〜栄光のメシヤである前に、苦難のメシヤ〜
@大群衆は、イエスが行われたパンの大奇跡をまのあたり見て、驚嘆して叫んだ。
「ほんとうに、この人こそ世にきたるべき預言者である」(ヨハネ6・14)と。
ユダヤ人が世に来るべき預言者と言うとき、それはメシヤを意味しているのである。
Aイエスの奇跡には疑う余地もなく、メシヤのしるしが印されていたからである。
大群衆がパンの奇跡を通して受けた印象、影響は極めて強く、今や熱狂的なものとなりつつある。
「イエスは人々がきて、自分をとらえて王にしようとしていると知って、ただひとり、また山に退かれた。」(ヨハネ6・15)
永い世紀にわたり苦難によって綴られし、イスラエル民族の歴史が、ユダヤ人のメシヤ・イメ−ジを次第に変化せしめていったのである。
B世に来るべき預言者、待ち望まれしメシヤは、イスラエルを異邦人支配より永遠に解放し、メシヤ王国を建設する、ユダヤ人の王であらねばならない。
彼らの抱いていたメシヤ・イメ−ジは、かくの如き政治的英雄的メシヤに他ならなかった。
度はずれた熱狂はまさに爆発的となり、群衆はイエスを王とし、この奇跡を行う偉大な力を発動せしめ、一挙にロ−マよりイスラエルを解放独立せしめ、メシヤ王国を建設しようとの熱意に燃えあがったのであった。
Cロ−マへの挑戦、暴動、危機は切迫し、一刻も躊躇すべき時ではない。
Dイエスはその危機をさけて、ただひとり山に退かれた。
イエスはメシヤである。
しかし、ユダヤ人が考えているが如きメシヤではないからである。
E「イエスの御名によって、天上のもの、地上のもの、地下のものなど、あらゆるものがひざをかがめ、また、あらゆる舌が、『イエス・キリストは主(アドナイ)である』と告白して、栄光を父なる神に帰する」(フィリピの信徒への手紙2・10〜11)ときがくる。
Fしかし、聖書が啓示するメシヤは、「キリストは必ず、これらの苦難を受けて、その栄光に入る」(ルカ24・26)、
栄光のメシヤである前に、苦難のメシヤであるべきことを示している。
しかるにユダヤ人には苦難のメシヤのイメ−ジはないのである。
〜これぞ聖書が啓示する真のメシヤ・イメ−ジである〜
@さて、マタイによる福音書においては、この場合の事情が一層くわしくしるされている。
それによると、イエスは「しいて弟子たちを舟に乗り込ませ、向こう岸へ先におやりになった」(マタイ14・22)としるしている。
A主が弟子達を強制的にこの場から去らしめ、舟にのらせて海のかなたに行くように命令されたのには、それなりの理由があった。
その理由は、弟子達が群衆の熱狂に感染され、脱線する危険性が多分にあったからである。
彼らはイエスがイスラエルの王と認められる日を、期待のうちに待ち望んでいた。
はからずも今日、ついにその絶好のチャンスが到来したと、彼らには思われたのであった。
しかも自分達の協力によって。
弟子達の興奮は今や頂点に達し、全身の血が頭に上り、メシヤ王国は今にも出現し、右大臣左大臣に、半分なったが如き気分になっていたのである。
弟子達のメシヤ・イメ−ジも群衆のそれと大差なく、是正されてはいない。
危険性はここにもあったのである。
それゆえにこそ頭に逆流している血の気を、キンネレテの夜風で冷やす必要が充分にあったからである。
B人々は霊界の王をとらえ、政界の王たらしめようとしたのである。
この恐るべき熱病から弟子達をいやすために、強制的にこの危険な地域から疎開させ、冷静にさせる必要性からでもあった。
Cかくの如くして、弟子達を去らしめて後、イエスは山に登られたのである。
単に群衆からのがれるためにではなく、「祈るためひそかに山へ登られた」(マタイ14・23)のであった。
Dわれわれは、ここにイエスの三様の姿を見るのである。
第一は、「世にきたるべき預言者」(ヨハネ6・14)すなわちメシヤなるイエスの姿を。
