〜キリストの神性の栄光の輝き〜
@その湖畔にひとりの人が立って、沖の小舟を注意深く先程から眺めていたが、突然「若者たち、何か・・・・・とれたか。」と大声で叫んだ。
A早朝の静寂を破って張りのある声が、やがて沖の小舟にまで伝わると、舟の中の漁夫達は、その人が新鮮な魚を求めて声をかけたものと想像し、ありのままに「ありません」と、そっけなく返答をする。(ヨハネ21・5)
その夜はなんの獲物もなく、疲労と空腹のために不機嫌になり、そう答えるのが精一杯であるかのようにである。
Bするとその人は再び言った、「舟の右の方に網をおろして見なさい。そうすれば、何かとれるだろう。」(ヨハネ21・6)
もう太陽がその輝かしい顔をあらわし、夜はすっかり明けている。
獲物の期待できるのは夜漁である。
今網を降ろしてももはや時すでに過ぎ去り、無駄な骨折りと思われたが、終夜の努力もむなしく、一匹の魚さえもとれず、弱気になり、溺れるものは藁をも掴む心理から、
それにそのことばには権威があり、命令するものの如く思われたので、彼らは思わず網を取り、祈るような思いを込めて、命じられた右の方向に網を投げ込んだ。
C突然ぐっと重い感触が手に伝わる。漁夫の本能的直観は大漁を予感する。
弟子達の中で誰よりも霊的に鋭い鷲の目を持つヨハネは、直観的に「主だ」と叫ぶ(ヨハネ21・7)。
D彼らはこの奇跡を通して、キリストの神性の栄光の輝きを拝し、神の能力の顕現を現実的にみたのである。
しかして自らの無力、無能を知り、ただ畏敬(いけい)の念に強く打たれた。
彼らは終夜熱心に働き続けた。自分の経験に頼り、自分の力を過信し、自我で徹頭徹尾やり通したのであった。
しかし、主と共なざる働きにおいて、その結果は惨敗、獲物は何もなかったのである。
主と共にあって、主のみことばに従いし結果の大漁は、使徒職の秘訣を教え給うたのである。
E使徒職の秘訣は
復活のキリストとの出会いによって聖霊を受け、
キリストの命そのものに生かされ、
全存在をもって活けるキリストご自身を証するとき、
主もまた共に働き、使徒を通して全能者ご自身が働き、現存を顕し、栄光を顕し給うのである。
F使徒職の動機は純粋に神の栄光と、人類の救済のためであらねばならない。
その目的は神には人類を、人類には神ご自身を与えること、これである。
それゆえに、使徒職はキリストにあって、キリストによって、神の栄光のためにのみいとなまれなくてはならないのである。
〜主の命令に従い網を打ちし結果は、全く奇跡的驚異的大漁であった〜
@主の命令に従い網を打ちし結果は、全く奇跡的驚異的大漁であった。
「網を陸へ引き上げると、百五十三匹の大きな魚で一杯になっていた。そんなに多かったが、網はさけないでいた。」(ヨハネ21・11)
百五十三という数は神学者達によって色々な解釈が試みられているが、象徴的であり予定数であると思われる。
百五十三は終末時における全世界の国家数(全世界に現存する国家数と大差なし)、
大きな魚とは選ばれし粒よりの善き者を意味している。
A全世界に離散していた選民が呼び集められ、永遠の生命に予定されていたユダヤ人が、聖霊によって印せられ、その予定数の満つることを暗示している。
この預言、すなわち終末におけるイスラエルの救い、予定数の充満されるリバイバルの直後、教会は海(この地上世界)より、不動の彼岸に挙げられるのである。
人類の全歴史を通じて、この瞬間程厳粛なときはない。
B弟子達が上って見ると、イエスは彼らに言われた、「さあ、朝の食事をしなさい。」(ヨハネ21・12)
「イエスはそこにきて、パンをとり彼らに与え、また魚も同じようにされた。」(ヨハネ21・13)
Cキンネレテ湖畔における、この主の大饗宴(きょうえん)は、来るべき天における大饗宴のシンボルである。
「主人が帰ってきたとき、目を覚ましているのを見られる僕(しもべ)たちは、さいわいである。よく言っておく。主人が帯をしめて僕たちを食卓につかせ、進み寄って給仕をしてくれるであろう。」
D使徒はキリストご自身を人々に与える、もうひとりのキリストである。
キリストご自身を拝食し、キリストの命に生きている者のみが、それをみごとになし遂げるのである。
〜ヨハネの子シモンよ、わたしを愛するか〜
@イエスはシモン・ペテロに言われた、「ヨハネの子シモンよ、あなたはこの人たちが愛する以上に、わたしを愛するか」と(ヨハネ21・15)。
ペテロが湖水に飛び込み泳ぎ出したのは、誰よりも早く復活の主と出会いたいとの思慕の念からであり、今度こそ主のために御仕えしたいと心より熱く望んだからに他ならない。
Aイエスはかつて、しばしば「わたしを信じるか」とくり返されたが、今は「わたしを愛するか」と問われたのである。
ここで問われている愛ということばは、アガパオ−であって、キリストが私達を愛するのあまり、死んで下さった愛、愛するもののためにすべてを無条件に与え尽くす愛、神的にして聖なる愛のことである。
Bペテロは答えて言った、「主よ、そうです。わたしがあなたを愛することは、あなたがご存じです。」
彼は今はただ謙遜に、全知の主に一切を委ね、きわめてつつしみ深くこたえる。
彼が使った愛はフィレオ−であり、親密な人間的感情のこもった愛である。
ペテロは過去の三度の失敗を通して、謙遜を学び身に着けたことを示している。
