〜パンの奇跡〜
@マタイ、マルコ、ルカによる福音書には、イエスの行われた多くの軌跡がしるされている。
Aしかるにヨハネによる福音書は、7つの奇跡しかしるされていない。
この7つの奇跡はいかにもヨハネ好みのものである。
7つは完全数であり、この7つの奇跡は特色あるものであり、イエスの神性とメシヤ性を証明するに充分なものである。
B第6章には、7つの奇跡のうち、2つがしるされている。
パンの奇跡はイエスの創造性、全能性を証明するものであり、永遠のいのちの賦与者なることを啓示しており、
水上歩行の奇跡は、イエスが宇宙の主宰者なる主であることを啓示するものである。
その意味においてこの奇跡は特色あるしるしなのである。
C場所はテベリヤ湖(ガリラヤ湖、キンネレテの海)の向こう岸(ヨハネ6・1)なる、ハッチン山麓においてである。
その場所はなだらかな傾斜で、草が生いしげり(ヨハネ6・10)、大群衆が食事するには、最適の場所である。
時は過越の直前の頃であった。この頃は一年を通して、一番気候のよいシ−ズンであり、キンネレテ湖畔一帯の風景の、最も美しく装いをこらした時でもある。
ハッチン山の背後には、白雪に輝くヘルモンの秀峰(2814メ−トル)が聳(そび)え立ち、一幅の名画を見るごとく、表現のことばがないほど、神秘的で美しい。
D「イエスは山に登って、弟子達と一緒にそこで座につかれた。」(ヨハネ6・3)
このみことばは直感的に、「だれでもわたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしはその中にはいって彼と食を共にし、彼もまたわたしと食を共にする。
勝利を得る者には、わたしと共にわたしの座につかせよう。
それはちょうど、わたしが勝利を得てわたしの父と共にその御座についたのと同様である」(ヨハネの黙示録3・20〜21)を連想させる。
天の大饗宴がまさに始まろうとする、直前の光景を予感させるのである。
E「時に、ユダヤ人の祭である過越間近になっていた。」(ヨハネ6・4)
このことばがそれを暗示している。
ユダヤ人にとって過越の祭は重大であり、深い意義を蔵していた。
Fそれは過去のものとしては、モ−セの時代、エジプトより解放されし、民族的救いを記念して祝う祭りであり、
それは現在のものとしては、メシヤなるキリストによる、罪と死よりの解放、永遠の生命への移行参与による全き救いを意味しており、
未来に関しては、終わりの日の復活、甦(よみがえ)りの保証である。
G今はまさに終末であり、キリストの再臨による、最後の過越が間近に切迫している。
〜過越の小羊を拝食〜
@そのときのために、わたしたちの過越しの小羊であるキリストは、すでにほふられたのであり、
誰でも祭壇に近づき、
過越しの小羊を拝食することができる。
A今は救いの日、恵みの時なのである。
しかし、今やまさにその救いの時は終わろうとしている。
恵みの時の終わろうとする今、キリストを拝食せよ!
Bこのパンの奇跡が、大群衆の面前において行われたのは、
古い契約による過越しの祭りは、イスラエル民族が、奇跡的に救われし歴史的事実の記念であったが、
そのイスラエル民族が体験した救いの事実は、メシヤによってもたらされる偉大な救いの象徴であった。
しかして今こそ実体が出現したのであり、古いユダヤ人の過越しの祭りは、新契約の過越しと交代すべきことを、暗示して行われしものである。
Cそれゆえ、この大いなるパンの奇跡は、単にイエスのメシヤ性と神性を証明するための、しるしであるばかりではなく、
メシヤによる救い、メシヤの使命を啓示するためのしるしでもあったのである。
D「イエスは目をあげ」(ヨハネ6・5)
イエスのこの態度は、地上の一切のものより離脱して、天の父にのみ信仰の眼指しを向け、一切を天父に期待せよとのそれである。
Eしかし、弟子達は常に現実に目を向ける。
大群衆は飢えており、時まさに夕暮れ、かかる淋しき野原にて、糧を得ることは絶望的である。
弟子達は人間的な心配、憂慮、危機感に、挫折するのみである。
F「どこからパンを買ってきて、この人々に食べさせようか。」(ヨハネ6・5)
大群衆は飢えている。一刻の躊躇(ちゅうちょ)ももはや許されない。
人間的解決の方法手段は見いだし得ず、全く絶望的である。
G「これは・・・・・ためそうとして言われたのであって、ご自分ではしようとすることを、よくご承知であった。」(ヨハネ6・6)
