〜聖霊の神性、また父と子との一体性をも示している〜
@聖霊を受けずとも、キリスト教の宣教者にはなり得るとしても、聖霊を受けずしては、生けるキリストの証人には、決してなり得ないのである。
A誰でも人なるイエス・キリストの人格を、皮相的にある程度知ることは容易であるが、キリストの神性・本質・その栄光を知ることは、聖霊の感化、啓示によらなければ不可能である。
「聖霊によらなければ、だれも『イエスは主(アドナイ)である』と言うことができない」(コリントの信徒への手紙一12・3)と、しるされている通りである。
B誰であっても、真に生けるキリストの証人たらんことを望むなら、まず何よりも聖霊との出会いが、不可欠の必要条件となるのである。
C聖書は聖霊に関して、
神の霊(歴代誌下15・1、ロ−マの信徒への手紙8・9)
主の霊(イザヤ11・2)
主なる神の霊(イザヤ61・1)
父の霊(マタイ10・20)
イエスの御霊(使徒言行録16・7)
キリストの霊(ロ−マの信徒への手紙8・9)
御子の霊(ガラテヤの信徒への手紙4・6)
と呼んでおり、明らかに聖霊の神性、また父と子と聖霊との一体性をも示している。
Dイエス・キリストが聖霊の派遣について、親切に語り始められたのは、ご自身の十字架による死が切迫し、地上より御父のもとに帰還されるそのときが、近づいた時点においてであり、それは同時に聖霊が派遣せられる、聖霊時代が、まさに訪れて来ようとしている必要性からであった。
E御子キリストが御父より派遣された重大使命の一つは、人類に神を啓示し(ヨハネ1・18、14・9)神の栄光を顕示することにあった如く、聖霊の派遣の一つの目的は、御子の栄光を顕示し(ヨハネ15・26)、わたしたちをしてキリストの証人たらしめることにある(使徒言行録1・8)
〜この奥義は、あなたがたのうちにいますキリストであり〜
@「御霊はわたしに栄光を得させる。わたしのものを受けて、それをあなたがたに知らせるからである。」(ヨハネ16・14)
なぜなら、聖霊はイエスの御霊、キリストの霊、御子の霊と呼ばれている如く、キリストの御霊、キリストより発出する御霊に他ならないからである。
それゆえ聖霊が臨まれるとき、われらのうちに鮮明に啓示されるのは、実にキリストご自身の現存である。
「御子をわたしの内に啓示して下さった」(ガラテヤの信徒への手紙1・16)と、使徒パウロが言っている通りである。
A「わたしが去って行くことは、あなたがたの益になるのだ。わたしが去って行かなければ、あなたがたのところに助け主(聖霊)はこないであろう。もし行けば、それをあなたがたにつかわそう。」(ヨハネ16・7)
地上において肉体をもったキリストの現存は、場所的に制限され、時間的に制約され、それは一時的であり、外面的であるが、聖霊時代においては、全世界の、イエスの神性とメシヤ性を信ずる、イエスを愛する者のうちに、聖霊によって霊なるキリストが内住され、いつまでもともに住み給うからに他ならない。
B「この奥義は、あなたがたのうちにいますキリストであり、栄光の望みである。」(コロサイの信徒への手紙1・27)
〜内住のキリスト〜
@「わたしはキリストと共に十字架につけられた。生きているのは、もはや、わたしではない。キリストが、わたしのうちに生きておられるのである。」(ガラテヤの信徒への手紙2・19〜20)
第一は、「わたしたちの内の古き人はキリストと共に十字架につけられ」(ロ−マの信徒への手紙6・6)、キリストの死に霊的に現実的にあずかることである。
第二は、バプテスマが意味するごとく、キリストのうちに浸されることにより、キリストの神性、そのいのちの浸透を受けることによって、新しきいのちによみがえらせられ、キリストのいのちに生きるものとされ、同時にキリストご自身が、わたしのうちに在って、今を生きられること、これである。
Aキリストがわたしのうちに在って現存される。
ああ、いかに驚くべき神秘であろうか。それは単なる憧憬、理想ではなく、それはどこまでも体験としての現実なのである。
自分自身の内奥に、キリストの現存を見いだす喜びは、自分の生活がイエスの人性の延長再現、もうひとりのキリストたる自覚を強くするのである。
B聖霊はわたしたちの全存在に浸透し、聖化し、遂にキリストの形を完成し、全く変容せしめ給うのである。
〜聖霊の印〜
@聖霊が臨み現実的に内住されるとき、どのようにしてそれを認識し、聖霊を受けたという、明確な保証は、何によって証明され得るか。