Cするとイエスは彼に、「わたしの小羊を養いなさい」と言われた。
小羊とはキリストにあって新生したばかりの、霊的幼子のことである。
小羊を養うにはデリケ−トな心遣い、深い思いやり、愛と忍耐が必要である。
彼らは迷いやすく自我のおもむくままにしばしば行動し、自我がまだ徹底的にきよめられておらず死滅していないからである。
小羊はまだ高度な霊的聖書知識を消化することができず、甘味な乳のみを要求するのである。
Dイエスは再び彼に言われた、「ヨハネの子シモンよ、わたしを愛するか。」
この二度目の愛もアガパオ−である。
Eペテロは主に言った、「主よ、そうです。わたしがあなたを愛することは、あなたがご存じです。」
彼の答えも前回と同様である。
Fするとイエスはペテロに言われた、「わたしの羊を飼いなさい。」
羊はすでに霊的に成長したものを示している。
しかしなおキリスト者の完全、完徳、聖人の域にまで到達するように指導せよとの意味である。
聖人への招きは、すべてのキリスト者に向けられている。
人は自分の持っているものしか与え得ない。また自分の到達している高みにしか導き得ない。
使徒的事業に参与するものは、どうしても、もうひとりのキリストに自分自身を変容させていなければならない。
キリストのことばは、使徒職に参与する者は、まず自分自身をキリストの愛そのものに変容せしめることを条件としているのである。
G使徒パウロと共に、おん父の尊前にひざをかがめて祈ろう。
「どうか父が、その栄光の富にしたがい、御霊により、力をもってあなたがたの内なる人を強くして下さるように、
また、信仰によって、キリストがあなたがたの心のうちに住み、あなたがたが愛に根ざし愛を基として生活することにより、
すべての聖徒と共に、その広さ、長さ、高さ、深さを理解することができ、
また人知をはるかに越えたキリストの愛を知って、神に満ちているもののすべてをもって、あなたがたが満たされるように。」(エフェソの信徒への手紙3・16〜19)
H霊的生活によって、キリストと完全に一致することである。
Iイエスは三度目に言われた、「ヨハネの子シモンよ、わたしを愛するか。」(ヨハネ21・17)
三度目に使用されし愛は、ペテロ自身が使ったフィレオ−であった。
フィレオ−は人間的であり、感情的情熱的愛であり、人間自身の本質よりのものであり、熱し易く冷め易い性質のものである。
それに比べて聖なる神的愛は、聖霊によって注入されしキリストの愛、神の愛そのもの、「わたしは限りなき愛をもってあなたを愛している。それゆえ、わたしは絶えずあなたに真実をつくしてきた」(エレミヤ31・3)と主ご自身が啓示されしところの愛である。
〜わたしに従ってきなさい〜
@聖霊によって注入されし神的愛(ロ−マの信徒への手紙5・5)、キリストの愛に充満され、この聖なる愛に生かされてこそ、羊のために必要とあらば命をさえも捨てる善き牧者となり得るのである。
Aイエスはペテロに言われた、「わたしの羊を養いなさい。」
イエスを真実愛するもののみが、イエスの愛しておられるもの、ご自身の血をもって贖い給うた、羊の群れを真に愛し養うであろう。
愛は愛する者のために、すべてをおしみなく与え尽くすからである。
Bペテロの三度の否定は、キリストに対する愛の三度の告白によって打ち消されたのであろうか。
大牧者なる主は、この劇的出会いを通して、ペテロを再び使徒団の頭とし、使徒職に任命されたのである。
もうひとりのキリストとして、キリストの代理者として。
C全知者である主なるキリストは、神性の眼指しのもとに、使徒ペテロが主への忠誠と、委託されし羊の群れを愛し、善き牧者としての使命に生き、かつその使命のために雄々しく殉教するにいたることを預言される。
「よくよくあなたに言っておく。あなたが若かった時には、自分で帯をしめて、思いのままに歩きまわっていた。」(ヨハネ21・18)
霊的に若かりし頃の彼は自負心が強く、自己の力を過信し、感情的に自我的に常に行動した。
「しかし年をとってからは、自分の手をのばすことになろう。そして、ほかの人があなたに帯を結びつけ、行きたくない所へ連れて行くであろう。」
これは、ペテロがどんな死に方で、神の栄光をあらわすかを示すために、預言されたのである。
Dペテロが使徒職を完全に果たすために、自己を放棄し、屠(ほふ)り、キリストの御跡に従うべき時は到来したのである。
キリストの聖なる御心は、彼に殉教への召命を与えるのである。
E主を真に愛する者は、十字架をも愛する。
それゆえ彼は積極的に、十字架に向かって手を差し出すであろう。
キリストを愛する者は、主が私達への愛のゆえに死んで下さったように、自分もキリストへの愛のために死ぬことを、心より切に望むからである。
愛するものと共に、十字架のくびきを共に負うは、いかに甘味にして慕わしくあることだろう。
F「わたしに従ってきなさい。」(ヨハネ21・19)「あなたは、わたしに従ってきなさい。」(ヨハネ21・22)
「愛するかたよ、おとりください、私のこのいのちを残りなく。
わたしは心より望む、あなたのために、
苦しみ、そして死ぬことを。
おお、イエス、
愛に死ぬ、
かなえてください、この夢を!」(小さきテレジヤ)


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