〜そこにイエスが立っておられるのを見た〜
@ゴルゴダ(カルバリ−)兵上における、あの悲劇、十字架によるイエスの死は、弟子たちにとって悲しみであり強烈な衝撃であった。
ただそればかりではなく、信仰と希望とを根底からゆるがす、最大のつまずきともなったのである。
A「十字架につけられたキリスト」はユダヤ人にはつまずきであった(コリントの信徒への手紙一1・23)
伝統的なユダヤ教のメシヤ・イメ−ジは、メシヤはイスラエルを敵の支配から完全に解放し、輝かしいメシヤ王国を建設する、政治的現世的栄光のメシヤであった。
彼らが期待したメシヤはそれであり(ルカ24・21)、受難のメシヤ、十字架のメシヤであってはならなかったのである(マタイ16・22)。
十字架によるイエスの死は、弟子達の夢を徹底的に打ち砕き、今や失意のどん底にたたき込んだのである。
Bしかし、十字架こそは偉大な救いの奥義なのである。
あの恐怖の日から三日目の早朝のことである。
マグダラのマリヤがイエスの墓に行くと、墓の入口をふさいでいた大石が、ころがしてあるので、中をのぞくとイエスの死体はそこにはなく、
彼女が悲しみにうちひしがれて泣いていると、「女よ、なぜ泣いているのか」(ヨハネ20・13)と、声をかける者があった。
そこにイエスが立っておられるのを見た(ヨハネ20・14)。
イエスは彼女に「マリヤよ」と言われ、マリヤはイエスにむかってヘブル語で「ラボニ」と言った(ヨハネ20・16)。
Cマグダラのマリヤは弟子たちのところに行って、自分が主に出会ったことを、報告した(ヨハネ20・18)
〜イエスの復活は、その肉体に、根本的変化をもたらした〜
@彼女がイエスの復活の第一報を伝えた後、場所と時とを変えて、次々とイエスは弟子達にご自身を顕された。
イエスの復活と新たな現存は、彼らの憂愁と、十字架の躓(つまず)きとを取り除き、喜びをもたらし、わけてもメシヤ信仰に革命的変化を与えた。
A「言(ロゴス)は肉体となり」給うた(ヨハネ1・14)のは深い神秘であり奥義である。
見えざる神が、見える者となるために人間性をとられ、
苦しみ得ない神が、苦難を受け得る僕となるために、僕の貌(かたち)をとり(フィリピの信徒への手紙2・7)、
不死のものが人類のあがないのために、十字架の死を遂げるために、肉体をとられたのである。
Bイエス・キリストは真の人間であったればこそ、十字架にかかり死に給うたのであり、真の神であり、よみがえりであり命であられたればこそ、三日目に約束通り死人の中から復活されたのである。
「このかたは、彼の人間性について言えば、ダビデの子孫としてお生まれになり、
神性なみ霊による彼の神性について言えば、死者の中からの彼の復活によって、力をもって、顕著な、凱旋的な、奇跡的なしかたで、公に神のみ子ととなえられるようになられたかた、
すなわち、私たちの主イエス・キリストなのです。」(ロ−マの信徒への手紙1・3〜4、詳訳)
Cこの復活において、イエスの人間性、メシヤ性、神性が実に鮮やかに啓示されたのである。
Dイエスの復活は、イエスの人間性に何をもたらしたのであろうか。
Eイエスの復活は、その肉体に、根本的変化をもたらしたのである。
朽つべき肉体が、不朽性のものに、物質的なものが天的なものに、時間的なものが永遠的なものに、弱いものが強いものに、人間的なものが神的なものに栄光化されたのである(コリントの信徒への手紙一15・42〜44)。
F「その日、すなわち、一週の初めの日の夕方、弟子達はユダヤ人をおそれて、自分たちのおる所の戸をみなしめていると、イエスがはいってきて、彼らの中に立ち、『安かれ(シャロ−ム)』と言われた。そう言って、手とわきと聖痕(せいこん)を、彼らにお見せになった。弟子達は主を見て喜んだ。」(ヨハネ20・19〜20)
〜この傷を仰ぎ見るものは、みないやされ、生かされる〜
@ユダヤ人の迫害をおそれ、厳重に戸を閉ざし、部屋の中に集まっていた弟子達のまん中に、忽然と姿を顕したイエス。
復活したイエスの体が、天的なもの、神的なものに栄化したことを実証したのである。
しかし、主は十字架によって受けし五つの聖痕の除かれることは望まれず、栄光体にもその印(しるし)を残された。
それは十字架につけられたるイエスであることを、万民に証明するためである。
A「見よ、彼は、雲に乗ってこられる。すべての人の目、ことに、彼を刺しとをした者たちは、彼を仰ぎ見る」(ヨハネの黙示録1・7、ゼカリヤ12・10)ためである。
