〜キリストがわたしのうちに生きておられる〜
@「あなたがたのいのちは、キリストと共に神のうちに隠されているのである。わたしたちのいのちなるキリストが現れる時には、あなたがたも、キリストと共に栄光のうちに現れる。」(コロサイの信徒への手紙3・3〜4)
真のキリスト者にとって、キリストこそはまことに霊魂の命そのものなのである。
キリストと共に神のいのちに生きる神秘体、それがキリスト者なのである。
A体こそは、頭なるキリストを現在において生き生きと啓示する器官であり、キリストは体なる教会によってこそ、ご自身を啓示するのである。
わたし達のうちに今を生きているキリストを、鮮やかに映し出すことこそ体なる教会の使命である。
Bヨハネによる福音書第15章にある、ぶどうの木の譬えは、枝なる教会がキリストに接木せられ、「キリスト・イエスにあって神に生きる」(ロ−マの信徒への手紙6・11)
恩寵の生涯、豊かに実を結ぶ生涯について、同時にまた、「キリストが、わたしのうちに(今を)生きておられる」(ガラテヤの信徒への手紙2・20)
神秘的生活について語っているのである。
Cぶどうの木の価値は唯ひとつである。それはよき実を豊かに結ぶことにのみある。
そのためにはいくつかの条件を必要とする。
その第一は、適度適切なる剪定が必要とされている。
それゆえぶどうの剪定は徹底的に行われる。
無駄枝が適度に排除されることによってこそ、豊かに甘味な実を結ぶからである。
〜この霊戦に打ち勝つてこそキリストの再現ともなり得る〜
@聖霊を受けし後も自我は存在する。
約束の地の中にエリコが存在せし如く、自我こそは霊的エリコである。
自我なるエリコは、ヨシュアなるイエスによって、徹底的に崩壊せしめられない限り、絶え間なく枝をはる。
それゆえ痛き剪定を必要とするのである。
ある時は健康、世的な幸福、財宝、必要とあらばその人の愛する人すらも、時には取り除き給うのである。
これらのきよめはもっぱら外的なものである。
A自我は間断なく十字架に釘付けるべきもの、しかしてキリストこそわたしにあって生き給うべきものなのである。
Bこの霊戦に打ち勝ってこそキリストの再現ともなり得るのである。
〜霊的生活の頂点とは・・・・・・〜
@「あなたがたは、わたしが語った言葉によって既にきよくされている。」(ヨハネ15・3)
「わたしが語った言葉」は単数であって、多くの語られしことばではなく、命の言、永遠のいのちそのものが内蔵されていることばを示している。
このいのちのことばによってこそ聖化されるのである。
このきよめは外的外科的ではなく、いのちのことばが人の最深部に宿り、内部より根本的にきよめられるのである。
いのちの言による内部的きよめは、神性に参与せしめ本質的に聖化するものである。
A枝のいのちの成長と、豊かに実を結ぶための不可欠条件は、絶え間なきキリストとの一致、交わりにこそある。
B神との一致の霊的生活によって、キリストのいのちの充満を受けてこそ、その度合いに応じて実を結ぶのである。
C内住のキリストご自身こそは、わたしたちにとってすべてのすべてである(ヨハネ15・5)。
D霊的生活の頂点とは、「わたしにとっては、生きることはキリストである」(フィリピの信徒への手紙1・21)をみごとに実現することである。
この境地に到達してこそ、鮮やかに目に見えるようにキリストを全存在において表現し、神の栄光の顕示ともなり得るのであり、真実自分自身の生活が、キリストの再現であるとの霊的現実を発見するに至るのである。
しかるに世には、内住のキリストの現存をもつことなくして、使徒職において成功を夢みている人々の何と多きことであろうか。
〜わたしがあなたがたを選んだのである〜
@枝が生きる道は唯一、実を豊かに結ぶ方法手段も唯一、幹であり頭であるキリストご自身に密着し、時々刻々、幹より流れくる樹液なる聖霊を、豊かに吸収し充満せしめること、これである。
Aキリストと密接に一致し、キリストに在って神に生きる生活、そのもののみが神のための生活を営むのである。
十字架の聖ヨハネは、「神との一致の状態は、霊魂の意志が全部的に神の意志に変化されることである」と言っている通り、
人間の心の最深部において、神への愛のために自己意思を完全に放棄し、ただ神の意志のみを追及し、キリストの意志を完全に自分自身の意志そのものとすることにある。
すべてにおいてただキリストのみがすべてを意味するのである。
B「わたしの愛のうちにいなさい。」(ヨハネ15・9)
キリストへの純粋な愛が、そしてキリストの愛がこの奇跡を可能とする。
キリストの愛の中にとどまり続けること、そのとき水はぶどう酒に完全に変化され、キリストの愛そのものに変化されて、聖なる愛となる。
キリストとの変化的一致が最高潮に達するとき、霊魂は自分のうちに現存されるキリストご自身を生き生きと実感し、
「生きているのは、もはや、わたしではない。キリストが、わたしのうちに生きておられるのである」(ガラテヤの信徒への手紙2・20)
「わたしにとっては、生きることはキリストである」(フィリピの信徒への手紙1・21)
とのみことばは単なる理想ではなく、まことに現実となるのである。
C「あなたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたにとどまっているならば、なんでも望むものを求めるがよい。そうすれば、与えられる。」(ヨハネ15・7)
D「わたしがあなたがたを選んだのである。そして、あなたがたを立てた。それは、あなたがたが行って実をむすび、その実がいつまでも残るためであり、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものはなんでも、父が与えて下さるためである。」(ヨハネ15・16)
キリストの使命の一つは祭司職である。
使徒とは、キリストに在るもうひとりキリストに他ならない。
キリストとの深い一致結合によって、もはや自分の意志を完全に放棄し、キリストご自身の意志を己が意志としなければならない。
〜聖霊のくまなき御浸透により、・・・・キリストを反映する明鏡となる〜
@イエス・キリストの祭司職は、十字架上に自分自身をいけにえとしてほふることによって絶頂に達した。
キリストと真実一致しているもうひとりの祭司は、キリストにならい、キリストの愛にうながされ、人類の救いのために、「人がその友のために自分の命を捨てること、これよりも大きな愛はない」(ヨハネ15・13)との教訓を、身をもってなし遂げるであろう。
キリストの愛がかりたててそうさせるのである。
Aキリストとの一致によって、キリストの意志にとけ入りしものは、キリストの祈りに参与する。
「わたしの思いのままにではなく、みこころのままになさって下さい。」(マタイ26・39)
キリストに在る祭司の祈り、換言すれば祭司のうちに生きるキリストの祈りでもある。
A「主につく者は、主と一つの霊になる。」(コリントの信徒への手紙一6・17)
人々に聖霊を伝達することを使命とする使徒職、人には神を与え、神には人を与える祭司職においては、主と全く一つの霊となることを前提とする。
キリストとの親しい交わりによって、生ける水の源から豊かに飲んだ使徒のうちより、生ける水なる聖霊は、聖書にかいてある通り、その腹より川となって流出する。
かくしてこそキリストの贖いのみ業に参与し、神の協力者ともなるのである。
B使徒職の秘訣はただ一つ、絶え間なくキリストに一致し、神のいのちそのものに生かされ、神に充満され支配される神の人。
C聖霊のくまなき御浸透により、いのちなるキリストのいのちの表現となり、キリストを反映する明鏡となる。


トップペ−ジへ戻る