〜出会い〜


〜それは彼を信じる者が、すべて永遠の命を得るためである〜
@「神はそのひとり子を賜ったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。」(ヨハネ3・16)
この一節のみことばは、小聖書と言われている程、全聖書の核心、福音の精髄を示すものである。
A聖ヨハネは神の無限絶対愛にうたれ、
「神は愛である。神はそのひとり子を世につかわし、彼(キリスト)によってわたしたちを(真の命)生きるようにして下さった。
それによって、わたしたちに対する神の愛が明らかにされたのである」(ヨハネの手紙一4・8〜9)と、絶叫したのである。
B人の子は何ゆえ天より下り、十字架にあげられ、三日目に死人の中より復活し、天に昇られたのであろうか。
「それは彼を信じる者が、すべて永遠の命を得るためである。」(ヨハネ3・15)
このみことばにおいてみるごとく、永遠の命を得るためには、ただ一つの条件がつけられているのである。
彼を信じるという条件である。
〜その奇跡の一つ一つに例外なく、神の足跡の印、しるしを発見〜
@さて、パリサイびと(ユダヤ教の厳格なる律法主義者)の中に名をニコデモという人がいた。
ユダヤ人の統治者(指導者、権威者)であった。
この人が、夜イエスのところに来て言った。
「ラビ(ユダヤ教の教師の意味)、私たちはあなたが神のもとから教師として来られたことを知っています。
というのは、神がともにおられるのでなければ、あなたのされるこういうしるしを行うことはだれにもできません。」(ヨハネ3・1〜2、詳訳)
Aサンヒドリンのメンバ−であり、律法学者であり、ユダヤ人の指導者のひとりであったニコデモが、イエスとの出会いにおいて受けた第一印象は、あまりにも強烈であった。
ユダヤ人の群衆もニコデモと共に、イエスの行われた驚嘆すべき数々の大奇跡を目の当り見たが、しかしそのほとんどの人々はそのしるしは見なかった。
しかし、ニコデモは奇跡と共に、その奇跡が象徴するもう一つの面、しるしを見逃さなかったのである。
身分の高い彼が礼を厚くしてイエスを訪問したのは、そのために他ならなかった。
Bしるしの原語である、ギリシャ語のセ−メイオンは、奇跡の背後にある源泉、力の神秘を指しているのである。
ここに一つの製品、時計がある。この場合、時計そのものよりも印されているネ−ム・マ−クを重視しているのである。
ニコデモは、イエスの行われる数々の奇跡を、驚嘆の目をもって見るのみではなく、観察者のごとく、イエスの奇跡に印されているマ−クに注目したのである。
その奇跡の一つ一つに例外なく、神の足跡の印、しるしを発見したからである。
Cそこでニコデモの到達したイエスへの結論的評価は、
「あなたは神からこられた・・・・神がともにおられる・・・・それこそはあなたが持っておられるユニ−クなしるし、印、マ−クです」と。
以上の如きが、イエスに対する、彼の分析による解答なのである。
〜人は水とみ霊によって生まれなければ、神の国にはいることは決してできない〜
@しかしこの解答はまだ、イエスは誰かとの正確な解答にはなっていない。
偉大な真理の教師でもあるイエスは、この霊的にはにぶく低い老博士を、イエスに対する正統な認識へと導こうとされるのである。
Aイエスは答えられた、「私は真実を最も真実に告げる、人はふたたび<新しく、上から>生まれるのでなければ、神の国を見る<経験する>ことはできない」(ヨハネ3・3、詳訳)と。
Bイエスの放たれし第一弾は、イスラエルの老教師にとって、強烈なパンチとなった。
なぜなら、アブラハムの子孫として生まれ、八日目に割礼を受け、宗教的には最も律法主義であるパリサイ派に属し、宗教的にも道徳的にも模範的人物として自他共にゆるし、神の国は自分のために存在するものと自負していたからである。
かくの如きユダヤ人の第一級の人物にして、新たに生まれなければ神の国に入ることができないとするなら、他はおして知るべしと言うべきであろう。
C新生、神の霊によって行われる革命、それこそはメシヤ時代の最も特色ある、救いのしるしとして、エレミヤもエゼキエルも預言しているところのものである。
Dそこでニコデモは驚きをもって言った、「人が年老いてから生まれることなどどうしてできましょうか。もう一度母の胎内にはいって生まれることができるのですか。」(ヨハネ3・4、詳訳)
新生の神秘は、この老博士の百科事典の中には無く、全く謎として理解に苦しみ、なかばなげやり的となり、皮肉まじりの質問をする。
E聖アウグスチヌスはかく言っている、
