〜新契約の大祭司であるイエス・キリスト〜
@ヨハネによる福音書第17章は、全聖書中最も霊的に深遠なところ、すなわち聖心(みこころ)の至聖所といわれるところである。
ここにおいてわたしたちは、大祭司なる神の子キリストと出会うのである。
Aわたしたちの大祭司なるキリストの祈りは、まことに荘厳、その内容の高きこと、広きこと、深きこと、他に類をみざるものである。
Bこのキリストにおいて、祭司職とはいかにあるべきかを真に学ぶのである。
祭司職=神には人類を与え人には神を与えること、これである。
C旧約時代においては、大祭司は年に一度のみ、神と人との間に仲介者としてたてられ、犠牲の血をたずさえ、至誠所に入り、民のために罪のあがないをし、神と人とを和解せしめる奉仕に当たったのである。
しかし、この儀式によっては、人間の心の最奥に宿る原罪をきよめることはできなかった。
Dそれゆえにキリストは新しい契約の仲介者(ヘブライ人の手紙9・15)、新約の大祭司となり、「この御旨に基きただ一度イエス・キリストのからだ(いのち)がささげられたことによって、わたしたちはきよめられたのである。」(ヘブライ人の手紙10・10)
新契約の大祭司であるイエス・キリストは、ご自身を十字架の祭壇に、いけにえとして奉献することによって、完全無欠のあがないを成就され、その結果として、神には人類を与え、人には神ご自身を与えることに、みごとに成功されたのである。
〜キリストの最もメシヤ的なみ業は〜
@「時がきました。」(ヨハネ17・1)
イエス・キリストの生涯において、最も重大なる時、子が御父の栄光を最大限に啓示すべき時、それによって御子もまたご自身の神性の栄光を、燦然と輝かすべき時がまさにきたのである。
この時とは他ではない。大祭司として、十字架の祭壇に自己をいけにえとして奉献し、あがないを成就し万民に永遠のいのちを与える時である。
A「永遠の命とは、唯一の、まことの神でいますあなたと、また、あなたがつかわされたイエス・キリストとを知ることであります。」(ヨハネ17・3)
Bキリストの最もメシヤ的なみ業は、彼を信ずるものがひとりも滅びないで、永遠の命を得る(ヨハネ3・16)ことにある。
永遠の命という表現はきわめて抽象的であるため、ここにおいて永遠の命とはなにかを、具体的に啓示されたのである。
Cまことの神とイエス・キリストを知ること。この「知る」は単に知識的に知ることではなく、イエス・キリストとの人格的出会いを通して、真理の御霊の啓示によって、全人格的な認識のもとに、イエスの神性の栄光を知り、キリストにおいて神を体験的に知ることである。
Dここにこそキリスト教における、正しい神認識がある。
誰であっても、聖霊の啓示によらなければ、イエスは主(アドナイ)であると認識することはできず(コリントの信徒への手紙12・3)、イエス・キリストによらないでは、父のみもとに行くことができない。(ヨハネ14・6)。
真理の御霊の啓示によってこそ、「イエスは主である」との認識に達し、この認識のもとにキリストの顔において、神を見るのである。(ヨハネ14・9)
〜このかたは真実な神であり、永遠のいのちである〜
@「そして、これがそのあかし、その証拠です。すなわち、神は私たちに永遠のいのちを与えられ、そしてこのいのちがみ子のうちにあるということです。み子を持つ者はこのいのちを持っています。」(ヨハネの手紙一5・11〜12、詳訳)
これこそは決定的絶対的な体験としての認識であり把握である。
キリストの愛弟子ヨハネは、その晩年において、体験としての信仰告白として、「神の子がきて、真実なかたを知る知力をわたしたちに授けて下さった・・・・・わたしたちは、真実なかたにおり、御子イエス・キリストにおるのである。このかたは真実な神であり永遠のいのちである。」(ヨハネの手紙一5・20)と証言したのである。
Aイエス・キリストは真の神であり、永遠の命そのものである。それであればこそ、「わたしはよみがえりであり、命である」(ヨハネ11・25)、「わたしは道であり、真理であり、命である」(ヨハネ14・6)と宣言されたのである。
〜大祭司であるイエス・キリストは、人類に神を、永遠のいのちを与え得る〜
@新契約の仲保者、大祭司であるイエス・キリストは、真実な神であり、永遠のいのちであられたればこそ、人類に神を、永遠のいのちを与え得るのであり、自らの血によって万民の罪を贖い、人類を神と和解させ、神には人類を与え得たのである。
A「神と人との間の仲保者もただひとりであって、それは人なるキリスト・イエスである。」(テモテへの手紙一2・5)
厳密な意味において、仲保者たる資格を有する者は、イエス・キリストをおいて他にはない。
なぜなら、キリストのみが真実な神であり、永遠のいのちであると同時に、真実の人でもあるからである。
Bキリストはわたしたちの大祭司としてのみではなく、「キリストは神に立てられて、わたしたちの知恵となり、義と聖とあがないとになられたのである。」(コリントの信徒への手紙一1・30)
十字架につけられたキリストご自身を与えることのうちに、神の無比にして無限の愛が啓示された。
これこそは神愛の極致である。
〜ロゴスのうちにこそ永遠のいのちがある〜
@「父よ、世が造られる前に、わたしがみそばで持っていた栄光で、今み前にわたしを輝かせて下さい。」(ヨハネ17・5)
