〜主はわたしの牧者であって、わたしには乏しいことがない〜
@詩編第23編は、善き牧者なる神との出会い、親しい交わり、体験としての賛歌なのである。
主はわたしの牧者であって、
わたしには乏しいことがない。
主はわたしを緑の牧場に伏させ、
いこいのみぎわに伴われる。
主はわたしの魂をいきかえらせ、
み名のためにわたしを正しい道に導かれる。
たといわたしは死の陰の谷を歩むとも、
わざわいを恐れません。
あなたがわたしと共におられるからです。
あなたのむちと、あなたのつえはわたしを慰めます。
あなたはわたしの敵の前で、わたしの前に宴を設け、
わたしのこうべに油をそそがれる。
わたしの杯はあふれます。
わたしの生きているかぎりは
必ず恵みといつくしみとが伴うでしょう。
わたしはとこしえに主の宮に住むでしょう。
Aヨハネによる福音書第10章において、ダビデが全存在をもって体験した、よき牧者なる主、すなわち命を与える主ご自身と出会うのである。
「わたしは門である。わたしをとおってはいる者は救われ、また出入りし、牧草にありつくであろう。」(ヨハネ10・9)
B永遠の命にいたるためには、狭き門を通過せねばならない(マタイ7・14)。
C天国の門を開くためには合鍵が絶対に必要である(マタイ16・19)。
Dこの秘訣さえ理解すれば、永遠の命を得るはやさしく、天国に入ることは容易である。
Eエルサレムの神殿に入るためには、門を通らなければならなかった。天のエルサレムに入場するためにも、また門を通らねばならない。
Fキリスト教の奥義は、その深淵な神学、また荘厳なる儀式にあるのではなく、実に生けるキリストとの人格的出会いにこそある。キリスト教はキリストとの出会いの宗教である。
G「わたしは門である。」(ヨハネ10・9)キリストご自身の、この自己啓示そのものが、一直線にキリストとの出会いへと招いている。
H生けるキリストとの人格的出会いこそ、真のキリスト教入門であり、主ご自身との人格的出会いによって、主ご自身を知ることにおいてこそ永遠の命に参与するのであり、永遠の命を得てこそ天国を獲得するのである。
I「永遠の命とは、唯一の、まことの神でいますあなたと、また、あなたがつかわされたイエス・キリストとを知ることであります。」(ヨハネ17・3)
J永遠の命の定義とは、神なるキリストを人格的に、体験的に知ること、これである。
Kそこでイエスは彼らに言われた、「それでは、あなたがたはわたしをだれと言うか。」シモン・ペテロが答えて言った、「あなたこそ、生ける神の子キリストです。」(マタイ16・15〜16)
L「わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てよう。・・・・・わたしは、あなたに天国の鍵を授けよう。」(マタイ16・18〜19)
M「これらのことを書いたのは、あなたがイエスは神の子キリストであると信じるためであり、また、そう信じて、イエスの名(本質)によって命を得るためである。」(ヨハネ20・31)
N以上のみことばによって啓示されている如くに、歴史上の人物であるイエスの神性とメシヤ性とを信ずる、正統信仰によってのみ、永遠の命が賦与されるのである。
O門なるキリストを通って救いを得、出入りして主と親しき交わりと自由を得、永遠の命の糧を豊かに得て、真の満足を得ること、これである。
〜よき羊飼い〜
@旧約聖書においては、神ご自身こそよき羊飼いなることが示されている。詩編第23編、エゼキエル書第34章11節〜16節はその代表的なものである。
A新約聖書においては、イエス・キリストご自身、「わたしはよい羊飼いである」(ヨハネ10・11)と宣言される。
Bそれは明らかに旧約において啓示されているよき羊飼いなる主こそ、ご自身に他ならないとの宣言である。
Cこれこそ否定できないイエスの神性宣言である。それを最も端的かつ鮮明に表現されたのは、「わたしと父とは一つである」(ヨハネ10・30)とのそれである。
D「わたしがきたのは、羊に命を得させ、豊かに得させるためである。」(ヨハネ10・10)このみことばのうちに、キリストがこの世に来たり給うた真の目的が鮮やかに示されている。
E「それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。」(ヨハネ3・16)
Fしかり、キリスト・イエスにあって神に生きるためである(ロ−マの信徒への手紙6・11)
G神に生きる、新しい天的神的生命にあって永遠に生きるためである。
H豊かにいのちが与えられるのは、単に自分ひとりが神の命に生きるためではなく、その命がうちより溢れ流れ、他者にいのちを分与するために他ならない。
I「よい羊飼は、羊のために命を捨てる。」
J他者に自分の命を与えるためには、条件、原則がある。それにはまず自分自身の命を捨てねばならないとの法則である。
K「モ−セが荒野でへびを上げたように、人の子もまた上げられなければならない。それは彼を信じる者が、すべて永遠の命を得るためである。」(ヨハネ3・14〜15)
L「わたしは羊のために命を捨てるのである。わたしにはまた、この囲いにいない他の羊がある。わたしは彼らをも導かねばならない。彼らも、わたしの声に聞き従うであろう。そして、ついに一つの群れ、ひとりの羊飼いとなる。」(ヨハネ10・15〜16)
M「わたしは羊のために命を捨てる。」ここにこそ福音がある。福音によってこそ命が与えられるのである。
N「この囲いにいない他の羊」とは異邦人を指し示しているのである。新約の奥義は選民イスラエル民族のみならず、全人類を愛をもって抱くのである。
O「それは、異邦人が、福音によりキリスト・イエスにあって、わたしたち(ユダヤ人)と共に神の国をつぐ者となり、共に一つからだとなり、共に約束にあずかる者となることである」(エフェソの信徒への手紙3・6)と使徒パウロの言える如くである。
P「わたしは、彼らに永遠の命を与える。」(ヨハネ10・28)
Qキリストの十字架の贖いの目指すもの、それは永遠の命の賦与にこそある。「人がその友のために自分の命を捨てること、これよりも大きな愛はない。」(ヨハネ15・13)これぞ愛の極致である。
R善き牧者なるキリストは、あの過越の夕べ、パンを取り、感謝してこれをさき、弟子たちに与えて言われた、「これは、あなたがたのために与えるわたしのからだである。」杯も同じ様にして言われた、「この杯は、あなたがたのために流すわたしの血で立てられる新しい契約である。」(ルカ22・19〜20)
S「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者には、永遠の命があり、わたしはその人を終わりの日によみがえらせる。」「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者はわたしにおり、わたしもまたその人におる。生ける父がわたしをつかわされ、また、わたしが父によって生きているように、わたしを食べる者もわたしによって生きる。」(ヨハネ6・54〜57)
(21)「このキリストにあって、建物全体(ユダヤ人と異邦人)が組み合わされ、主にある聖なる宮に成長し、そしてあなたがたも、主にあって共に(ユダヤ人と異邦人)建てられて、霊なる神のすまいとなるのである。」(エフェソの信徒への手紙2・21〜22)