〜ラザロの復活の奇跡〜
@死を直前にして、キリストがこの死者の復活という、大奇跡を行い給うたのには目的があった。
A「それは神の栄光のため、また、神の子がそれによって栄光を受けるためのものである」(ヨハネ11・4)と語られている如く、
キリストがまことに死の征服者であり、よみがえりであり命であることを啓示し、
弟子達やユダヤ人のメシヤ・イメ−ジを是正し、
罪と死の力よりの解放者、永遠の命を賦与する救い主、高次元の解放者、
さらに御自身こそ「真実な神であり、永遠のいのちである」(ヨハネの手紙一5・20)こと、すなわち父と一つなることを証明し、
イエスのメシヤ性のみではなく神性を信ぜしめることに、主目的があったのである。
Bなぜなら、「イエスは神の子(神性)キリスト(メシヤ性)であると信じるためであり、また、そう信じて、イエスの名(本質そのもの)によって命を得るためである。」(ヨハネ20・31)
〜マルタのイエスに対する信仰を高めるために〜
@「マルタはイエスがこられたと聞いて、出迎えに行った。」(ヨハネ11・20)
A「主よ、もしあなたがここにいて下さったなら、わたしの兄弟は死ななかったでしょう。しかし、あなたがどんなことをお願いになっても、神はかなえて下さることを、わたしは今でも存じています。」(ヨハネ11・21〜22)
Bマルタのことばには悲しみと希望とが入りまじっている。同時に彼女のイエスに対する信仰の正しさと、誤りとが入りまじっている。
C正しさというのは、人間的に言って万事が終わったと思われる現時点においても、心の奥底にイエスに対する期待をもっている点であり、
D誤っているのは、イエスが父と一つであり、よみがえりであり命であることを知らない点においてである。
Eそこでイエスは、マルタのイエスに対する低い信仰を高めるために、「あなたの兄弟はよみがえる」(ヨハネ11・23)と、彼女をしてよみがえりの信仰へ導こうとしてかく言われたのである。
Fするとマルタは言った、「終わりの日のよみがえりの時よみがえることは、存じています。」(ヨハネ11・24)
Gそこでイエスはきっぱりと言われた、「わたしはよみがえりであり、命である。わたしを信じる者は、たとい死んでも生きる。また、生きていて、わたしを信じる者は、いつまでも死なない。あなたはこれを信じるか。」(ヨハネ11・25〜26)
「わたしは・・・・わたしはを・・・・わたしを・・・・信じるか。」あなたが終わりの日に期待しているよみがえり、それはわたし自身のうちにあるものである。
わたしこそよみがえりであり命である。
それはやがて自らの能力で、自分を復活せしめ、また終末にすべての義人を復活せしめるわたしである。
わたしこそ復活の原動力、その復活の原動力が発動されるなら、たとえ今にても死人の復活は可能である。
わたし自身をよみがえりであり命であると信ずるものは、わたしの復活、命に参与するゆえに、たとえ死んでも生きる。
またわたしの復活なる神性、いのちなる神性を信じ、御名によって真のいのち、永遠の命に参与するものは、死に打ち勝ち、わたしのいのちそのものによって、わたしと共に永遠に生きるのである。
わたしこそ死にたる者の復活であり、真の命に生きる者のいのちである。
あなたはこれを信ずるか。復活なるキリストの神性、いのちなるキリストの神性、キリストこそ実に命と死との支配者であることを信じてこそ、キリストを真実信じたというべきであり、それを信じないなら虚偽である。
Hそこでマルタは答えて言った、「主よ、信じます。あなたがこの世にいたるべきキリスト神の子であると信じております。」(ヨハネ11・27)
Iマルタは初めにイエスを出迎えたが、今ここでイエスのみではなく、この世に来たり給うたメシヤと出会い、またイエスの神性をも信じ、神の子たるイエスを迎えたのである。
〜もし信じるなら神の栄光を見る〜
@そこでイエスは言われた、「石を取りのけなさい。」(ヨハネ11・39)
Aラザロの墓の入口は重い大きな石ぶたで閉ざされていたからである。
Bマルタは言った、「主よ、もう臭くなっております。4日もたっていますから」と(ヨハネ11・39)。
Cマルタは死の現実のみを見て、よみがえりであり命である主の大能力を見ることができないのである。
D不信仰は肉で現実のみを見て、失望落胆し、悲しむものであるが、しかし信仰は、よみがえりであり命である主を通して、その彼方にあるものを透視する。
Eイエスは彼女に言われた、「もし信じるなら神の栄光を見ると、あなたに言ったではないか。」(ヨハネ11・40)
Fまさに消えんとする信仰の火種を呼び起こし、主を信じ、主の約束に不動の信仰をもって立つようにと。
G主の御業、神の栄光を拝するために、なくてならぬ条件、それはイエスの神性とメシヤ性に対する、生ける不動不退転の信仰である。
H「人々は石を取りのけた。」(ヨハネ11・41)
I今こそ、不信仰の石ぶた、復活への障害物たる重き石をことごとく取り除けよ。
Jイエスは目を天にむけて言われた、「父よ、わたしの願いをお聞き下さったことを感謝します。・・・・しかし、こう申しますのは、そばに立っている人々に、あなたがわたしをつかわされたことを、信じさせるためであります。」(ヨハネ11・42)
K「信じさせるためであります。」イエスの張りのある大声が、大気の中に消えたとき、ただならぬ異様な雰囲気が、人々をおおった。
L天も地も一瞬深い沈黙の中に、神々しく立つイエスご自身を凝視しつつ、緊張し固唾をのむ。
M遂に深い沈黙は破られ、イエスは大声で、・・・・・「ラザロよ、出てきなさい。」(ヨハネ11・43)
N「われはよみがえりなり、いのちなり。」
Oよみがえりなるキリストの神性、命なるキリストの神性が、圧倒的な栄光を輝かせた瞬間、死はまことに命に呑まれた。死と命との対決は一瞬のうちに、命の圧倒的勝利に終わった。
P見よ、死人ラザロは・・・・・よみがえり生かされ、出て来たのである。
Qよみがえりであり命である、主との劇的な出会いは、多くのユダヤ人の霊眼をも開き、その結果、「イエスのなさったしるしを見た多くのユダヤ人はたちは、イエスを信じた。」(ヨハネ11・45)
Rヨハネによる福音書第11章には、イエスの神性(神のかたち)と、イエスの人性(人のかたち)とが、ふたつながらありありと、実に鮮明に顕されている。
S「もし信じるなら神の栄光を見るであろう。」