第二は、「王」なるキリスト(ヨハネ6・15)、ユダヤ人の王なるイエスの姿を。
第三は、「祈るキリスト」(ヨハネ6・15、マタイ14・23)、ここに大祭司なるキリストの姿を見るのである。
E旧約において、預言者、王、祭司長は三大聖職であり、
油注がれ任職されたのであったが、
イエス・キリストはこの三大聖職を一身に受けし、メシヤ(油注がれし御者)であられたのである。
これぞ聖書が啓示する真のメシヤ・イメ−ジである。
〜主よ、イスラエルのために国を復興なさるのは、この時なのですか〜
@しかるに、イエスと寝食を共にした弟子達でさえも、現世的政治的メシヤ思想から抜け切れず、イエスを王とする運動から足を洗ってはいない。
この誤ったユダヤ伝統のメシヤ思想は、イエスとの間に深い溝をつくる起因となり、やがて多くの弟子達はイエスに失望して次第に去って行くこととなるのである。(ヨハネ6・66)
A彼らが待望せしメシヤは、民族主義的、政治的王である。
したがって弟子のひとりであるユダは、期待がはずれ、その反動としてやがてイエスを裏切ることとなる。
B弟子達の旧来のメシヤ思想が、いかに抜きがたく根の深いものであったかは、キリスト復活後の彼らのことばによっても明らかである。
「わたしたちは、イスラエルを救う(独立解放させる)のはこの人であろうと、望みをかけていました。」(ルカ24・21)
「主よ、イスラエルのために国を復興なさるのは、この時なのですか。」(使徒言行録1・6)
Cかくの如き弟子達を、イエスを王としようと熱狂している群衆の中に置くことは、火中にガソリンの缶を置くに等しく、危険千万であり、弟子達は群衆の扇動に乗せられ、その急先鋒となる可能性が多分にあった。
これはまさに弟子達にとり、一つの危機であった。
イエスが弟子達を強制的に舟に乗らせ、向こう岸に行くよう命じ給うたのは当然であった。
やむなく弟子達が後ろ髪を引かれながら、小舟にのり出発した時、キンネレテの海はすでに夕闇の中に包まれていた。
〜イエスが海の上を歩いて舟に近づいてこられるのを見て、彼らは恐れた〜
@「すでに暗くなっていた。」(ヨハネ6・17)
自然界はすでに日没し、暗くなっていたが、すでに暗くなっていたのは弟子の心中であった。
彼らはイエスが王となる日を、待ちに待った。
パンの奇跡はそれを可能たらしめる絶好のチャンスであった。
それであるのに、主はなぜそれを拒否し、かかる態度をとり、われらに対してかく命じられたのであろうか。
A舟出した弟子達の小舟に、主は共にいまさなかった。
主共にいまさずばすべては闇である。
闇の航行の危険は格別である。
その上、春の季節の変わり目は、ガリラヤ湖ではしばしば突風が起こり、一瞬のうちに異変を起こす危険があった。
その夜も向かい風が強く、そのために弟子達は悩まされたのである(ヨハネ6・18、マタイ14・24)。
B「四、五十丁こぎ出したとき」(ヨハネ6・19)、五キロばかりやっとこぎ出した時、マタイ福音書を見れば「夜明けの四時ごろ」(マタイ14・25)としるされているごとく、いかに弟子達が短距離に長時間をついやし、難航していたかが伺われるのである。
彼らは疲れ果て、主共にいまさぬ寂寥(せきりょう)、大嵐の予感に、不安と恐怖におびえていたかは察するにあまりがある。
Cはたせるかな恐怖の突風が連続的に起こり、逆風は波浪を巻き起こし、小舟に向かって襲撃する。
その都度波をかぶり、湖水は小舟に浸水し、今にも転覆せんばかりとなる。
弟子達の進展ここに極まる。
まことに危機中の大危機である(ルカ21・25〜28)。
Dとき、まさにその時である。危機一髪の瀬戸際である。
「イエスが海の上を歩いて舟に近づいてこられるのを見て、彼らは恐れた。」(ヨハネ6・19)
弟子達はこの危機に直面し、心中においてS・O・Sの発信、祈りを幾度か主に向かって発していたことは、疑う余地はない。
彼らの連打するS・O・Sは、全知の主にとどいていた。
