〜イエスのメシヤ性と神性を正しく信ずる信仰〜
@至聖所に入り、そこにて神と出会い、神を直観する、そのための条件は何か。それは信仰上最も重要な問題である。
A「神を信じ、またわたしを信じなさい。」(ヨハネ14・1)イエスはそのためにいかに信ずべきか、信仰のポイントを示されたのである。
すなわち、父に対してもつ絶対信仰、その同じ信仰を自分に対して持つようにとの要求である。換言すれば、父と子との同等性、端的に言えば、イエスの神性に対する絶対信仰を要求されたのである。
イエスのメシヤ性と神性を正しく信ずる信仰こそは、天国を開く唯一の鍵であるからである。
Bユダヤ教徒は、旧約聖書に啓示されたるヤハウェの神を、唯一絶対の神として信じている。
それは正しい。
しかしイエスのメシヤ性、わけてもその神性は絶対に信じない。
Cキリスト教徒はイエスのキリストなることを信ずる。しかし、父に対して持っているのと全く同一の信仰を、キリストに対してすべての人が持っているわけではない。
Dイエスの神性に対する正しい信仰をもっている人は、必ずしも多くはないのである。
Eヨハネ福音書の中心思想は、イエスのメシヤ性と、ことにイエスの神性を信ずるにウエイトがかかっていることに注目すべきである。
F信仰の旅路の究極終点、それは神ご自身に到達すること、神を直観し、神への認識の深みに没入し、真理かついのちの実体を、神秘的恍惚の中に味わい知ること、これである。
〜わたしは道であり、真理であり、命である〜
@イエスは言われた、「わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない」(ヨハネ14・6)と。
この重大宣言は、ご自身のメシヤ性と神性宣言に他ならない。聖アウグスチヌスはいみじくも言っている。
「聖言(ロゴス)は、御父のみもとにいまして、真理かつ命であられる。肉体(人性)のころもを着けられてから、道となられた」と。
道がなくしては何人も父のみもとに行くことはできない。道があってもそれを知らねば目的を達し得ず、またよし道を知っていても命がなくては歩めないことも真実である。
Aそれゆえ、全存在をあげて、イエスの人性を観想し、その人性を通ってメシヤ性にかけのぼり、イエスのメシヤ性の深みを観想し、更にメシヤ性を通って、その最奥なる神性の高みにかけのぼり、その神性の美に魅了され、全く己を自失して、神性に参与し、キリストご自身のみ姿に、自己を変貌せしめ、彼において、彼のうちに神を見るのである。
Bまことにイエスはその人性において、神にいたる唯一の道であるが、その神性において終極、神ご自身なのである。
Cイエスの比類なきユニ−クさは、道と終極とが一つになっている点にある。
ロゴスの受肉の奥義が実にここにこそ存在するのである。
D「キリストにこそ、満ちみちているいっさいの神の徳(神性)が、かたちをとって宿っている」(コロサイの信徒への手紙2・9)からである。
Eそれゆえ、「わたしたちすべての者は、その満ち満ちているものの中から受けて、めぐみにめぐみを加えられる」(ヨハネ1・16)のであり、キリストとの一致結合によって、霊魂を聖化し、神性に参与せしめ高め給うのである。
〜人間の目に見えない神を、ご自身の神性を、イエスの人生を通して・・・〜
@レオ一世のことばをかみしめたい。
「もし人が、同一の、しかも唯一の主イエス・キリストのうちに、神性と人性とが実際に共存していることを信ずるなら、この信仰こそは、神のみまえに、不義者を義人となし、人をして過去のつみとがのいかんにかかわらず、一変して聖人とならせるのである」と。
A使徒パウロも、「キリストは神に立てられて、わたしたちの知恵となり、義と聖とあがない(すべてのすべて)とになられたのである」(コリントの信徒への手紙一1・30)と。
Bイエスは言われた、「もしあなたがわたしを知っていたならば、わたしの父をも知ったであろう。しかし、今は父を知っており、またすでに父を見たのである。」(ヨハネ14・7)
これは実に深淵な奥義である。
父と子との同等性、一体性を示す重大なことばである。
このことは第12章45節にもしるされている。「わたしを見る者は、わたしをつかわされたかたを見るのである」と。
Cイエス・キリストに対する正しい信仰のみが、キリストにおける深い天的認識へと導き、おん子に対する正しい認識においてのみ、おん父への正しい認識に到達し、遂に御子において、御子のうちに神を見、御父を知るのである。
Dこの道のみが御父と出会い得る、唯一無二の道なのである。
この道によらずしてだれも父のみもとに行くことはできない。
E人間の目に見えない神を、ご自身の神性を、イエスの人生を通して、人の心眼でとらえることができるようにされたのである。
〜イエス・キリストには二つのかたちが共存する。ああ偉大なる奥義の啓示よ!〜
@そこで、弟子のひとりであるピリポはイエスに言った、「主よ、わたしたちに父を示して下さい。そうして下されば、わたしたちは満足します。」(ヨハネ14・8)
ピリポはキリストのことばに驚嘆し、うながされて、かってモ−セが体験した如く(出エジプト33・18)
イザヤが神を見し如き、神との出会いを求める。
人間の霊魂が究極に希望すること、それは神を見ることである。まことに人性の真の目的と目標、神こそそれである。
「わが魂はかわいているように神を慕い、いける神を慕う。いつ、わたしは行って神のみ顔を見ることができるだろうか。」(詩編42・2)
それは神が人間を、ご自身の似姿に創造し、人が真に神を求め、神によって永遠に生きるように、創造されたからである。
したがって神をもたない人性は空虚であり、生ける神と出会い、神の現存を見ることにとってのみ、人間の霊魂は満たされ、真の満足、平和を味わい知るからである。
A「シメオンは幼子(イエス)を腕に抱き、神をほめたたえて言った、『主よ、今こそ、あなたのみ言葉のとおりにこの僕を安らかに去らせてくださいます、わたしの目があなたの救いを見たのですから』(ルカ2・28〜30)
老預言者シメオンは、ロゴスの受肉者なる幼子イエスにおいて、彼のうちに神を見しゆえに、かくも喜び満足し、神をたたえたのである。
しかるにピリポは、イエスと出会いながら、人たるイエスのうちに神を見ることができないのである。
多くのキリスト信者もまた同様であり、まことに悲しむべきことである。
Bそれゆえ、イエスは、「ピリポよ、こんなに長くあなたがたと一緒にいるのに、わたしがわかっていないのか」(ヨハネ14・9)と、嘆息しつつ彼をとがめられる。
イエスの生涯、イエスの人格、そのみ業、なべては目に見えるように神を啓示するものであったにもかかわらず。「ただひとりの比類のない御子、ひとり子の神、み父のふところにおられるかた、そのかたが神を現わされた」(ヨハネ1・18、詳訳)としるされている通りである。
弟子であるピリポですら、この時点においてはまだイエスの神秘を充分に理解していないとは。
イエスを外見的に、ただ皮相的に見れば、まことに人間的であるが、見るべき目をもってつらつら視るとき、まことに神的である。イエスのみ業の一つ一つには、印が打ってある。神のネ−ム、印が押してある。
C「わたしを見た者は、父を見たのである。」(ヨハネ14・9)
ああ偉大なる奥義の啓示よ!