「ニコデモは、アダムとエバよりせるただ一つの出生のみを知りて、神による上よりの出生はいまだ知らない。
彼は死ぬべく己を生みし両親のみを知り、永遠の命に己を生む天の父は未だ知らない。
生まれることには二種あるが、ニコデモはその一つのみを知り、
すなわち肉によりて生まれることのみを知り、
霊によって生まれることは知らなかった。
彼はあわれにもしぬべき出生を知り、神による永遠の命への出生は知らなかった」と。
Fそこでイエスは答えられた、
「真実を最も真実にあなたに告げる、人は水とみ霊によって生まれなければ、神の国にはいることは決してできない」(ヨハネ3・5、詳訳)と。
G水と霊とによる新生は、エゼキエルの預言するところである。
「わたしは清い水をあなたがたに注いで、すべての汚れから清め、またあなたがたを、すべての偶像から清める。
わたしは新しい心をあなたがたに与え、新しい霊をあなたがたの内に授け、あなたがたの肉から、石の心を除いて、肉の心を与える。
わたしはまたわが霊をあなたがたのうちに置いて、わが定めに歩ませ、わがおきてを守ってこれを行わせる。」(エゼキエル36・25〜27)
H清い水によって象徴されている、聖霊のバプテスマによってのみ、人は新創造されるのであり、
古き己が命に死し、神の命の浸透を受けてこそ新しい命において復活するのであり、
そのとき自己の心の内に神の国を体験する。
I「わたしはキリストと共に十字架につけられた。生きているのは、もはや、わたしではない。
キリストが、わたしのうちに生きておられるのである」(ガラテヤの信徒への手紙2・19〜20)とのみことばを、文字通り体験するのである。
〜聖霊による命の更新によって、新生し神の子とならない限り・・・・・〜
@イエス・キリストとの人格的出会いを体験し、キリストと全く一体とせられ、
神の本性に参与し、
永遠の命に生かされてこそ、
人間は根本的に本質的に新生し、
義とされ、聖とされるのである。
A「肉から生まれる者は肉であり、霊から生まれる者は霊である。」(ヨハネ3・6)
自然的出生すなわち肉の親より生まれた者は、霊的遺伝の法則によって、
生まれながらにして原罪を宿しており、
堕落性、罪性を生まれながらに持っている。
Bしかし、神により霊によって新生する者は、神の性質に参与するゆえに、本質的に霊的であり神的なのである。
それはあたかも渋柿はいくら日当たりの良い環境に植え変えても、充分に肥料をほどこしても、甘柿にならないのに似ている。
渋柿を甘柿にするためには、接木することによってのみ可能である。
それは根本的な性質の変化をもたらすからである。
C「それゆえ、もしだれかがキリストにある<つぎ木>なら、その人は全く新しい創造なのです。
古いもの<従来の道徳的また霊的状態>はすでに過ぎ去ったのです。
ごらんなさい、新鮮な<全く新しい>ものが来ました」(コリントの信徒への手紙二5・17、詳訳)と、しるされている通りである。
野バラを花園に移植し、どれ程肥料を与えても、アンネのバラが咲くわけではない。
しかし、アンネのバラを野バラに接木することによって、みごとなアンネのバラが咲くのと同じ原理によるのである。
D人間の究極目的は神との一致交わりによって、自分自身をキリストに変容することにある。
E「あなたたちは新しく上から生まれなければならないと私が言ったからとて、不思議に思ってはいけない。」(ヨハネ3・7、詳訳)
人に教育をほどこすことによって、知者学者にすることは可能であっても、神の子にすることは不可能である。
第一のアダムより受け継いだ本質に変化を与えることはできないからである。
パウロもかっては自分の魂のうちに定着し、作用している原罪の法則を発見し、悲痛の叫びをあげ、
「ああ、私という人間は、全くみじめだ、悲惨だ。
私をこの死のからだ(原罪の拘束)から解放して、救い出してくれる者はだれか」(ロ−マの信徒への手紙7・24、詳訳)と言ったのであった。
Fイエスはアダムの子ら(全人類)の、新生の絶対必要性を繰り返し強調された。
聖霊による命の更新によって、新生し神の子とならない限り、何人も神の国に入ることはできないと。
〜彼を信じる者がみな、滅びないで、永遠のいのちを得る〜
@しかし、どこまでも霊的ににぶいニコデモは、「いったい、どうしてこのような事がありうるのですか」(ヨハネ3・9、詳訳)と質問する。
たとえ学者であっても、霊的次元にあってはいかに無知の深淵の中に、深く沈没しているかを自らの告白によって、さらけ出しその真相を暴露したのである。
