〜仮庵の祭り〜
@この仮庵の祭りは、モ−セの時以来ユダヤの三大祭りとして、今日に至るもユダヤ教徒の間で守られている。
A仮庵とは文字通り、仮住まいを意味する。 
イスラエル民族がエジプトから脱出し、約束の地であるカナンに入るまでの40年間、それは本国への帰還の旅であり、転々と移動せねばならず、したがって彼らは行くところに天幕、または簡単な小屋を急造し、一夜の宿としたのであった。
B一民族が移動する大旅行、砂漠の旅行の困難は想像を絶するものであった。
食物なき砂漠、水なき砂漠において、一大民族が移動するためには、奇跡的救いが日ごと必要であったことは論ずるまでもない。
それゆえエル・シャダイの神は、日ごと奇跡のマナと、岩より流れ出る奇跡の水とをもって、イスラエル民族を救い養い給うたのであった。
C「兄弟たちよ。このことを知らずにいてもらいたくない。
わたしたちの先祖はみな雲の下(神の臨在)におり、みな海(紅海)を通り、みな雲の中で、モ−セにつくバプテスマを受けた。
また、みな同じ霊の食物(マナ)を食べ、みな同じ霊の飲み物(岩より流出せる水)を飲んだ。
すなわち、彼らについてきた霊の岩から飲んだのであるが、この岩はキリストにほかならない」(コリントの信徒への手紙10・1〜4)と使徒パウロの言えるごとくである。
D過越しの祭りが過去、現在、未来のものであるように、この仮庵の祭りもまた、過去のものであり(レビ23・43)、それはまた現在のものであり、また未来をも指向しているのである。
終末において全世界全人類が、仮庵の祭りに参与し、主の救いに与(あずか)ることについては、ゼカリヤが14章16節以下に預言している通りである。
すなわち大患難時代を通過し、「生き残った者は、皆年々上って来て、王なる万軍の主を拝み、仮庵の祭りを守るようになる」と。
そのときこそ全人類はメシヤによる贖いによって、主に聖なる者とされるのである。
Eさて、仮庵の祭りは、エルサレムの神殿において、かかる意義のもとに年々盛大に行われ守られてきた。
そうしてこの年もまた仮庵の祭りが近づいてきたのである(ヨハネ7・2)。
「その7月の15日は仮庵の祭りである。7日の間、主の前にそれを守らなければならない。」
「8日目には聖会を開き、主に火祭をささげなければならない。これは聖会の日である。」(レビ記23・34〜36)
F過越の祭りも、イスラエル民族が主による奇跡的救いを祝うものであり、すべての祭りは神との出会い、神による大いなる救いを目指しているのである。
この祭りにおいては色々な儀式が行われた。
それらはすべて40年間の荒野の生活の中で、主の救いを記念する儀式が強調された。
この祭中、ユダヤ人は各自粗末な仮庵を造り、この地上生涯は天の郷里への旅路であることを想起し、奇跡のマナと水とをもって日ごと養いたもうた主の恵みを、深く回顧するのであった。
また雲の柱と火の柱を記念した。このことは神の現存のしるしであり、主ご自身こそ真の光、命の光、真理の光をもって照らし導き、約束の地に導き給う道案内、すなわち、道であり、真理であり、命の光であることを記念したのである。
G7日間にわたりすべてのユダヤ人はこの宗教儀式に与ったのである。
しかし、シンボルとしての祭りによっては真の救い、安息、満足を得ることはできなかった。
それはこの祭りが指し示す実体、主ご自身と未だ出会っていなかったからである。
〜祭りの終わりの日、イエスは立ち、叫んで言われた〜
@永い世紀の流れを通じて、ユダヤ教もキリスト教さえも儀式主義、形式主義を保守してきた。
Aしかし遂に祭りの終わりの大いなる日が来たのである。
伝統的な古い契約の儀式に替って、新契約の実体が出現する時が来たのである。
新しいもの、すなわち完全な実体が出現する時、影は退かねばならない。
Bこの時点において、イエスご自身があらわに公然と神殿に出現されたのは、ご自身こそ神より遣わされしものであり、仮庵の祭りの実体そのものであることを、天下に啓示するためであった。
彼こそは待ち望まれし喜ぶべき契約の主(マラキ3・1)である。
主が宮に来てこそ神殿は真に神殿となるのである。
C祭りの終わりの日には、ことに荘厳な諸儀式が盛大に挙行された。
祭司は毎日、シロアムの池より黄金の器に満々と水をくみ、それをうやうやしく祭壇に注ぎ、岩より流出せし救いの水を示し、詩編105・114・118編が歌われた。
「主は雲をひろげておおいとし、
夜は火をもって照らされた。
また彼らの求めによって、うずらを飛びきたらせ、
天から、かてを豊かに彼らに与えられた。
主が岩を開かれると、水がほとばしり出て、
かわいた地に川のように流れた。
これは主がその聖なる約束と、
そのしもべアブラハムを覚えられたからである。」(詩編105・39〜42)
D神殿における荘厳な仮庵の祭りの最後の儀式も遂に終わった。
まさにその時であった。
イエスは立ち、叫んで言われた。
「だれでもかわく者は、わたしのところにきて飲むがよい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その腹から生ける水が川となって流れ出る。」(ヨハネ7・37〜38)
