〜メシヤのイメ−ジ〜
@約束されていたメシヤの来臨が近づくにしたがい、神は多くの預言者達にメシヤのイメ−ジを啓示された。
A多くの預言者の中から特にイザヤ(紀元前740年より60年間)を選び、メシヤに関する多くの預言をなさしめ給うた。ここにしるししものは苦難の僕なるメシヤのイメ−ジについてである。
「彼は侮られて人にすてられ、
悲しみの人で、病を知っていた。
また顔をおおって忌みきらわれる者のように、
彼は侮られた。われわれも彼を尊ばなかった。
まことに彼はわれわれの病を負い、
われわれの悲しみをになった。
しかるに、われわれは思った、
彼は打たれ、神にたたかれ、苦しめられたのだと。
しかし彼はわれわれのとがのために傷つけられ、
われわれの不義のために砕かれたのだ。
彼はみずから懲らしめをうけて、
われわれに平安を与え、
その打たれた傷によって、
われわれはいやされたのだ。」(イザヤ53・3〜5)
B世紀は流れ遂に神の時満つるに及び、メシヤは来たり給うた。
ヨハネによる福音書第18章、第19章において、預言者の指し示した苦難の僕なるメシヤ、イエスに出会うのである。
C神がイザヤを通して啓示されし、苦難のメシヤの預言と、イエスの受難とが分厘の狂いもなく一致する。
そのことこそはイエスがメシヤであることの証明ともなるのである。
Dイエスはメシヤとして人類救済の贖いのために、自分自身を残りなく全面的に与え尽くす。
彼は全く他者のために生き、他者のために死ぬ。ここにメシヤの価値ある生涯、メシヤの偉大な比類なき死がある。
〜見よ、この人だ〜
@過度の鞭打ちによって全身紅に染み、頭には茨の冠をかぶせられ、顔は唾(つばき)にて汚され、いたましく変り果てし、この人を見よ。
「彼の顔だちは、そこなわれて人と異なり、その姿は人の子と異なっていた。」(イザヤ52・14)
A「見よ、この人だ。」(ヨハネ19・5)驚け!驚け!この人こそ、人となりたる生ける神である。
主がかくも変り果てし姿となり給いしは、実にわが罪のためである。
全人類の忌むべき罪が、神の貌(かたち)をしてかくの如き姿と変えたのである。
ここにわれわれの罪の深さをみる。
B祭司長たちや下役どもはイエスを見ると、「十字架につけよ、十字架につけよ」(ヨハネ19・6)と連呼し叫び続けた。
人々の激怒は頂点に達し、祭司も学者も、一般人民も老若男女悉(ことごと)く、「十字架につけよ、十字架につけよ」と狂乱怒号する。
罪は罪を生み遂に神の御子を十字架に渡すに至った。
ここにおいて人間の神に対する反逆、人間の最悪を見る。
Cしかし、ここにまた神の無限愛を見るのである。
かかる罪人のために御子を十字架に渡し、人類の罪をあがない、ひとりも滅ぶることなくして、永遠のいのちを与えようとする、神の言い尽くしがたい愛をみる。
〜十字架は奥義であり、あがないの核心である〜
@「イエスはみずから十字架を背負って、されこうべという場所に出て行かれた。彼らはそこで、イエスを十字架につけた。」(ヨハネ19・17〜18)
「まことに彼はわれわれの罪を負い、われわれの悲しみをになった。」(イザヤ53・4)
人となりたる生ける神が、自らの意志によって積極的に十字架を背負い、主ご自身が自発的にわれわれの罪を負い、われわれの悲しみをになったのである。
無限の愛がそうさせたのである。
A「彼らはそこで、イエスを十字架につけた。」(ヨハネ19・18)
イエスを十字架につけたのは人々であった。
「彼はわれわれのとがのために傷つけられ、われわれの不義のために砕かれたのだ。」(イザヤ53・5)
Bわれわれの罪がイエスを十字架につけたのである。
このカルバリ−のドラマにおいて、わたしに対する神の愛の極みをみて感動の涙を流し、自己の犯した罪の極み、神の子を十字架につけし罪のために痛悔の涙を流すものである。
Cかくのごとく、キリストがわれらのために、十字架につけられしは、われらもまたキリストと共に十字架につけられんためである。
「わたしはキリストと共に十字架につけられた。生きているのは、もはや、わたしではない。キリストが、わたしのうちに生きておられるのである。」(ガラテヤの信徒への手紙2・19〜20)
使徒パウロが全存在をもって体験したこの境地、神に生きるためにわれわれも招かれているのである。
D十字架は奥義であり、あがないの核心である。
使徒パウロは十字架の秘義、その神秘の深みを極めたればこそ、「キリスト・イエスに属する者は、自分の肉を、その情と欲と共に十字架につけてしまったのである。」(ガラテヤの信徒への手紙5・24)
「わたし自身には、わたしたちの主イエス・キリストの十字架以外に、誇りとするものは、断じてあってはならない。この十字架につけられて、この世はわたしに対して死に、わたしもこの世に対して死んでしまったのである。・・・・・わたしは、イエスの焼き印を身に帯びているのだから」(ガラテヤの信徒への手紙6・14、17)と叫んだのである。
「もしわたしたちが、彼に結びついてその死の様にひとしくなるなら、さらに、彼の復活の様にもひとしくなる」(ロ−マの信徒への手紙6・5)のであり、
「このように、あなたがた自身も、罪に対して死んだ者であり、キリスト・イエスにあって神に生きている者である。」(ロ−マの信徒への手紙6・11)
