〜わたしが命のパンである〜
@カペナウム(ナホムの村の意)は、主イエス・キリストの公生涯における、宣教のセンタ−であった。
カペナウムはキンネレテ湖畔にあり、風光明媚にして交通の要所であり、当時の人口は5万を越え、関税、ロ−マ駐屯軍の所在地もあり、植民地的雰囲気と活気とに満ち溢れ、繁栄を誇っていた。
そこには芸術的に美しい、みごとな彫刻をほどこした、大理石造りの堂々たるユダヤ教のシナゴクが建っており、人々に強い印象を与えた。
シナゴクには、好奇心と、野次馬的心理にかられた群衆が、イエスをとり巻いていた。
イエスの弟子達も多く参加していたが、その神秘的なメッセ−ジを理解するものは少なかった。
A「朽ちる食物のためではなく、永遠の命に至る朽ちない食物のために働くがよい。これは人の子があなたがたに与えるものである。」(ヨハネ6・27)
Bそこで、彼らはイエスに言った、「神のわざ(複数形)を行うために、わたしたちは何をしたらよいのでしょうか。」
ユダヤ人がかく言ったのは、律法が命ずる数多くの善行を行うことによって、永遠の命は与えられるべきものとの思想からである(ヨハネ6・28)。
Cイエスは彼らに答えて言われた、「神がつかわされた者を信じることが、神のわざ(単数形)である」と。
イエスの解答は単数であり、イエスこそ、神が人類に永遠の命を与えるためにつかわされし約束のメシヤと信じるこの一事のうちにあることを、暗示されたのであった。
ここにおいても律法と福音とが対比されており、イエスと群衆との間には、次々と問答がくりかえされる(ヨハネ6・29)。
Dイエスは遂に大胆率直に言われた、「わたしが命のパンである」と。
このイエスの宣言、自己啓示は、ユダヤ人の度胆(どぎも)を抜く程驚かすに充分であった。
「被造物はすべて生きるために、食物を摂らねばならない。
神が天地創造のとき、木や草をつくられたのは、すべての動物がそれぞれに合った食物を摂るためであった。
人間の霊魂もまた食物を必要とする。
人間の霊魂の食物はどこにあるであろうか。
神は人間の霊魂のために、なくてはならない食物を、被造物の中に物色されたが、適当なものが一つもなかった。
そこで神はご自身をかえりみ、遂にご自身を与えようと決意されたのであった。
おお、霊魂、人間の霊魂は何と偉大であることか。
人間の霊魂に真の命を与え満足させることのできるものは、実に神ご自身のみである。
人間の霊魂を復活せしめ生かす真の食物、それはキリストの御聖体と御血のみである。
ああ、甘味なる食物よ。
人間の霊魂は神ご自身によってしか生かされず養われないのだ。
絶対にご自身のいのちではなくてなならないのだ」と。(アルスの聖者ヴィアンネ−司祭の説教)
〜神は愛である〜
@人祖アダムとエバが、神の似姿として創造され、無原罪にして清浄であり、エデンの園にあったとき、園にある各種の木の実を肉体のいのち保持のため、自由に食することを許されていた(創世記2・16)
エデンの園には命の木と、善悪を知る知恵の木と、霊的な二種の食物があったが、善悪を知る木の実を食することは固く禁じられていた。
それを取って食うとき、人は必ず死ぬと予告されていた。
しかるに人祖は自由意志を乱用し、己に死をもたらす善悪を知る木の実を食し、霊的死と肉体の死との原因をうちに宿したのである。
かくしてひとりのアダムにより、死の原因たる原罪は、霊的遺伝の法則により全人類に及んだのである。
A神は愛である。
神はご自身に対して造反者となったアダムとエバを、エデンより追放されるとき、人類にメシヤを遣わすことを約束し、メシヤによって永遠のいのちが賦与され、失われし楽園が回復されることを予告されたのであった。
善悪を知る木の実を食らい霊的に死んでいる人間を、回復する道はただ一つである。
命の木の実を食らうこと(黙示録2・7)、隠されているマナを食らうこと(黙示録2・17)、これである。
すなわち神こそはそれである。
神こそはあらゆる生命の根源であるから。
Bヨハネによる福音書第6章において、キリストはご自身を指し示し、
「天からのまことのパン」(ヨハネ6・32)、
「神のパン」(ヨハネ6・33)、
「わたしは命のパンである」(ヨハネ6・48)、
「わたしは天から下ってきた生きたパンである」(ヨハネ6・51)
と宣言されたのである。
〜キリストよ、おん身、愛ゆえに狂いたまいしか〜