弟子達のこの姿は、嵐の中に存在する危機の教会を象徴している。
〜暴れ狂う嵐に翻弄(ほんろう)される教会、危機の教会を救うために〜
@世の光、真の光、命の光、光よりの光なるキリストご自身を、うちにもつことなくしての、暗夜航路がどれ程危険であるか、
経綸的光なく、預言の光もない、何の指導原理も持たない、
終末再臨直前の現代の教会の姿こそ、まさにこの姿である。
A「地上では、諸国民が悩み、海と大波とのとどろきにおじ惑い、人々は世界に起ろうとする事を思い、恐怖と不安で気絶する。」(ルカ21・25〜26)
しかも、逆風が来るとは、終末時代には反宗教、無神論が、教会に向かって、真向から挑戦してくることを意味しているのである。
終末におけるこの危機こそは、キリスト教史の中の最大の危機である。
B近代に至るまで福音主義神学者の多くは、イエス・キリストの空中再臨は、
患難時代前期説を説いていたが、
今日ではほとんどの神学者は、患難時代中期説を信ずるに至っている。
患難時代前期に、教会が携挙されるという学説は、極めて聖書的根拠がうすいとして、しりぞけられている。
C暴れ狂う嵐に翻弄(ほんろう)される教会、危機の教会を救うために、
夜明けの四時頃、イエス・キリストは急遽(きゅうきょ)、超自然的手段をとり、
山を下り海上を歩行し来られしは、まことに暗示的である。
D「彼はただひとり天を張り、海の波を踏まれた」(ヨブ記9・8)とある通りである。
E弟子達は苦難の深い淵の中から、
「主よ、わたしの祈りをお聞き下さい。
わたしの叫びをみ前に至らせてください。
わたしの悩みの日にみ顔を隠すことなく、
あなたの耳をわたしに傾け、
わが呼ばわる日に、すみやかにお答えください。」(詩編102・1〜2)
と叫び続けたことであろう。
Fまことに善き牧者であられる主は、
「彼がわたしを呼ぶとき、わたしは彼に答える。
わたしは彼の悩みのときに、共にいて、
彼を救う。」(詩編91・15)
G救い主なる主は、危機に直面せる教会を救うため急遽下山、海上歩行して来られたのである。
「神はわれらの避け所また力である。
悩める時のいと近き助けである。
このゆえに、たとい地は変わり、
山は海の真中に移るとも、われらは恐れない
たといその水は鳴りとどろき、あわだつとも、
そのさわぎによって山は震え動くとも、
われらは恐れない
・・・・・・・・・・・・・・・・
神は朝はやく、これを助けられる。」(詩編46・1〜5)
H弟子達はこの詩編を暗誦(しょう)していたであろうし、それを祈ってもいたはずである。
その結果、主は急遽非常手段をとり、海上を歩行し舟に近づいて来られたのである。
〜イエスは彼らに言われた、「わたしだ、恐れることはない」〜
@弟子達は歓声をあげるどころか、意外なことに恐怖のあまり叫び声をあげたのである(マタイ14・26)。
メシヤ・イメ−ジがゆがめられているために、幽霊怪物と間違えたのである。
色眼鏡を通して見ると、すべて見るものが変色して異様に見えるからである。
本当のメシヤを幽霊怪物と間違えるものは、怪物である偽キリストが出現するとき、それを本物のメシヤと信ずるに至るのである。
「もし、ほかの人が彼自身の名によって(メシヤを自称して)来るならば、その人を受け入れるのであろう」(ヨハネ5・43)と、イエスが警告されているからである。
A「すると、イエスは彼らに言われた、『わたしだ、恐れることはない。』」(ヨハネ6・20)
詳訳聖書は原語を忠実に訳している。
「わたしだ、恐れることはない<私は有る、こわがるのはやめなさい>」(出エジプト3・14)と。
私は有りて有る者であるとイエスは宣言されたのである。
この宣言こそはイエスの栄光であり、御本性である。
イエスのメシヤ性宣言を超え、明白な神性宣言に他ならない。
Bイエスはこれ程率直鮮明に、ご自身の神性宣言をされしことは未だなかった。