Aその重大問題について聖書は何と言っているかである。
「助け主、すなわち、父がわたしの名によってつかわされる聖霊」(ヨハネ14・26)とのみことばは、御子が父の名によってつかわされし如く(ヨハネ5・43、12・13)聖霊もまた御子の名によって、つかわされるとしるされていることである。
Bイエスという名は「神の貌(かたち)」なる御子の本性的御名ではなく、「僕の貌(かたち)」をとりて来たり給うた、人なる御者につけられし人的名である。
Cイエスはご自身の神性を啓示する時、エゴ−・エイミ、私は有るを使用され、出エジプト記第3章14節「わたしは有って有る者」と同一者なることを啓示された。
わたしは主である、これがわたしの名である」(イザヤ42・8)と、ご自身の神的御名を啓示されている。
D人と人が初対面の出会いの時、各自の名を名乗り、自己紹介する如く、神が人と出会われるときもまた同様である。
「主はアブラムに現れて言われた、『わたしは全能の神である(アニ−・エル・シャダイ)』(創世記17・1)と御名を名乗り、それによってご自身を啓示されたのである。
E父と子と聖霊は三つのペルソナであるが、唯一の神性・本質を共有する一体なる神であるゆえに、「われは主なり」との御名をも、共に名乗られるのである。
F聖霊が臨まれるとき、「われは主なり」と御名を啓示し、人の心の最奥に、墨によらず生ける神の霊により、御名(ハッシェ−ム)を書かれ、印されるのである(コリントの信徒への手紙二3・3)。
Gこれが聖霊の印である。
「神はまた、わたしたちに証印をおし、その保証として、わたしたちの心に御霊を賜わったのである。」(コリントの信徒への手紙二1・22)
「あなたがたもまた、キリストにあって、真理の言葉、すなわち、あなたがたの救いの福音を聞き、また、彼を信じた結果、約束された聖霊の証印をおされたのである。
この聖霊は、わたしたちが神の国をつぐことの保証であって、やがて神につける者が全くあがなわれ、神の栄光をほめたたえるに至るためである。」(エフェソの信徒への手紙1・13〜14)
H聖霊の印、印にはそのものの名が刻銘されておらなければならない。
印は名を啓示し、名は実体をあらわすものである。実印が押されていてこそ法的に保証されるのである。
聖霊の印あってこそ、神の子の保証、終わりの日における復活の保証、神の国をつぐことの保証なのである。
〜聖霊の印の重要性〜
@ヨハネ黙示録には、聖霊の印の重要性について次の如くしるしている。
「これを受ける者のほかだれも知らない新しい名が書いてある。」(ヨハネの黙示録2・17)
「彼の上に、わたしの神の御名と、・・・・・・・・・わたしの新しい名とを、書きつけよう。」(ヨハネの黙示録3・12)
「生ける神の印・・・・・印を押された者・・・」(ヨハネの黙示録7・2〜4)
「その額には小羊の名とその父の名とが書かれていた。」(ヨハネの黙示録14・1)
「その僕たちは彼を礼拝し、御顔を仰ぎ見るのである。彼らの額には、御名がしるされている。」(ヨハネの黙示録22・3〜4)
A以上のみことばは、明白に、聖霊の印がまことに神の国をつぐことの保証であることを示す実例である。
B御国において、至福直観のうちに、神の御顔を仰ぎ見る人々の一致せる特徴は、彼らの人格の最奥に、御名が印されている事実に留意すべきである。
C印を押すことの秘儀の一つは、そのものの姿を複写、再現することである。聖霊の印によってこそ、キリストの似姿ともなり、キリストの再現ともなり得ることを意味している。
D聖霊の印によって「御子のかたちに似たもの」(ロ−マの信徒への手紙8・29)とされ、「キリストの形が完成される」(ガラテヤの信徒への手紙4・19)のである。
E「主は霊である。そして、主の霊のあるところには、自由がある。わたしたちはみな、顔おおいなしに、主の栄光を鏡に映すように見つつ、栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられていく。これは霊なる主の働きによるのである。」(コリントの信徒への手紙二3・17〜18)
聖霊の派遣、聖霊との出会い、内住の目指すところは、人間の聖化、人間のキリスト化、人間の神化にある。
それゆえ、人間の成聖、全き愛の完成は、聖霊に充満された度合い、キリストとの一致の度合いに応じて、キリストの御姿へと変貌することによるのである。


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