Aイエスは同情とあわれみ、幾分の皮肉をもまじえて、「あなたはイスラエルの教師でありながら、これぐらいのことがわからないのか。」(ヨハネ3・10、詳訳)
律法学者であるあなたこそ、預言者達により語られし、メシヤによる救いの特色、しるしである御霊による新生を、
教えるべき立場にありながら、それを全く理解しないとは、と、深い嘆息をもらされたのであった。
Bイエスは選民の教師であり、またアダムの子でもあるニコデモを、人類の代表とし、全人類を対象として福音を語りかけられる。
人間が御霊によって新生し、神の国に入るためには、神の側と人間の側において、何をしなければならないかを。
Cまず神の側から言えばこうである。「だれも天に上った者はない。ただし天から下った者、天に住む人の子自身がいる。」(ヨハネ3・13、詳訳)
永遠のはじめから父とともにあった御子(ロゴス)は肉体となり、天上より一直線に地上にまで降下した。
しかしその神性の点よりすれば現に今も天にあるものである。
神の子が人となり給いしは、人を神の子とせんためである。
ただ人の子のみが天に臨在し同時に地にも現存する。
人の子が天より下ったのは、「ちょうどモ−セが荒野でへびを上げたと同様に、人の子は〔十字架に〕上げられねばならない。」(ヨハネ3・14、詳訳)
これは全人類のための罪際である。
血によらなければ罪は贖われないからである。
毒蛇にかまれし人間が、恐るべき猛毒による致命傷より救われる道はただ一つしかない。
そのための血清注射を受けることである。
Dサタンと呼ばれる老蛇にかまれ、人類を永遠の死にいたらしめる死毒たる原罪に、
むしばまれているアダムの子孫である人類は、
神のひとり子、天より下りし人の子の血、永遠の命、復活の命を受けることより他に、救いはないのである。
ここにこそ全き贖罪があるのである。
E「それは彼を信ずる者がみな、滅びないで、永遠のいのちを得るためである。」(ヨハネ3・15、詳訳)
ただイエスご自身の聖なる血によってのみ、罪は赦され、イエスの血によってすべての罪は清められ、
イエスの血の輸血によって、人は死より命に移され復活するのである。
まことに彼は世の罪をとり除く神の小羊である。
〜見よ、これはわれわれの神である〜
@永遠の命を得るための、人間の側の条件はただ一つ、単純にして何人も即座にできる条件、
すなわち彼(イエス)を信ずる(彼の神性とメシヤ性とを信ずる)こと、これである。
A「まことに、神はそのひとり子を惜しまずに与えることをさえされたほどに世(全人類)を愛された。
それは御子を信ずる者がだれも滅びないで、永遠のいのちを得るためである。」(ヨハネ3・16、詳訳)
Bここに神の比類のない愛の啓示がある。
ひとり子を犠牲にすることは、自分自身を犠牲にするよりも至難なことである。
ここに愛がある。
御子は十字架上において、何ゆえ命を捨て給うたのであろうか。
ご自身の神的生命、永遠のいのちを与えるためである。
ここに真実の愛がある。
C「永遠のいのち」は本福音書に17回もしるされている。ゆえに本福音書は、永遠のいのちの福音書とも呼ばれているのである。
D「以上の事がしるされたのは、あなたがたにイエスはキリスト(メシヤ性)、神のみ子(神性)であると信じさせるためであり、
また彼を信ずることによって、あなたがたが、彼のみ名によって〔すなわち、彼の本質(神性)そのものによって〕いのちを得るためである。」(ヨハネ20・31、詳訳)
E「主はこの山(カルバリ−山)で、すべての民のために肥えたもの(キリスト)をもって祝宴を設け、久しくたくわえたぶどう酒(聖霊)をもって祝宴を設けられる。
また主はこの山で、すべての民のかぶっている顔おおいと、すべての国のおおっているおおい物とを破られる。
主はとこしえに死を滅ぼし、主なる神はすべての顔から涙をぬぐい、その民のはずかしめを全地の上から除かれる。
これは主の語られたことである。
その日、人は言う、『見よ、これはわれわれの神である。わたしたちは彼(メシヤ)を待ち望んだ。
彼はわたしたちを救われる。
これは主である
わたしたちは彼を待ち望んだ。
わたしたちはその救いを喜び楽しもう』と。」(イザヤ25・6〜9)
Fこれぞまことに愛の宴(うたげ)、永遠のいのちの宴。
それは私達がキリストの命そのものによって、
キリストの如く、神に生きるためのうましき宴。
愛する主の現存を楽しみつつ、愛に変化せしめる甘美な宴。
Gああ十字架!
ああ感嘆すべき主の愛!
「あなたが、
わたしへの愛のために
死んでくださったように、
わたしも、あなたへの愛のために
死ぬことができますように。」(聖フランシスコ)