〜観想的生活のシンボル的存在〜
@「マルタは給仕をしていた。」(ヨハネ12・2)
マルタはいつも主への愛のゆえに、いたれりつくせりのもてなしを、との思いに捕らえられ、われを忘れて、いそがしく夢中になって働く。
それは間違いなくイエスのためになされる愛の行為である。
A「マリヤは高価で純粋なナルドの香油一斤(328g)を持ってきて、イエスの足にぬり、自分の髪の毛でそれをふいた。すると、香油のかおりが家いっぱいになった。」(ヨハネ12・3)
マリヤは、観想的生活のシンボル的存在である。
彼女の特色は常にイエスのそばに、イエスと共なる生活の中に、イエスへの愛の奉仕の場所を見いだすのである。
Bキリストと共なる霊的生活、キリストとの完全な一致の天的生活、神のためのみ生きる生活。
C愛はデリケ−トであり、敏感であって、愛するものの心の最も深いところにまで、とどくことを望むものである。
Dマリヤは誰よりも深くイエスの心の内部にまで入り、イエスが今最も希望していることを感じとっていたのである。
Eそれは常日頃の観想生活によって、その深みにおけるイエスとの交流によって感得したのであった。
Fマリヤはイエスのことばを注意深くきくことによって、情勢の分析判断、何よりもイエスへの強い愛によって、その澄み切った霊的レ−ダ−によって、イエスの死の切迫を誰よりも早くキャッチし予感していたのである。
Gイエス・キリストがベツレヘムに御降誕されし時、東方から訪れたひとりの博士は、霊的予感によって、メシヤへの贈り物として没薬を献げた(マタイ2・11)。
H彼はそのとき幼子イエスに出会ったというよりも、世の罪を負い、己が犠牲の死によって、人類を罪より贖いたもう、没薬なるキリストに出会い、うやうやしく礼拝をささげたのであった。
Iマリヤは今ここで没薬なるメシヤに出会っているのである。
Jイエスは言われた、「よく聞きなさい。全世界のどこででも、福音が宣べ伝えられる所では、この女のした事も記念として語られる」(マルコ14・9)と。
K愛そのものにましますキリストは、愛を何ものにも超えて高く評価し、愛を喜び嘉納される。主に真に奉仕する道は、彼を信じ、彼を純粋愛をもって愛する奉仕にのみある。マリヤの純真な愛の行為は、全世界の人々の心を強く刺激して、イエスを愛すべくうながしてやまない。
〜キリスト教は、神との出会いの宗教である〜
@「イエスは・・・・・ラザロを愛しておられた。」(ヨハネ11・5)
A彼はイエスに愛されし、世にも幸いな人であった。それゆえ彼もまたイエスを熱く愛した。
Bラザロは、よみがえりでありいのちであるメシヤご自身を、今こそ全存在をもって体験的に知ったのである。
C彼は死んだものであったが、イエス・メシヤによってよみがえらされ、イエスと共に座にあって、親しい交わりの中に入れられているのである(エフェソの信徒への手紙2・1〜6)。
D今こそラザロはイエスのうちにメシヤ性を、さらにメシヤなるイエスのうちに神性の栄光、よみがえりでありいのちである彼の栄光を拝し、恍惚と眺め入るのである。
Eベタニヤの、イエスに愛されしこの一家は、かくしてイエスのメシヤ性と、神性の深い認識に到達したのである。ラザロは今や全存在をもって、イエスのメシヤ性と神性を証明する生き証人となった。
Fそれゆえ、「大勢のユダヤ人たちが、そこにイエスのおられるのを知って、押し寄せてきた。
Gそれはイエスに会うためだけではなく、イエスが死人のなかから、よみがえらせたラザロを見るためでもあった。」(ヨハネ12・9)
Hキリスト教は単なる神学、単なる哲学宗教ではなく、神との出会いの宗教である。
Iしかるに今日キリストご自身に群衆を引きつける力を持たないのは、ラザロの如く、生けるキリスト、よみがえりでありいのちであるキリストを、全存在をもって証する生き証人が少ないためである。
〜わたしは没薬の山および乳香の丘へ急ぎ行こう〜
@生けるキリストご自身と真実に出会い、霊的復活を身をもって体験し、キリストの命そのものに今を生きつつ、存在そのものをもって、生けるキリストご自身を証明するなら、多くの人々をキリストに導くことができる。
A「そこで祭司長たちは、ラザロも殺そうと相談した。それは、ラザロのことで、多くのユダヤ人が彼らを離れ去って、イエスを信じるに至ったからである。」
B「日の涼しくなるまで、影の消えるまで、わたしは没薬の山および乳香の丘へ急ぎ行こう。」(雅歌4・6)
C愛するお方と運命を共にすることは、何とうれしく光栄なことであろうか。