@「イスラエルよ聞け。われわれの神、主は唯一の主である。あなたは心をつくし、精神をつくし、力をつくして、あなたの神、主を愛さなければならない」(申命記6・4〜5)と、律法はきびしく命じている。 ・しかるにキリスト教徒は、父と子と聖霊なる神を信じ、唯一の神を多神化するものであり、聖書の啓示よりそれるもの、異端者であると、ユダヤ教徒は批判する。 Aそれに対してキリスト教徒は、「父と子と聖霊は、三つのペルソナ(位格)であって、同一の神性(本質・実体)を共有する一体なる神である。 ・それゆえに決して三つの神々を信じているのではなく、聖書に啓示されている通り、唯一の神を信じているのである」と、神学的に定義している。 Bしかし、父と子と聖霊は三つのペルソナとして区別されておりながら、神は唯一であることを、いかにして矛盾することなく理解し得るのであろうか。 C「イスラエルの神、救主よ、まことに、あなたはご自身を隠しておられる神である。」(イザヤ45・15) D有限なる人間にとって、無限者なる神のこと、三位一体の秘儀は、まことに深い神秘である。 Eしかるに新約聖書には、三位一体の奥義について、なぜ深入りしないのであろうか。それはきわめて単純な理由によるのである。 ・この神秘はあまりにも深淵なるゆえ、人が自由勝手に入るなら、迷宮に入る危険性が多分にあるからに他ならない。 F旧新約聖書66巻の中で、三位一体の原理を、最も率直に示しているのは、ヨハネによる福音書第16章14節、15節である。 ・「御霊はわたしに栄光を得させる。わたしのものを受けて、それをあなたがたに知らせるからである。」(ヨハネ16・14) ・このみことばは、聖霊と御子との関係について語られしものである。それは、何事においても深淵な解答を期待する、神学者達の予想をくつがえすに充分な程、簡単率直なものであり、同時に期待に答える完璧なものというべきである。 ・「御霊はわたしに栄光を得させる。」御子イエスが、徹頭徹尾御父の栄光をあらわすことを使命とされし如く、聖霊は御子の栄光を顕示するものである。 |
@聖霊が人間のうちに内住されるとき、キリストご自身にスポット・ライトをあて、「御子をわたしの内に啓示」(ガラテヤの信徒への手紙1・16)し、御子の神性、その栄光を鮮やかに啓示し、御子の現存を啓示されるのである。 ・それゆえ、聖霊を受けたというよりも、御子キリストを宿したとの印象が強いのである。 Aしたがって何人も聖霊を受けずしては、真実の意味において、キリストの栄光、三位一体の神秘について知ることはできない。 Bそれではなぜ聖霊が、鮮やかに御子の栄光をみごとに顕示し得るのであろうか。 ・その理由は、「わたしのものを受けて、それをあなたがたに知らせるからである。」 ・ここに端的に表現されている通り、聖霊は御子をあますところなく、そっくりそのまま、実体的に受けとり、譲渡されている存在であるからである。 C聖霊がキリストの霊(ロ−マの信徒への手紙8・9)、イエスの御霊(使徒言行録16・7)、御子の霊(ガラテヤの信徒への手紙4・6)と呼ばれるのも、実にそのゆえである。 D聖霊は御子よりすべてを譲渡され、御子と同一本性を完全に所有するからである。 |
@「父がお持ちになっているものはみな、わたしのものである。」(ヨハネ16・15) ・このみことばは御父と御子との密接不可分の関係を示すものである。 A聖霊が御子を残りなく実体的に受けとっている如く、「けだし神性は残りなく実体的にキリストのうちに満ちみちて宿れるなり」(コロサイの信徒への手紙2・9、ラゲ訳)、「神の充満性は、すべて形をとってキリストに宿っている」(同、バルバロ訳)としるされているごとく、 ・また、「み子は神の栄光の唯一の表現であり、神の本質の完全なかたちそのものであられます」(ヘブライ人への手紙1・3、詳訳)とある通り、 ・父は子に自己の存在のすべてを与え尽くし、 ・それゆえ、子は父の神性の全充満を受け、父と全く同一本性実体を持っているのである。 B父は子に、子は聖霊に、自己を完全に譲渡し合っているのである。 Cそれであればこそ、父と子と聖霊の3つのペルソナは、唯一の神性、本質、実体を共有する、唯一の神であると言われるのである。 ・かくのごとく三位一体の内住的いとなみは、人知をもってしては理解し得ない、超自然的次元に属する神秘である。 |
@キリスト教においては、世紀の流れを通じて、父と子と聖霊の三つの位格(ペルソナ)を信じ、三つのペルソナは唯一の神性(本質・実体)を共有する、唯一の神であると、信仰告白してきたのである。 A父は生まれざる者であり、子は父より生まれた者であり、聖霊は父と子より発出する者であると信じられている。 ・ともあれこのみことばは、三つのペルソナの神性の同一性、本質の唯一性を示し、その一体性を完全に示している。 ・この意味において、このみことばは聖書中最も重要なるものである。 ・しかし、人知を超える三位一体の神秘は、とうてい何人も極めつくすことは不可能である。 B真理の御霊が来られ内住されるとき、聖霊はわたしたちを真理に導き、三位一体なる主との出会いを、みごとに体験させて下さるのである。 C父と子と聖霊の三つのペルソナにおいては、父は子に、子は聖霊に完全な自己譲渡があり、 ・完全な自己譲渡は同時に、完全な本性(神性・本質・実体)の同一性、また唯一性、一体性を形成する。 ・したがって三つのペルソナにおいては、相互の完全な内住が現存するのである。 |
