは全く同意語である。
「キリストと呼ばれるメシヤ」との信仰告白は、彼女の素性をあらわすにふさしく、妙味あふるるものである。
Oそこでイエスは女に言われた。「あなたと話しているこのわたしが、それである。」(ヨハネ4・26)
このイエスの宣言はまことに重大である。
イエスは自分がキリストと呼ばれるメシヤであるばかりではなく、更にそれを超越せる存在として宣言されたのである。
「あなたと話している私は有るというものである」が一層原語に正確である。
Pヘブル語で私はそれ・・・・アニ−・フ−は、ギリシャ語のエゴ−・エイミで、我は有りて有る者(出エジプト3・14)を意味する。
イエス・キリストは未だかって、これ程明白にご自身の神性を啓示されたことはなかった。
Q彼女はヤコブの井戸のほとりにて、はからずもイエスに出会い・・・・イエスにおいてキリストと呼ばれるメシヤに出会い・・・・更にキリストにおいて神に出会い・・・・霊とまこととをもって神を礼拝することの、真実の意味を体験的に理解し、永遠の命の湧き出る真の泉を発見したのである。