万物未だロゴスによってつくられざるさきに、久遠のはじめより、先在的に所有していた栄光を、今こそ栄光して下さるようにとの祈りである。
それは、「初めに言(ロゴス)があった。言は神であった。・・・・・この言に命があった。」(ヨハネ1・1,1・4)
このロゴスが本性的にもつ神の栄光、ロゴスが永遠のいのちである栄光を、最大限に栄光して下さいとの祈りである。
Aキリストロゴスとして永遠の先在者なること、父と一体なること、ロゴスの神であること、ロゴスのうちにこそ永遠のいのちがあること、
この栄光こそはキリストが先在的に、本性的にもっておられる栄光なることを知ってこそ、
キリストの権威、キリストの御業の驚異、その贖罪の偉大性、完全性、その効果の絶対性を真実理解することができるからである。
B誰よりもイエス・キリストと親しく交わり、キリストの本性的栄光を把握した使徒ヨハネは、
「初めからあったもの、わたしが聞いたもの、目で見たもの、よく見て手でさわったもの、すなわち、いのちの言(ロゴス)について・・・・このいのちが現れたので、この永遠のいのちをわたしたちは見て、そのあかしをし、かつ、あなたがたに告げ知らせるのである。
この永遠のいのちは、父と共にいましたが、今やわたしたちに現れたものである」(ヨハネの手紙一1・1〜2)と。
Cここでヨハネがさわったものとは、ロゴスの受肉者なる、人なるイエスではなく、ヨハネのうちに現されたる、いのちのロゴス、永遠のいのちそのものについて証しているのである。
真実なる神、永遠のいのちなるロゴスについて証言しているのである。
イエス・キリストにおいて、その神性、本質、実体、それはいのちの言(ロゴス)であるということにある。
〜ロゴスは神性の名(ハツシェ−ム)である〜
@彼ヨハネはその著ヨハネの黙示録においても、「その名は『神の言(ロゴス)』と呼ばれた」(ヨハネの黙示録19・13)としるし、
イエスとは人なるかたにつけられし名であり、キリスト(メシヤ)は称号、
ロゴスはキリストの先在的、神性のオリジナル・ネ−ムであると区別し証言するのである。
Aロゴスは神である。ロゴスは神性の名(ハッシェ−ム)であるがゆえに、名は実体であるがゆえに、このロゴスのうちにいのちがあるのは当然である。
B「聖なる父よ、わたしに賜った御名によって彼らを守って下さい。それはわたしたちが一つであるように、彼らも一つになるためであります。」(ヨハネ17・11)
C「聖」こそは神性の特性であり、超越性であり栄光である。
Dわたしに賜った御名とは、すべての名にまさる名(フィリピの信徒への手紙2・9〜11)であり、
わたしは主である、これがわたしの名である。」(イザヤ42・8)
それゆえに、「天上のもの、地上のもの、地下のものなど、あらゆるものがひざをかがめ、また、あらゆる舌が、『イエス・キリストは主(アドナイ)である』と(信仰)告白し」(フィリピの信徒への手紙2・10〜11)、キリストを礼拝すべきなのである。
〜大祭司なるキリストの祈りは〜
@大祭司なるキリストの祈りは、今やその核心にふれ、「わたしたちが一つであるように、彼らも一つになるためであります」と祈られる。
この祈りは、「わたしが聖なる者であるから、あなたがたも聖なる者になるべきである」(ペトロの手紙一1・16)とのみことばの実現成就を祈るものである。
Aこの大理想の境地を実現するためにこそ、仲保者なるキリストは、神には人を、人には神を与えることによって、人をして神の性質にあずからせ(ペトロの手紙二1・4)、これを聖なる者としようとされる。
人は神の性質、本性への参与によって、同一本性を持つことによって、神と一つとなり得るからである。
頭と体、幹と枝、かくの如き不可分的、生命的、人格的神秘体となるようにとの祈りなのである。(ヨハネ17・21〜23)
B人間の霊魂が神と一致する度合いに応じて、神性は人間のうちに浸透し、神御自身を与えられ、人はまた神に自己をことごとく明け渡し、完全に与え尽くして神のものとなり、一つとなるにいたるのである。
Cこの神人一如の境地を実現するために、神は人間にご自身を与え、御子を与え、聖霊を与え、つまり三位一体を全的に与え給うのである。
かくしてこそ人は聖化され、神化され、遂に神に同化され、予定の原型である「御子のかたち」(ロ−マの信徒への手紙8・29)に全く似たものとされるのである。
〜そしてわたしは彼らに御名を知らせました〜
@「そしてわたしは彼らに御名を知らせ(啓示し)ました。またこれからも知らせましょう。それはあなたがわたしを愛して下さったその愛が彼らのうちにあり、またわたしも彼らのうちにおるためであります。」(ヨハネ17・26)
この祈りによって、いかにしてキリストが人のうちに内住し、現存するかを示されたのである。
それは御名を啓示することによってである。
A使徒ヨハネは、その福音書をすべくくるに当たって、こうしるしている。
「以上の事がしるされたのは、あなたがたにイエスはキリスト(メシヤ)、神のみ子(神性)であると信じさせるためであり、また彼を信ずることによって、あなたがたが、彼のみ名によって、すなわち、神の本質そのものによっていのちを得るためである」(ヨハネ20・31、詳訳)と。
B彼のみ名によって、すなわち神の本質そのものによって、み名はその性質上、実体であり、したがってご自身そのものに他ならない。
C「このかたこそ真実な神であり、永遠のいのちである。」(ヨハネの手紙一5・20、エレミヤ10・10)


トップペ−ジへ戻る