@真理の御霊が来られ内住されるとき、聖霊は御子をわたしたちに啓示し(ガラテヤの信徒への手紙1・16)、御子はまた御父を啓示する(ヨハネ14・9)。 A三位は一体であるがゆえに、三つのペルソナは不可分であり、一位のいますところには、必ず他の二位も共にいますのである。 B「わたしを愛するならば、わたしの言葉を守るであろう。そして、わたしの父はその人を愛し、また、わたしたち(三位一体)はその人のところに行って、その人と一緒に住む。」(ヨハネ14・23) ・キリストの語られしこのみことばそのものが、それを示している。 ・父と子と聖霊、この三つのペルソナは一体の神であり、イエスのメシヤ性と神性を信じ、イエスを真に愛する者の霊魂のうちに、内住せられるのである。 C聖霊が来られるとき、それは聖霊のみが来られるのではなく、実に三位一体がともに内住せられるのであり、キリストが内住されるとき、キリストのみが内住されるのではなく、聖霊も父もともに現存して、一緒に住み給うのである。 D聖なる三位一体なる神の内住現存を、黙想し観想することこそ、真の霊的生活なのである。 ・だれであってもこの現実を正しく認識し理解し、生ける神の現存を楽しみ、霊的生活を完璧なもにとするなら、どれ程変貌しキリストにあやかることであろうか。 |
@使徒ヨハネは、自らそれを体験していたればこそ、「あなたがたも、わたしたちの交わりにあずかるようになるためである。わたしたちの交わりとは、父ならびに御子イエス・キリストとの交わりのことである」(ヨハネの手紙一1・3)と、すなわち、父と子と聖霊との親しき交わりのうちに導き入れようと願ったのである。 A使徒ヨハネは、かっては雷の子と言われし人であったが、最もキリストに似た聖人と言われるに至った。 ・その秘訣がここに公開されているのである。真黒の木炭も火に交わることによって、火に変貌するごとくにである。 B使徒パウロも、「私たちはみな、顔からおおいを取りはずされて、いつも主の栄光を見ている、鏡のように反映させているので、いよいよ増し加わる輝きをもって、栄光の一つの程度からさらに次の程度へと進みながら、主ご自身のみかたちへと絶え間なく化せられていくのです。この事はみ霊であられる主から来るからです」(コリントの信徒への手紙二3・18、詳訳)としるしている通りである。 ・人間は聖霊との親しき交わり、父と子との親しき交わりの体験、その度合いに応じてキリストの似姿に変容するのである。 |
@神との出会いの目指すところは、聖霊との親交によって、主と同じ姿に自己を変容せしめること、これである。 A十字架の聖ヨハネのことばをかりれば、「神は、霊魂を三位一体に一致させ、この一致によって霊魂は神化され、参与によって(ある意味において)神となる」(霊の賛歌)と言っている。 ・彼の美しい表現によれば、「あなたの美において、あまりにも変化され、美において、あなたに似たものとなり・・・・・・私はあなたの美のなかにすっかり吸収され、あなたの美のみとなり・・・・・それで私は、あなたの美において、あなたのようになり、私の美はあなとの美、あなたの美は私の美である」と。 B三位一体の神と、霊魂との実体的一致に時間をかけてこそ、聖霊のくまなき浸透を受け、神性への参与によって、聖化され神化され、変容されるのである。 C三位一体なる主との出会いこそは、くめども尽きぬ無尽蔵の泉である。 D「父よ、あなたが私のうちにおられ、そして私があなたのうちにおりますのとちょうど同じように彼らがみな一つとなりますように。それは彼らもまた私たちのうちで一つとなるためです。」(ヨハネ17・21、詳訳) ・この祈りはキリストご自身が、まさに世を去り、御父に帰り給うとき、切実に願い給いしものである。 ・それは三位一体なる主との出会い、三位一体なる神との親しき交わりへの祈りに他ならない。 D父は子のうちにあり、子は父のうちにある。 ・それはまことに父は御子に、全存在を完全に譲渡し、御子に残りなくご自身を与え尽くし、御子のうちに現存し、子もまた完全に全存在を御父に譲渡し、御父のうちに内従し、かくして父と子は同一の神性、唯一の本質、実体を共有する神であることを示している。 |
@「わたしを見た者は、父を見たのである」(ヨハネ14・9)とイエス・キリストが宣言されしは、けだし当然であり、「わたしと父とは一つである」(ヨハネ10・30)と宣言されしも、真実であればこそである。 A父と子と聖霊、この三つのペルソナは、一つの神であり、三つの神ではない。 ・なぜなら、父の全存在は子のうちにあり、聖霊のうちにあるからであり、子の全存在は父のうちにあり、聖霊のうちにあるからであり、聖霊の全存在は、父のうちにあり、子のうちにあるからである。 |