B「彼はみずから懲らしめをうけて、われわれに平安を与え、その打たれた傷によって、われわれはいやされた。」(イザヤ53・5)
この傷(しるし)こそは、われわれのための完全無欠のあがないの、完了のしるしであり保証である。
誰であっても信仰の眼指しをもって、この傷を仰ぎ見るものは、みないやされ、生かされる。
その傷はまた大祭司として、御父の御前に出られ、われらのために執り成し給うとき、偉大な効果を引き出す、恩寵の源泉ともなるのである(ヘブライ人への手紙9・12)。
〜彼らに息を吹きかけて仰せになった、聖霊を受けよ〜
@「安かれ(シャロ−ム)」これは贖い主なるキリストを通してのみ与えられる、天的平和である。
彼の打たれし御傷によってあがないは実現成就され、この御傷ある手を通して、神には人を与え、人には神を与え、両者の和解はみごとに成立し、神人合一の境地において与えられる平和(シャロ−ム)である。
まことに、「キリストはわたしたちの平和」(エフェソの信徒への手紙2・14)そのものである。
イエスはまた彼らに言われた、「安かれ。父がわたしをおつかわしになったように、わたしもまたあなたがたをつかわす。」(ヨハネ20・21)
Aイエスはそう言ってから、彼らに息を吹きかけて仰せになった、「聖霊を受けよ。」(ヨハネ20・22)
使徒たるべきもの、もうひとりのキリストたるべき者、それには絶対の条件がある。
聖霊を受けるという条件である。
キリストとは油注がれたる者との意味であるが、聖霊の任職の油注ぎを受けることによってこそ、はじめて他のキリストとなり得るのである。
「息を吹きかけ」、創世記第二章七節において、「主なる神は土のちりで人を造り、命の息をその鼻に吹きいれられた。ここで人は生きた者となった」としるされており、ヨブ記第三十三章四節に、「神の霊はわたしを造り、全能者の息はわたしを生かす」としるされている。
〜復活のキリストは、今や新しい人類の創造者である〜
@復活のキリストは、今や新しい人類の創造者であることを、これによって啓示されたのである。
神である聖霊を吹き込み与え得るものは、必ず神であることを鮮やかに啓示されたのである。
A聖霊が、イエスの御霊(使徒言行録16・7)と呼ばれるのは、人なるイエスのうちにあって、イエスの全生涯をリ−ドされし御霊であったからであり、また御子の霊(ガラテヤの信徒への手紙4・6)とも呼ばれ、
父の霊(マタイ10・20)とも呼ばれるのは、御父と御子より聖霊は発出するからである。
B神のために心を全開し、すべてを捧げ尽くし明け渡す霊魂のみが、聖霊の充満を受け、その溢れを他者に注ぐことが可能となるのである。
全存在において、キリストに満たされし者のみが、キリストの御姿を鮮やかに反映し、キリストの命の表現となり、生けるキリストの証人となるのである。
それゆえにこそ、キリストは「聖霊を受けよ」と息を吹きかけられたのである。
〜復活のキリストは、息を吹きかけ「聖霊を受けよ」と厳命された〜
@「あなたがたが許す罪は、だれの罪でも許され、あなたがたが許さずにおく罪は、そのまま残るであろう。」(ヨハネ20・23)
罪を許す権威について一考することは極めて大切である。
「神おひとりのほかに、だれが罪をゆるすことができるか」(ルカ5・21)とはまことに真実である。
罪を許すことは神の大権に属することである。
キリストは神であったればこそ、罪を許したのである。父は、さばきのことはすべて、子にゆだねられたからである(ヨハネ5・22)。
A復活のキリストは、今や使徒達に聖霊を与えると共に、人々に聖霊を伝達する使命を与え、罪を許す権能をも与えるのである。
それは聖霊を受けし結果、内住の聖霊によって意志し行動することによって可能となるのである。
聖霊を賦与する権能、罪を許す権能を二つながら持つことは、ある意味において、神的存在、神の代理者となることを意味する。
この神秘はあまりにも偉大であり、深くしてきわめがたい神秘である。
B「わたしは、あなたに天国のかぎを授けよう。そして、あなたが地上でつなぐことは、天でもつながれ、あなたが地上で解くことは天でも解かれる」(マタイ16・19)との約束の成就である。
使徒はもうひとりのキリスト、祭司は他のキリストと言われる理由が、ここにこそ存在するのである。
Cそれゆえにこそ、真実の使徒、真実の祭司となるために、復活のキリストは、息を吹きかけ「聖霊を受けよ」と厳命されたのである。
聖霊を受け、聖霊に充満され、聖霊のくまなき浸透を受けてこそ、キリストの御姿が形成され、キリストに変容され、他のキリストとなり得るのである。