かかる事情、状態は弟子達の信仰をテストする絶好のチャンスであった。
多量の鉱石からでも、ほんの少しの金しかとり得ぬごとく、火によって信仰を試みるとき、生ける真の信仰は、ほとんど皆無に等しい。
聖書の中でアブラハムの信仰が賞賛され、彼が信仰の父の称号を得たのは、実に故なしとしないのである。
「彼は望み得ないのに、なおも望みつつ信じた」(ロ−マの信徒への手紙4・18)ためであった。
この場合、人間的解決の道は絶無であった。
かかる場合、もはや解決の方法は唯一であり、それは信仰による解決あるのみである。
「無から有を呼び出される神を信じた」(ロ−マの信徒への手紙4・17)アブラハムの信仰にならい、
今現に共にいます神、インマヌエルの主を信じ、主ご自身に期待すること、これである。
主の側においては、すでに救済法は決定済みなのである。
H「二百デナリ」(ヨハネ6・7)
しかるに弟子の頭に浮かんでくるものは、神ではなく金である。
エル・シャダイの神ではなく、マモンである。
今日キリスト信者も、キリスト信者とは名ばかりで、「金さえあれば伝道事業は可能である。貧民救済、難民救済、社会福祉、ミッション・スク−ル、大会堂建設、金こそはオ−ルマイティ、何でもできる」と考えている。
これはもはやキリスト信仰ではなく、マモン教である。
I問題点はこうである。
今ここに現金がいくらあるか、ないかの問題ではない。
全能の生ける神が、共にいますかどうか。
神の現存の体験を、現実的に持っているか否かの問題である。
J今一番大切なことは、命のパンを与え得る主が、共にいますかという点である。
イエスの弟子にとって、「金銀はわたしには無い」(使徒言行録3・6)と言うことは恥ずべきことではない。
「しかし、わたしにあるものをあげよう。ナザレ人イエス・キリストの名によって歩きなさい。」
生けるキリストご自身をもっているか否か、命のパンを与え得るか否かこそ、最大の問題と言うべきである。
K弟子のひとり、アンデレがイエスに言った、「ここに、大麦のパン五つと、さかな二ひきとを持っている子供がいます。しかし、こんなに大勢の人では、それが何になりましょう。」(ヨハネ6・8〜9)
アンデレは、貧しい農民の子供が、大麦のパン五つと、日干しの魚二ひきを持っているのを見いだし、幾分の希望、信仰を持ったが、大群衆を見て再び失望したのである。
Lともあれ、大飢饉に直面した非常時に、貧しい子供がパンを持っていたのである。
この子供が持っていたものは、五つのパンと二ひきの魚、合計七つの糧を持っていたのである。
人の目に少量ではあっても、七つの完全数を持っていたのである。
正真正銘の糧を。
Mこの七つの糧は、子供自身の糧、一人分の糧として充分であったが、子供はそれを恵みに感じて、主に捧げ、群衆の糧のために喜んで捧げたのである。
これはなんと感動すべきことであろうか。
貧しいやもめが恵みに感じて、二レプタを献げた行為によく似ている。
人の目にそれは少額の献金と見なされたが、彼女にとりそれは全財産であり、彼女の生活の糧として必要欠くことのできないものであった。
この子供の捧げものは、まことに人目に微々たるものの如くである。
しかし、子供にとってそれは命の糧のすべてであった。
この捧げものは主の前に、実に香ばしき犠牲のささげものとなった。
N「こんなに大勢の人では、それが何になりましょう。」大人であるアンデレの目には、そう思えてならなかったのである。
たかが子供のすることと軽視してはならない教訓である。
わたしがこの終末時代に、子供達の聖歌隊による大リバイバル、
14万4千人のイスラエルの救いを、
彼らに期待するのは、子供ではあっても、彼らが命のパンそのものである、
キリストご自身を、宿し持っているからであり、ここにすばらしい啓示の原型があるからに他ならないのである。
O不信と唯物論、無神論によって毒されている大人の世界に、痛撃を与えたルルドの奇跡も存在するからである。
P聖イエス会においても、小羊聖歌隊によるリバイバルは、すばらしい結果をもたらした実績もあるからである。
子供は何の野心もなく、純粋であるから、神の聖心(みこころ)にかなうのである。
〜残ったパン・・・・は、12のかごにいっぱいになった〜
@「そこで、イエスはパンをとり、感謝してから、すわっている人々に分け与え、また、さかなをも同様にして、彼らの望むだけ分け与えられた。」(ヨハネ6・11)
