〜出会い〜


〜イエスは神の子キリスト〜
@紀元前730年より60年間の長きにわたり、大預言者イザヤは、メシヤに関する多くの預言を語り続けた。
「『強くあれ、恐れてはならない。
見よ、あなたがたの神は報復をもって臨み、
神の報いをもってこられる。
神は来て、あなたがたを救われる。』
その時、目しいの目は開かれ、
耳しいの耳はあけられる。
その時、足なえは、しかのように飛び走り、
おしの舌は喜び歌う。
それは荒野に水がわきいで、
さばくに川が流れるからである。」(イザヤ35・4〜6)
A以上の預言も、メシヤの来臨と、その救済についての預言である。
イスラエル民族は預言を信じ、ながい世紀の流れを通じて、メシヤを待望し続けてきたのであった。
B遂に神の時至りて、イエスは出現し多くの軌跡(しるし)を行い、
「盲人は見え、足なえは歩き、らい病人はきよまり、耳しいは聞こえ、死人は生きかえり、貧しい人々は福音を聞かされている。
わたしにつまずかない者は、さいわいである」(マタイ11・5〜6)と、
Cイエスの語られしこのことばは、実に重大な意味をもっている。
Dすなわち、預言者によって預言されし者、待ち望まれし者、わたしこそそれである、を意味しているのである。
Eしたがってイエスの行われし奇跡の神秘を解く、鍵語でもある。
F「しかし、これらのことを書いたのは、あなたがたがイエスは神の子キリストであると信じるためであり、また、そう信じて、イエスの名(彼の本質)によって命を得るためである。」(ヨハネ20・31)
〜見よ、神の幕屋が人と共にあり、神が人と共に住み〜
@「ユダヤ人の祭りがあったので、イエスはエルサレムに上られた。」(ヨハネ5・1)
エルサレムの神殿においては、年にいくつかの大際が荘厳に守られていた。
その一つ一つの祭りは象徴的な意義を持っていたが、祭りの究極的目的は、神との出会いを目指していたのである。
しかし、旧約のこれらの祭りは、新約のシンボルに過ぎず、キリストと呼ばれるメシヤこそは、その実体であった。
それゆえ、今や出現した実体が、シンボルにとって代るのは当然であった。
そのためにイエスはエルサレムに上られたのである。
A「エルサレムにある羊の門のそばに、ヘブル語でベテスダと呼ばれる池があった。」(ヨハネ5・2)
聖なるエルサレムを守るために、高い城壁がめぐらされている。
オリ−ブ山と対面する東壁には二つの門があり、その一つが有名な黄金門、今一つが羊の門である。
現在ステパノの門と言われている。そこにてステパノが殉教せしによる(使徒言行録7・59〜60)。
また、ライオン・ゲ−トとも呼ばれている。
それは門の上部左右に、ライオンの象があるからである。
Bこの羊の門を通過し、少し前進すると右側に現在聖アンナ聖堂が建っている。
聖アンナは聖母マリヤの母である。
C近代においてその一帯が大々的に発掘され、五つの廊とベテスダの池が確認され、昔日の面影を偲(しの)ばせる。
「その廊の中には、病人・盲人・足なえ・やせ衰えた者などが、大勢からだを横たえていた。」(ヨハネ5・3)
聖であるべきエルサレムの光景は、あたかも地獄の惨状を呈していた。
D聖ヨハネがヴィジョンの中に見た、新しいエルサレムはどうであろうか。
「見よ、神の幕屋が人と共にあり、神が人と共に住み、人は神の民となり、神自ら人と共にいまして、人の目から涙を全くぬぐいとって下さる。
もはや、死もなく、悲しみも、叫びも、痛みもない。
先のものが、すでに過ぎ去ったからである」(ヨハネの黙示録21・3〜4)と。
E古いエルサレムと新しいエルサレムは、何と対照的であることか。
その両極は、神不在と神の現存との相違からきているのである。
死と永遠のいのちとの両極対比である。
〜わたしは主であって、あなたをいやすものである〜
@「彼らは水の動くのを待っていたのである。
それは、時々、主の御使がこの池に降りてきて水を動かすことがあるが、水が動いた時まっ先にはいる者は、どんな病気にかかっていても、いやされたからである。」(ヨハネ5・3〜4)
Aベテスダとは、「慈悲の家」を意味するが、一説によるとこの池は間歇泉(かんけつせん)で、時として地下より冷泉が湧出して来る水を、流入させる時にこの現象が起こったとも言われている。
しかし一般的には、宗教的に「主の御使がこの池に降りてきて水を動かす」と信じられていた。
つまり、水の動かざるときは御使い不在、動く時は臨在していると信じられていたのである。
B「さて、そこに38年のあいだ、病気に悩んでいる人があった。」(ヨハネ5・5)