C弟子達のイエスに対する信仰は、そのメシヤ性に対するのみでは不充分であり、神性に対する信仰こそ、一層重大であり必要なのである。
世にはイエスのキリストなることを信ずる者は多い。
しかし厳密な意味において、イエスご自身こそ「私は有りて有る者である」と言われるところの御者であることを信ずる者は、必ずしも多くはないのである。
〜弟子達は、まことに宇宙の主宰者なる主と出会い〜
@マタイ福音書には、ペテロの水上歩行とその失敗、沈没、イエスによる救済が、実にリアルにしるされている。
A「するとペテロが答えて言った、『主よ、あなたでしたか。では、わたしに命じて、水の上を渡ってみもとに行かせてください。』
イエスは、『おいでなさい』と言われたので、ペテロは舟からおり、水の上を歩いてイエスのところへ行った。」(マタイ14・28〜29)
B「主よ、あなたでしたか。」
暴風・怒濤・幽霊を見ていた彼は、不安と恐怖とによって生きた心地がしなかった。
今それらの一切から目を離し、主ご自身のみを見たとき、信仰と希望と、イエスに対する愛がよみがえり、
性急な彼、大胆な彼は、一刻も早く主のふところという安全地帯に飛び込みすがりつきたかったのである。
主が、来たれと言われたので、ペテロはあたかもみことばによってつくられた筏(いかだ)に乗ったもののごとく、イエスをのみを見つめ、イエスに向かって湖上を歩み出したのであった。
C「しかし、風を見て恐ろしくなり、そしておぼれかけたので、彼は叫んで。
『主よ、お助けください』と言った。
Dイエスはすぐに手を伸ばし、彼をつかまえて言われた、『信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか。』」(マタイ14・30〜31)
信仰によるイエスの歩みの中で、一瞬目を転じて、荒れ狂う暴風、さかまく怒濤を見た瞬間、彼はイエスご自身を見失い、
波に呑み込まれようとし、「主よ、お助けうださい」と叫んだのである。
そこで、イエスはすぐに手を伸ばし、彼をつかまえて言われた、「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」と。
Eペテロは最初イエスを見つめ、確かに海上を何歩か歩んだのである。
しかし途中で目のつけどころを誤り、荒れ狂う怒濤に気をとられ、沈没し失敗したのであった。
Fそれゆえ信仰の薄い者よと、叱責されたのであった。
それであるなら、海上を初めから一歩も歩めない人々に対して、主は何と言われるであろうか。
「信仰の皆無の者よ、なぜ信じようとさえもしないのか」と言われるのではないだろうか。
F「ふたりが舟に乗り込むと、風はやんでしまった。」(マタイ14・32)
G「すると舟は、すぐ、彼らが行こうとしていた地に着いた。」(ヨハネ6・21)
人は自然法則のもとににあって、自然の猛威に出会うとき、恐怖におののく。
しかし主イエス・キリストは、ご自身こそ自然法則の支配者、全宇宙の主宰(しゅさい)者なることをここにおいて啓示され、ご自身の神性をこのしるしのもとに証明されたのであった。
Hこの時点において弟子達は、まことに宇宙の主宰者なる主と出会い、「イエスを拝して、『ほんとうに、あなたは神の子です』と言った。」(マタイ14・33)
Iイエスご自身を礼拝し、己が信ずべき真の神、救い主メシヤと信じ、彼ご自身を心の至聖所に迎えまつれ、さすれば万事足れりである。
暴風波浪ことごとく静まりて、人生の終極目標、目的である神ご自身に到達し、彼において永遠の命、真の安息を得るであろう。
Jジョン・バンヤンのことばをもって終わろう。
「キリストと共にいまさずば、人生の行路は難く、されどもし彼われらと共にいまさば、いかにその行路は安く、その目的地に到達することの迅速なる」と。


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