@「一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それはただ一粒のままである。しかし、もし死んだなら、豊かに実を結ぶようになる。」(ヨハネ12・24)
小麦がまかれて地に落ち、やがて芽を出し実を結び、石臼にて粉々にされパンとなり、人の食物となる如く、
主は天よりくだりて自らを犠牲として、人類の罪を贖うために十字架にかかり、肉をさき血を流し、ご自身のいのちを全人類に注ぎ給うのである。
Aキリストよ、おん身、愛ゆえに狂いたまいしか。
B「わたしは命のパンである。・・・・・わたしは天から下ってきた生きたパンである。それを食べる者は、いつまでも生きる。わたしが与えるパンは、世の命のために与えるわたしの肉である。」(ヨハネ6・48、51)
〜このパンを食べる者は、いつまでも生きる〜
@そこで、ユダヤ人らが互いに論じて言った、「この人はどうして、自分の肉をわたしたちに与えて食べさせることができようか」と(ヨハネ6・52)。
Aユダヤの律法は血を固く禁じている(申命記12・16)。
・彼らは人食い人種が人肉を食らうが如きを想像し、極めて嘲笑的かつ反感的態度を示した。
Bイエスは彼らに言われた、
「よくよく言っておく。
人の子の肉を食べず、また、その血を飲まなければ、あなたがたの内に命はない。
わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者には、永遠の命があり、わたしはその人を終わりの日によみがえらせる。
わたしの肉はまことの食物、わたしの血はまことの飲み物である。
わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者はわたしにおり、わたしもまたその人におる。
生ける父がわたしをつかわされ、また、わたしが父によって生きているように、わたしを食べる者もわたしによって生きる。
天から下ってきたパンは、先祖たちが食べたが死んでしまったようなものではない。
このパンを食べる者は、いつまでも生きる。」(ヨハネ6・53〜58)
Cこれらのことは、イエスがカペナウムの会堂で教えておられたときに言われたものである(ヨハネ6・59)。
Dパンは性質上食らうべきものである。永遠の命を得るためには、命のパンを拝食すべきであり、他に絶対に方法が無いとの強い表現である。
〜この神の種のうちに、神性の本質、実体が実存している〜
@ここにおいて不信のユダヤ人はもとより、霊的に鈍く容易に主のことばの象徴的意味を理解し得ない、
多くの弟子達すらも、「これは、ひどい言葉だ。だれがそんなことを聞いておられようか」と、みことばに躓いたのである。
A人の心の思いさえも見破り給う主は、彼らの霊的無知と誤解のゆえに、改めて霊的意義の説明を試み給うのである(ヨハネ6・60〜61)。
B「もし人の子が前にいた所に上るのを見たら、どうなるのか。」(ヨハネ6・62)
私が十字架にかかり、その肉を裂き、血を流し、贖いを成就し、死して復活昇天し、おん父の右に座し、
約束の聖霊をを注ぐとき、
真理の御霊の啓示により、わたしが語ったことばの真意を、その時こそ体験的に知るであろう。
C「人を生かすものは霊であって、肉はなんの役にも立たない。わたしがあなたに話した言葉は霊であり、また命である。」(ヨハネ6・63)
霊的な真理を肉的に解釈してはならない。
人間に真の命を賦与し、霊的に再生させるものは、物質ではなく、わが霊である。
わが霊こそは神性の本質、実体そのものである。
それは他ではない、わたしが語ったことば、それは単なることばではなく、特定のことば、
すなわち、わたし自身を啓示するところのことばに他ならない。
D「わたしは命のパンである。」(ヨハネ6・48)
このわたしを自啓するところのことばこそ、
神の種(ヨハネの手紙一3・9)が内蔵されているのであり、
このいのちのことばは霊であり、永遠の命なのである。
Eこの神の種のうちに、神性の本質、実体が実存しているのである。
この神秘を理解し把握している者は極めて稀(まれ)である。
Fこの神を啓示するところの御名、神の種、いのちのことばこそ、神性、永遠の命が実体的に宿っているのである。
ゆえにこの御名こそいのちの木の実であり、隠されたるマナである。
この御名なる神の種、命のことばを拝食するとき、霊魂は真の命に参与し復活するのである。
奇(くす)しきことば、聖なる御名!