この人物はベテスダの池に集う病人の中にあって、ベテランであり、38年待ち望み、まことに同情にあたいするものであった。
C聖霊の臨在が起り、御名の流出、神性の流出が起こる時、
イエスの神性とメシヤ性を信じ、御名を呼び求めつつ、御名の洪水の中に飛び込む時、
次々と新参者が聖霊をみごとに受け、御名を賛美しつつ帰り行く姿を、
この男はどれ程羨(せん)望の眼指しをもって、見送ったことであろうか。
Dそれであるのに、5年たち、10年の歳月が流れ去り、もう38年になる自分自身を、しみじみあわれに思いつつ、人しれず涙にむせぶ日々を過ごしてきたのである。
この男にも一つのとりえがあった。
それは38年たってもなおあきらめないでいることである。
Eこの男はその意味において、まことにイスラエルを象徴している。
永い世紀にわたり独立を失い、苦難にあえぎながら「メシヤよ来たりませ、われらなおおんみを待ちおれば」と、メシヤを待ち望んだイスラエルに。
この男がイエスと出会うのは今がはじめてである。
しかし、イエスはその神性の全知によって、すべてを知っておられたのである。
彼が一歩も歩めないので、イエスの方から降下してこられたのである。
Fイエスは愛と同情に溢れ、「なおりたいのか」(ヨハネ5・6)と言われた。
主がかく言われたのは、病人の注意をご自身にむけしめ、彼の煮えきらない緩慢(かんまん)な信仰に、活(かつ)を入れるためであった。
この男はいつかは自分に番が回ってくるかも知れない、そのうちいつかはいやされるかも知れない、というたぐいの信仰の持ち主であった。
G善き牧者なる主は、「いためられた葦(あし)を折ることがなく、煙っている燈心を消すこともない」(マタイ12・20)愛に満ちた御者であられた。
そこで、この病人はイエスに答えた、「主よ、水が動く時に、わたしを池の中に入れてくれる人がいません。
わたしがはいりかけると、ほかの人が先に降りて行くのです。」(ヨハネ5・7)
Hもし彼が、今彼に語りかけている方が、誰であるかを知ったなら、「主よ、ダビデの子よ、わたしをあわれんで下さい」(マタイ20・30)と叫んだであろう。
彼は今目のあたり、顔と顔と合わせて見ながら、キリストの顔に輝く神の顔(コリントの信徒への手紙二4・6)を見ることができない。
その耳で語られる方のことばを聞きながら、神の子の声をまだきいていないのである。
彼が重態患者であるのは、肉体的によりも一層霊的においてであった。
I今現に彼の面前に立って語っている方こそ、「わたしは主であって、あなたをいやすものである」(出エジプト記15・26)と言われる御者なのである。
〜そののち、イエスは宮でその人に出会った〜
@彼の信仰の最大の欠陥は、いっかそのうちに、いやされるかも知れないという、不徹底かつ確信のない、無気力な惰性的信仰である。
今は恩恵(めぐみ)の時であり、救いの日である。
今というこの時、現在というこの瞬間、今期待すべきであり、今こそ信仰を生き働かすべき時なのである。
A「イエスは彼に言われた、『起きて、あなたの床を取りあげ、そして歩きなさい』。」(ヨハネ5・8)
Bこの男は今の今、信仰の眼指しをもって、イエスのうちに神の子の栄光を見、今はじめて神の子の声を霊耳をもってきいたのである。
するとその瞬間、バネ仕掛けの人形の如く、躍(おど)り上がり神を賛美しつつ駆け回ったのである(ヨハネ5・9)
C待ち望まれしメシヤ、契約の主がエルサレムに上って来られたからである。
「その時、目しいの目は開かれ、
耳しいの耳はあけられる。
その時、足なえは、しかのように飛び走り、
おしの舌は喜び歌う。
それは荒野に水がわきいで、
さばくに川が流れるからである。」(イザヤ35・5〜6)
Dかくして、イザヤの預言はイエス・キリストにおいて、文字通り実現成就されたのである。
この不治の病者の完全回復は、しるしとして与えられたものである。
死よりいのちへの霊的復活のシンボルとして。
それはメシヤによる新しい命の獲得、霊的安息に入るシンボルでもあった。
E「その日は安息日であった。」(ヨハネ5・9)
安息日にそのしるしが与えらたことが、それを暗示している。
しかし、形式主義、律法主義のユダヤ人達にとって、それは躓(つまず)きとなり、イエスは安息日を破るもの、モ−セに反逆するものとして告発されたのである。
F「しかし、このいやされた人は、それがだれであるか知らなかった。群衆がその場にいたので、イエスはそっと出て行かれたからである。」(ヨハネ5・13)
G「そののち、イエスは宮でその人に出会った。」(ヨハネ5・14)
彼は自分をいやしてくれた方の名を、今まで知らなかった。