〜ユダヤ人の王、ナザレのイエス〜
@さて、ピラトは罪状書きを書いて、十字架の上にかけさせた。
それには「ユダヤ人の王、ナザレのイエス」(ヨハネ19・19)と書いてあった。
十字架にかけられし者は呪われたるものである。
それゆえいかなる罪により十字架刑にされたかを、告示するために罪状書きが十字架上にかけられるのが普通であった。
しかるに、「彼にはなんの罪も見いだせない」(ヨハネ18・38)ので、故意に皮肉と嘲笑的な意味をもって、「ユダヤ人の王、ナザレのイエス」と書いたのであった。
A彼自身としては侮辱的意図のもとに書いたのであったが、その実、ナザレのイエスにふさわしく栄光を与えているのである。
なぜなら、ナザレのイエスこそ、待ち望まれしダビデ王の後継者、王の王、主の主であられるのであるから。
しかもそれは宗教を代表するヘブル語、政治を代表するロ−マ語、世界文化を代表するギリシャ語でしるされ(ヨハネ19・20)、全世界に向かって高々と告示されたのである。
〜あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です〜
@「わたしは王である。わたしは真理についてあかしをするために・・・・・この世にきたのである。だれでも真理につく者は、わたしの声に耳を傾ける。」(ヨハネ18・37)
A「それでは、あなたはわたしをだれと言うか。」(マタイ16・15)
「あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です。」
ヨハネ福音書第1章49節において、ナタナエルはすでにかく信仰告白しているのである。
B霊的洞察力の鋭い使徒ヨハネは、この罪状書きの告示のなかから、イエスの神性とメシヤ性のしるしを見逃すことのないように、わたしたちにうながすのである。
〜だれでもかわく者は、わたしのところにきて飲むがよい〜
@「そののち、イエスは今や万事が終わったことを知って、『わたしは、かわく』と言われた。それは、聖書が全うされるためであった。」(ヨハネ19・28)
A人間には二種の渇きがる。
肉体のかわきと霊魂の渇きとである。
肉体の渇きは水を求め、霊魂のかわきは生ける水を切に求める。
肉体の渇きよりも、霊魂のかわきは一層はげしく切実である。
B十字架につけられしキリストの体より、多量の血が流出するに従い、焼くが如き激しいかわきが起る。
C「わたしは、かわく。」しかしこのキリストの渇きは単なる肉体的渇きではない。
神と人との間の仲介者である、キリスト(テモテへの手紙一2・5)には、霊的にも二種の切実なるかわきがあった。
神なるキリストとしては人の霊魂にかわき、人なるキリストとしては神にかわくのである。
Dサマリヤのヤコブの井戸辺にて、自らは水に渇きつつ、人に生ける水を与えることにかわき、十字架上でははげしくかわきつつ、救いを求める人に神を与え、神には人を与えるのである。
E人なるキリストとしては、「わが神、わが神」(マタイ27・46)と神にかわきながら、神としては、「だれでもかわく者は、わたしのところにきて飲むがよい」(ヨハネ7・37、ヨハネの黙示録22・17)と、人々の霊魂にかわくキリストである。
〜イエス・キリストの聖心のうちに在って、三位一体なる神と出会う〜
@「イエスは・・・・『すべてが終わった』と言われ、首をたれて息をひきとられた。」(ヨハネ19・30)
最後に及び、メシヤに託されしあがないの御業が、自分自身が一粒の麦として地に落ちて死ぬことによって、人類に永遠の命を与えるその大業が、みごとに成就されしを知り、「すべてが終わった」、完了したと叫ばれたのである。
かくして彼は、一つのささげ物によって、きよめられた者たちを、世紀の流れを通じて、聖人の域にまで全うされたのである(ヘブライ人への手紙10・14)。
万民を聖化し聖人とするあがないは、ここに成り終わったのである。
「主は、わたしたちのためにいのちを捨てて下さった。それによって、わたしたちは愛ということを知った。」(ヨハネの手紙一3・16)
キリストの御苦難、恥辱、死去、これすべて愛!
A「しかし、ひとりの兵卒がやりでそのわきを突きさすと、すぐ血と水が流れ出た。」(ヨハネ19・34)
神秘にして聖なるイエスの聖心(みこころ)は開かれた。
この流出せる血と水は深い象徴的な意味をもっている。
B「このイエス・キリストは、水と血とをとおってこられたかたである。水によるだけではなく、水と血とによってこられたのである。・・・・・あかしをするものが、三つある。
御霊と水と血とである。
そして、この三つのものは一致する。」(ヨハネの手紙一5・6〜8)
C人なるイエスの人性の御傷を通って、メシヤ性にいたり、メシヤ性を通ってその最奥なる神性に至るのである。
かくしてイエス・キリストの聖心(みこころ)のうちに在って、三位一体なる神と出会うのである。
Dこの水の流れるところでは、ものみないやされ、もの皆生かされ、すべてのものがきよめられる。
これはその水が至聖所から流れでるからである(エゼキエル47・9〜12)。
E「これらのことが起ったのは、・・・・聖書の言葉が、成就するためである。」(ヨハネ19・36)


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