〜キリスト教の根本原理〜
@シモン・ペテロは命のパンなるイエスに出会って言った、
「主よ、わたしたちは、だれのところに行きましょう。
永遠の命の言(ロゴス)をもっているのはあなたです。
わたしたちは、あなたが神の聖者であることを信じ、また知っています。」(ヨハネ6・68〜69)
Aシモン・ペテロは信仰の眼指しをもって、
イエスの人性の深奥に神性を認め、
イエスご自身こそ言(ロゴス)の受肉者であり、永遠の命そのもの、
したがって命の言(ロゴス)の分配によって、彼を信ずる者に永遠の命を賦与し給うべきメシヤなることを、信じかつ知り、かく信仰告白をしたのである。
Aこの主とペテロとの言葉によって、キリストが与え給うところのものは、単にその人性の肉と血とではなく、もちろん物質的パンでもなく、純霊的にして天来の真の生けるパン、
「わたしは命のパンである」(ヨハネ6・48)とのキリストの本性を啓示するところの、命の言によって、永遠の命が賦与されることを理解することができる。
B「生ける父がわたしをつかわされ、また、わたしが父によって生きているように、わたしを食べる者もわたしによって生きる。」(ヨハネ6・57)
Cこのキリストのことばこそ、キリストの神秘を解く鍵語である。
キリストの驚異的な偉大な生涯のすべては神のいのちによって営まれ、行われたのである。
誰であっても、他のキリスト、キリストの生涯を再現延長する、もうひとりのキリストたらんことを望むならば、
何よりもまず神の命に豊かに与り、神の命そのものに生きなければならない。
Dこれこそはキリスト教の根本原理である。
人は自己を生かす命の原理を変えることなくして、生活を更新することは不可能である。
神的生命への参与によってこそ、キリストの如く神に生きるものとなり得るのである。
〜栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられていく〜
@自然界においては人間が物質のパンを食うと、数時間後にパンは消化され、やがてその人の血となり肉と変化する。
Aしかるに霊界においてはその正反対であって、
人が天来の命のパンなるキリストご自身を拝食するとき、
霊魂は命のパンなるキリストを自分自身に変化させないで、
拝食せし命のパンによって、霊魂はキリストのいのちのくまなき浸透を受け、
次第にキリストに聖変化せしめられるのである。
B妙(たえ)にも奇しき奥義なるかな!
かくして、「生きているのは、もはや、わたしではない。キリストが、わたしのうちに生きておられるのである」(ガラテヤの信徒への手紙2・20)との使徒パウロの体験に到達するのである。
キリスト者はキリストご自身と同一生命原理によって生くべきものなのである。
人間が神のかたちに、神にかたどって造られた(創世記1・26〜27)のは、人間が神の命に参与し、キリストの如く神の栄光のために生きるためであった。
C人は命のパンなるキリストご自身を、拝食し消化し、キリストご自身を己が霊魂のいのちとした度合いに応じて聖化されるのである。
炭を火の中に投げ込むと、炭は次第に火の浸透を受け、やがて火に変化する如く、
霊魂の内に人格的にキリストを宿したものは、
聖霊のくまなき浸透を受け、
霊魂をキリストに変化せしめられるのである。
D「主は霊である。そして、主の霊のあるところには、自由がある。
わたしたちはみな、顔おおいなしに、主の栄光を鏡に映すように見つつ、栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられていく。
これは霊なる主の働きによるのである」(コリントの信徒への手紙二3・17〜18)と、使徒パウロが言っている通りである。
〜生ける水なる聖霊、御名、神の種なる命の言が、その腹より川となり流出する〜
@かくして第一のアダムによって来たりし霊魂の死に、第二のアダムであるキリストによって、命と復活がもたらされ、神的生命への参与によって、
私達はキリストの人性の再現延長、
地上のもうひとりのキリストとせられるのである。
なぜなら、キリストご自身が私達のうちにあって、今を生きご自身の地上生活を再現し、事実継続されるのであるから。
A命のパンなるキリストご自身を現実的に拝食し、キリストの命に生かされている使徒のうちより、
生ける水なる聖霊、
御名、
神の種なる命の言が、
その腹より川となり流出する。
B使徒職とは他ではない、命のパンの分配者なのである。
Cキリストを食し、キリストの命そのものに参与し、キリストの命に充満されているなら、
その腹より湧出し流出する、
生ける水なる永遠の命を、
他者に分配することが可能なのである。
D永遠の命の分配、これこそは使徒職の最高の使命である。
Eああ、高貴にして偉大なる使徒職!


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