いやした方がメシヤであることは体験的に知ったが、そのメシヤがイエスという名であることをはじめて知ったのである。
イエスとのこの出会いによって、イエスの神の子キリストたることを改めて知ったのである。
〜自分を神と等しいものとされた〜
@「彼は出て行って、自分をいやしたのはイエスであったと、ユダヤ人たちに告げた。」(ヨハネ5・15)
メシヤに出会った感動、メシヤによっていやされた感激をユダヤ人に証するためにであって、決して恩人を裏切る告発行為としてではない。
A「そのためユダヤ人たちは、安息日にこのようなことをしたと言って、イエスを責めた。」(ヨハネ5・16)
イエスが祭りの時、エルサレムにおいて、しかも安息日にこのことをなされたのは、イエスこそ祭りの主であり、安息日の主であり、モ−セよりも偉大な者であり、モ−セの上に立つ主であることを示すためであった。
この偉大なしるしによって、ご自身の神性を啓示されたのであったが、霊的に暗いユダヤ人達にそれは理解されるよしもなかった。
Bそこでイエスは彼らに答えられた、「わたしの父は今に至るまで働いておられる。わたしも働くのである。」(ヨハネ5・17)
イエスがここでわたしの父と言われたのは、特別な意味においてであった。
父と子とのみがもつ親密不可分の関係を意味していた。
ユダヤ人達はイエスのこの証の重大性を文字的にのみ理解したがゆえに、一層激昂(こう)し、もはやかくの如く神を冒とくする人物を、生かしておくことは許されないと決意する。
C「イエスが安息日を破られたばかりではなく、神を自分の父と呼んで、自分を神と等しいものとされたからである。」(ヨハネ5・18)
安息日を破ることは自己をモ−セの上に置く、破廉恥的行為であり、神を独特な意味で父と呼ぶことは、神との平等性の主張であり、
それは自分を神にまつりあげる冒涜的行為であり、神の単一性を多様化する、ユダヤ教神学の破戒者、恐るべき異端者とみなしたからである。
〜イエスご自身こそ命そのものであり、・・・・・神性のしるしである〜
@そこでまたイエスは彼らに答えて言われた、
「よくよくあなたがたに言っておく。子は父のなさることを見てする以外に、自分からは何事もすることができない。
父のなさることであればすべて、子もそのとおりにするものである。」(ヨハネ5・19)
Aユダヤ人が冒涜であると非難したのを弁解せず、かえってそれこそ私において真理であると強調されたのである。
このことばは父と子との内面的一致、意志の統一性、行動の一体性を示すものである。
B「すなわち、父が死人を起して命をお与えになるように、子もまた、そのこころにかなう人々に命を与える。」(ヨハネ5・21)
イエスのこの宣言は極めて重大である。
なぜなら、神の眼差しのもとでは、すべての人間が死人とみなされているからである。
これから死ぬのではなく、すでに現在死んでいるのである。
C使徒パウロも、「自分の罪過と罪とによって死んでいた者」(エフェソの信徒への手紙2・1、5)と言っている通り、原罪と罪過によって霊的に死んでいるのである。
この霊的死人にとり絶対必要なものは、永遠の命に他ならない。
イエス・キリストによる救いとは、単に人間が犯した罪の赦しのみではない。
永遠の命の賦与によって、霊的死人を霊的に復活させ、、罪と死より解放し、神において永遠に生きるものとするにある。
Dイエスの権威の第一は、イエスご自身こそ命そのものであり、かつ命の分配者、賦与者であるということ、
命を与えることは神の権能であり、その神性のしるしである。
〜このしるしは、霊的死人が神の子の声を聞く時、霊的に復活するシンボル〜
@「父はだれをもさばかない。さばきのことはすべて、子にゆだねられたからである。」(ヨハネ5・22)
イエスの権威の第二は、審判は神の大権に属するが、その大権がイエスに与えられていることである。
その実例がルカ福音書にしるされている(ルカ5・17〜26)。
その最大の理由は、人を裁くためではなく救うために来られたメシヤ、
人類の罪を自らに背負いて十字架にかかり、贖罪のみ業を成就し、
しかして彼を信ずる者に永遠の命を賦与するメシヤ、
そのメシヤを拒否するものを、審判する権利は当然キリストにあるべきであるからである。
A「それは、すべての人が父を敬うと同様に、子を敬うためである。」(ヨハネ5・23)
父と子との平等性の主張であり、父に対する敬神行為を子にも与えるべきであり、
父と同等に礼拝すべきであることを意味している。
B「自分を神と等しいものとされた」(ヨハネ5・18)とユダヤ人が言ったことは、全くその通りである。