マタイによる福音書には、「イエスは・・・・五つのパンと二ひきの魚とを手に取り、天を仰いでそれを祝福し、パンをさいて弟子達に渡された。弟子たちはそれを群衆に与えた。みんなの者は食べて満腹した」(マタイ14・19〜20)と、きわめて単純素朴にしるされている。
神の奇跡は単純素朴、信仰の中においてのみ行われるのである。
A「望むだけ」とは、「信仰の量(はかり)に従って」を意味する。
主イエス・キリストにあって、われらはいつもすべてを見いだすことができる。
まことにキリストはすべてにおいてすべてである。
この偉大な奇跡において、わたしたちはイエスの神たる姿を見る。
その全能力と造化の力においてである。
B第二の教訓もまた重大である。
「イエスが五つのパンを手に取り、天を仰いでそれを祝福し、パンをさいて弟子たちに渡された。弟子たちはそれを群衆に与えた。」
最初はイエスが祝福されたパンを弟子達に与えられ、それを受け取った弟子達はまた、イエスがされた通り、パンをさき群衆に与えていったということに注目すべきである。
ここで学ぶべきことは、単純・素朴・信仰・完全な模倣である。
キリストの行為をそのまま模倣する弟子達の姿、それは正真正銘、信仰による模倣である。
C最後の教訓は、メシヤの使命は、永遠のいのちそのものであるいのちのパンを人類に与えることであり、使徒職の使命はそのキリストの事業に参与することである。
人々に命のパン、永遠の生命を伝達するためには、まず自分自身がキリストご自身より、それを受けて確実に持っていなければならない。
「わたしにあるものをあげよう。イエス・キリストの名によって。」(使徒言行録3・6)それは与えれば与えるほど無尽蔵でつきず、一層ゆたかに満たされるのである。
「残ったパン・・・・は、12のかごにいっぱいになった。」
Dこの驚くべきおびただしい残りのパンは、象徴的な意味をもっている。
それは終末時代のイスラエルの残りの者、12部族のためのものである。
〜イスラエルの残れる者14万4千人の救い〜
@大預言者イザヤは、終末におけるイスラエルの残りの者について、くりかえし預言する。
この残りの者はイザヤ神学の主要テ−マの一つである(イザヤ4・2〜5、10・20〜22、28・5、49・6)。
「その日、主の枝は麗しく栄え、他の産物はイスラエルの生き残った者の誇、また栄光となる。
そして主が審判の霊と滅亡の霊とをもって、シオンの娘らの汚れを洗い、エルサレムの血をその中から除き去られるとき、シオンに残る者、エルサレムにとどまる者、すべてエルサレムにあって、生命(せいめい)の書にしるされた者は聖なる者ととなえられる。
その時、主はシオンの山のすべての場所と、そのもろもろの集会との上に、昼は雲をつくり、夜は煙と燃える火の輝きとをつくられる(神の臨在)。
これはすべての栄光の上にある天蓋(てんがい)である。」(イザヤ4・2〜5)
Aこれこそは終末における、イスラエルの残れる者に与えられる救いである。
B「その日にはイスラエルの残りの者と、ヤコブの家の生き残った者とは、・・・・真心をもってイスラエルの聖者、主にたより、残りの者、すなわちヤコブの残りの者は大能の神に帰る。」(イザヤ10・20〜21)
C「その日、万軍の主はその民の残った者のために、栄えの冠となり、麗しい冠となられる。」(イザヤ28・5)
D「主は言われる、あなたがわがしもべとなって(メシヤを指す)、ヤコブのもろもろの部族をおこし、イスラエルのうちの残った者を帰らせることは、いとも軽い事である。わたしはあなたを、もろもろの国びとの光となして、わが救いを地の果てにまでいたらせよう。」(イザヤ49・6)
Eこれらの預言は、ヨハネの黙示録第7章にしるされている、イスラエルの残れる者14万4千人の救いを意味するものである。
〜来たらんとする大患難時代〜
@来たらんとする大患難時代、神の大いなる怒りの日、恐るべき審判より、人類が逃れ救われる道は、ただ一つしかない。
過越の小羊なるキリストと出会い、キリストの御血による贖いを体験すること、これである。
A生ける神の御名(ハッシェ−ム)、聖霊の証印を受けること、それだけが来たらんとする審判より、過越し救われる保証、神の国をつぐことの保証である(エフェソの信徒への手紙1・14)。
Bイスラエル12部族の残れる者が、メシヤと出会い、命のパンを拝食するとき、彼らは民族的に霊的復活を体験するのである。


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