この啓示こそはヨハネ福音書の中心思想なのである。
「主キリスト・イエスを知る知識の絶大な価値」(フィリピの信徒への手紙3・8)がここに存在するのである。
D「キリストは、神のかたち(そのもの)であられたが、神と等しくあることを固守すべき事とは思わず、かえって、おのれをむなしうして僕のかたちをとり、人間の姿になられた。」(フィリピの信徒への手紙2・6〜7)
Eイエス・キリストには二つのかたちが共存する。
彼にとって神のかたちは本性的なものであり、僕のかたちは受肉によってとられしものである。
〜この人こそ、人となりたる生ける神である〜
@「御子は神の栄光の輝きであり、神の本質の真の姿である。」(ヘブライ人への手紙1・3)
イエスこそ御父の完全な表現であられるのである。
それゆえにこそ、「わたしを見た者は、父を見たのである」と言われたのである。
Aロゴスの受肉は、実に言語に絶する奥義であり、ただイエスに対する正統な唯一の信仰のみが、イエスの人性のベ−ルを通して、その最奥に神を発見させるのである。
Bまことにイエス・キリストのみ顔にこそ、神の顔が実に鮮やかに照り輝いて啓示されているのである(コリントの信徒への手紙二4・6)
キリスト(のご本性)を知ることは父を知ることであり、キリストを知らぬことは父を知らぬことである。
キリストのみが真実の神を啓示する、ただひとりのお方である。
キリストを抜きにしては、正しい神認識は絶対にあり得ないのである。
C「永遠の命とは、唯一の、まことの神でいますあなたと、また、あなたがつかわされたイエス・キリストを知ることであります。」(ヨハネ17・3)
にぶい弟子達には、父と子との一体性がまだ理解されていない。
「わたしが父におり、父がわたしにおられることをあなたがたは信じないのか。わたしがあなたがたに話している言葉は、自分から話しているのではない。父がわたしのうちにおられて、みわざをなさっているのである。わたしが父におり、父がわたしにおられることを信じなさい。」(ヨハネ14・10〜11)
イエス・キリストの神秘、父と子の一体性、それを解く鍵がここにある。
Dイエスの語られしことばの権威、イエスの行われし神的な奇跡、イエスの全生活のすべてを通し、彼のメシヤ性と神性が決定的に証明されているのである。
Eこの人を見よ!この人こそ、人となりたる生ける神である。
この人を信仰の眼差しのもとに熟視せよ!さすればこの人のうちに、神性の栄光、神性の神的美を見いだし、霊魂は真の愉悦にひたり、恍惚のうちに息絶えるばかり満ち足りるであろう。
〜「わたしは道である」、「わたしは真理である」、「わたしは命である」〜
@「こういうわけで、わたしたちはイエスの血によって、はばかることなく聖所にはいることができ、彼の肉体なる幕をとおり、わたしたちのために開いて下さった新しい生きた道をとおって、はいって行くことができるのであり、さらに、神の家を治める大いなる祭司があるのだから、心はすすがれて良心のとがめを去り、からだは清い水で洗われ、まごころをもって信仰の確信に満たされつつ、みまえに近づこうではないか。」(ヘブライ人への手紙10・19〜22)
Aイエスは言われた、「わたしは道である。」
しかり、御身は神に至る唯一絶対の道、御身を通ってこそ間違いなく神に到達するのである。
B「わたしは真理である。」
御身のみがまことに生きた真理であり、御身によらずしては誰も真理を理解し、把握することは不可能である。
C「わたしは命である。」
御身こそは真実な神であり、永遠のいのちそのものであられ、御身においてこそ永遠のいのちが与えられ、神にあって永遠に生きることが可能なのである。
Dイエスは言われた、「わたしを見た者は、父を見たのである。」
E「心の清い人たちは、さいわいである、彼らは神を見る。」(マタイ5・8)
F「言(ロゴス)は、御父のみもとにいまして、真理かつ命であられる。肉体のころもを着けられてから道となられた。」