彼らはイエスの語られたことばの意味は理解したが、イエスをそのように信じようとはしなかったのである。
C「よくよくあなたがたに言っておく。わたしの言葉を聞いて、わたしをつかわされたかたを信じる者は、永遠の命を受け、またさばかれることがなく、死から命に移っているのである。」(ヨハネ5・24)
いのちの根元である大生命、大ロゴスより発出するいのちのことば、すなわち神の種の賦与によって、神のいのちに参与せしめられ、かくして死より命に移されるのである。
イエスがいのちを与え得るのは、彼が真実なる神であり、永遠の命そのものであられるからである。
そのいのちは来世においてではなく、今、現在において、現実的に実体的に与えられるものである。
今いのちを持つ、これこそはヨハネ神学の核心をなすものである。
D「死んだ人たちが、神の子の声を聞く時が来る。そして聞く人は生きる。」(ヨハネ5・25)
38年の不治の病人が、神の子の声を聞いた瞬間、完全回復したこのしるしは、
霊的死人が神の子の声を聞く時、霊的に復活するシンボルであり、
死より命に移されしものの予表である。
〜第一の復活に与る者は幸いである〜
@神の子を信ずるものは救われ、「信じないものは、すでにさばかれている。
神のひとり子の名を信じることをしないからである。」(ヨハネ3・18)
A「このことを驚くには及ばない。墓の中にいる者たちがみな神の子の声を聞き、
善をおこなった人々は、生命を受けるためによみがえり、
悪をおこなった人々は、さばきを受けるためによみがえって、それぞれ出てくる時が来る。」(ヨハネ5・28〜29)
ここで語られた復活は霊的復活についてではなく、あきらかに体の復活、終わりの日の復活を示している。
旧約の預言者ダニエルも、そのことを預言している。
「また地のちりの中に眠っている者のうち、多くの者は目をさますでしょう。そのうち永遠の生命にいたる者もあり、また恥と、限りなき恥辱を受ける者もあるでしょう。」(ダニエル12・2)
Bヨハネの黙示録20章においては、義人の復活と罪人の復活とについて、1章をついやし、極めてリアルにしるしている。
罪人は最後の審判を受けるために復活し、審判され断罪されて、例外なく第二の死、すなわち永遠の滅亡に入るのである。
Cそれゆえ、今神の子の声を聞き、イエスの神性とメシヤ性を信じ、彼の御名によって永遠の生命を与えられ、第一の復活に与(あずかる)る者は幸いである。
その人は第二の死を経験することがないからである。
〜イエスの神の子たる証明〜
@第一の証明は、メシヤの先駆者として、神よりつかわされた、先者ヨハネの証明である。
彼はイエスを指し示し、「世の罪を取り除く神の小羊」(ヨハネ1・29、36)、
「その人こそは、御霊によってバプテスマを授けるかたである。このかたこそ神の子である」(ヨハネ1・33、34)と証明したからである。
A第二の証明は、「今わたしがしているこのわざが、父のわたしをつかわされたことをあかししている。」(ヨハネ5・36)
イエスの行われる奇跡そのものが、彼が全能の神であることを、疑う余地なく雄弁に証明している。
B第三の証明は、「わたしをつかわされた父も、ご自分でわたしについてあかしをされた。」(ヨハネ5・37)
「これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である。」(マタイ3・17)
神ご自身の証明こそは絶対であり、最大の証明である。
C第四の証明は、「この聖書は、わたしについてあかしをするものである。」(ヨハネ5・39)
聖書の預言も、聖書歴史における象徴的なことも、すべての祭とその儀式も、なべては神の子でありメシヤである、イエスご自身に集中され、
イエスご自身を指し示し、主ご自身をあかしするものである。
D第五の証明は、「モ−セは、わたしについて書いたのである。」(ヨハネ5・46)
ユダヤ人の最大の誇りである、偉大な立法者モ−セ自身、イエス・キリストご自身を指し示し、あかししているのである(創世記3・15、12・3、49・10、申命記18・18〜19)
Eこれ程多くのすばらしい有力な証明がある以上、なおこの上にイエスのキリストたること、神の子たることの証明の必要性があるであろうか、との意味である。
Fすべて彼を信ずる者の代表者として、使徒団の頭(かしら)として選ばれし、ペテロがイエスご自身に対して、信仰告白したあの告白、
「あなたこそ、生ける神の子キリストです」(マタイ16・16)を、今一度告白しつつ、イエスを礼拝しよう。