エルサレムの神殿をバックにして、ご自身を神殿の前面にあらわし、大声でかく叫ばれたのである。
〜生ける水の源である主〜
@このイエスの態度はあきらかに、実体が影であるシンボルにとって替ったことを示されたのである。
A古(いにしえ)より義人達は、
「神よ、しかが谷川を慕いあえぐように、
わが魂もあなたを慕いあえぐ。
わが魂はかわいているように神を慕い、
いける神を慕う。
いつ、わたしは行って神のみ顔を
見ることができるだろうか」(詩編42・1〜2)
と、生ける神との出会いを求め祈り続けてきたのであった。
B永い世紀にわたり、義人達の求め続けてきた契約の主が、今こそ神殿にご自身をあらわされたのである。
C「生ける水の源である主」、奇跡の岩なるメシヤがこられたのである。
Dたった今、神殿において儀式において象徴的に見ていたものが、今実体としてあらわれたのである。
〜その腹から生ける水が川となって流れ出る〜
@しかして、このイエスの宣言は、明らかにご自身が命の源であり、生ける水の源である主であり、聖霊の賦与者、永遠の命の賦与者であるとの宣言に他ならない。
Aこの宣言はまことに重大であり、メシヤ性の宣言以上のもの、偉大な神性宣言である。
神性宣言と共にメシヤの使命についても語られている。
すなわち、聖霊の賦与こそはメシヤの使命であり、聖霊はメシヤから発出し伝達されるということに関しても語られている。
旧約の預言者達も、聖霊の分配授与はメシヤ時代の特色としている。
B「わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その腹から生ける水が川となって流れ出る。」(ヨハネ7・38)
ヨハネによる福音書は、水の福音書と言われるほど、水についてしるしている。
この水は、39節において説明されている如く、聖霊を指して言われている。
わたしを信じる者とは、イエスの神性とメシヤ性を信じる者、イエスを己が神、己が救い主と信じ、御名を受け入れキリストに接木せられ、一体とされし者を意味している。
「聖書に書いてあるとおり、その腹から生ける水が川となって流れ出る。」ああ、この偉大な神秘を理解するなら、新約の奥義のすばらしさに驚嘆せざるを得ないであろう。
〜使徒・信徒のうちより、聖霊の流出が起こる〜
@キリストご自身より聖霊の流出が起こることを知っている人は必ずしも多くはない。
これはキリストご自身の御口より語られしことばであり、
使徒パウロもそれを裏付けてかく言っている。
「神の霊の伝達、すなわち、人々に聖霊を得させ、人々を聖霊に支配されたものにすることを使命としたこの霊的奉仕」(コリントの信徒への手紙二3・8、詳訳)と。
A聖霊の発出は神よりであり、メシヤであることが聖書にしるされている。
イザヤ書12・3,25・6,32・15,35・6,43・19〜20,44・3,55・1,59・21,61・1〜3
エゼキエル書36・27,47・1〜12
ゼカリヤ書12・10,13・1
Bしかし聖書には、信ずる者のうちよりの、生ける水なる聖霊の流出もしるしている。
「あなたの心を守れ、命の泉は、これから流れ出るからである。」(箴言4・23)
「知恵(キリスト)はこれを持つ者に命の泉となる。」(箴言16・22)
「人の口の言葉は深い水のようだ、知恵の泉は、わいて流れる川である。」(箴言18・4)
「彼らは・・・・・そこを泉のある所とします。」(詩編84・6〜7)
「あなたは園の泉、生ける水の井、またレバノンから流れ出る川である。」(雅歌4・15)
「あなたは潤った園のように、水の絶えない泉のようになる。」(イザヤ58・11)
「そこでわたしが命じられたように預言すると、息はこれにはいった。すると彼らは生き、その足で立ち、はなはだ大いなる群衆となった。」(エゼキエル37・10)
「わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠の命に至る水が、わきあがる。」(ヨハネ4・14)
C何と驚くべき啓示であろう。これぞ新約の奥義中の奥義なのである。
〜新約の奥義中の奥義〜
@わたしたちがこの一事に徹し、この奥義の深みを把握し、この奥義に生きるとき、まことに経綸はみごとに実現成就されるであろう。
Aしかり、生ける水なる聖霊を、生ける水の源なる主ご自身より豊かに注がれる時、神性の流出する泉、湧き出る泉、神性の奔流する神の川となるであろう。
「主の御胸によりかかりて
福音のきよき流れを、
主の御胸の聖き泉より飲みぬ
かくて、神のみことばの恩寵を
全世界に注ぎだせり」
Bこのことばが使徒において、真に現実となるとき、神の大経綸は成就されるであろう。
C「神の川に水が満ち」、「ネゲブに川の流れるとき」(詩編126・4)、イスラエルは回復される。
Dしかり、イスラエルが生ける水を満々とたたえる、奔流する神の大河と出会うとき、14万4千のイスラエル人は、聖霊によってみごとに印せられるであろう。
E「わたしが印をおされた者の数を聞いたが、イスラエルの子らのすべての部族のうち、印をおされた者は14万4千人であった。」(ヨハネの黙示録7・4)


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