使徒とは、使徒パウロの如く、キリストの名を伝える者(使徒言行録9・15)であり、神の霊の伝達者であり、イエスを持ち運ぶ(コリントの信徒への手紙二4・10)神の器のことである。
〜わが主(アドナイ)よ、わが神よ〜
@「十二弟子のひとりで、デドモと呼ばれているトマスは、イエスがこられたとき、彼らと一緒にいなかった。
ほかの弟子たちが、彼に『わたしたちは主にお目にかかった』と言うと、
トマスは彼らに言った、『わたしは、その手に釘あとを見、わたしの指をその釘あとにさし入れ、また、わたしの手をそのわきにさし入れてみなければ、決して信じない。』」(ヨハネ20・24〜25)
Aイエスの復活についての弟子達の信仰は、復活のイエスとの出会いにもとずいている。
人一倍懐疑的であるトマスは、他の弟子達を軽率との非難をも込め、信ずるには充分な実証が必要であり、自分自身で慎重な検証、疑う余地のない実験が必要であると、自己の不信を棚上げし、信仰者としてではなく、科学的態度をとる。
B善き牧者である主は、ひとりの迷える羊をさがし求め、八日の後、ご自身を弟子達の前に顕す。
Cイエスの視線は、トマスに集注され、それからトマスに言われた、
「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手をのばしてわたしのわきにさし入れてみなさい。
信じない者にならないで、信じる者になりなさい。」(ヨハネ20・27)
D今、目のあたり、復活のキリストとの出会いによって、トマスの目から、うろこのようなものが落ちて(使徒言行録9・18)、心眼開かれ、あまりにも鮮やかに見たからである。
E彼は何の抵抗もなく、尊前にひれ伏し叫んだ。
わが主(アドナイ)よ、わが神よ。」(ヨハネ20・28)
強烈な感動、恍惚! 陶酔のうちに。
Fトマスはラボニと出合っているのではない。単にメシヤと出合っているのでもない。彼は今、目のあたりに現実的に、神ご自身と出合っているのである。
彼は今までキリストを肉において見ていたが、今は霊とまこととをもって、神を礼拝しているのである。
G彼は肉の手をもって、キリストの復活体に触れようともしなかったが、信仰の手をもって、キリストの神性に触れているのである。
Hトマスは弟子達の中で、復活のキリストとの出会いにおいて、最後(しんがり)であったが、イエスの神性に対する、完全な信仰告白においては、最初のものであった。
〜長い間約束されていた聖霊の証印〜
@「しかし、以上のことがしるされたのは、あなたがたにイエスはキリスト、神のみ子であると信じさせるためであり、
また彼を信ずることによって、あなたがたが、彼のみ名によって、
すなわち、彼の本質(神性)そのものによっていのちを得るためである。」(ヨハネ20・31、詳訳)
A永遠のいのちを受けるための絶対条件、
それは歴史の中に介入され、全人類の罪を負い、ご自身をあがないのいけにえとし、十字架の祭壇に奉献し、死に給うたイエス、
その神性の大能力によって、復活されし生けるキリストを、
自分自身の救い主、自分自身の神として、全人格的に受け入れ、聖霊によって印せられ、
その神性に参与し、神のいのちそのものに生きるものとせられること、これである。
B「彼を信じた、<彼に堅く結びついた者>として、長い間約束されていた聖霊の証印をもって印を押されたのです。
このみ霊は、私たちの嗣業の保証(前もって与えられる経験、私たちの受け継ぐものの手付金)であり、完全な贖い<贖いの完全な所有>を予期させ、神の栄光を賛美させるのです。」(エフェソの信徒への手紙1・13〜14、詳訳)
聖霊の御名による印、これこそは終末の日の、復活の保証なのである。
C聖霊を受けし聖徒達は、イエス・キリストが栄光をもって再臨される日を、一日千秋の思いを抱きつつ待ち望んでいる。
Dそのときわたしたちの卑しい体を、一瞬のうちに、ご自身の栄光の体と同じ栄光体に変貌せしめて下さるのである(フィリピの信徒への手紙3・20〜21)
Eこの栄光にみちみちた希望を、充分に確実に期待せしめるものは、聖霊の印、御名なる主の内的現存である。
F御霊を宿し、御霊によって聖化され、花嫁の姿の完成されし、キリストの神秘体なる教会は、「アァメン、主イエスよ、きたりませ」(ヨハネの黙示録22・17、20)と、花婿なるキリストの再臨をひたすら祈り求めつつ、今か、今かと期待のうちに待ち望んでいるのである。


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