〜キリストの謙遜・従順・服従の生涯〜
@「キリスト・イエスにあったと同じ態度(謙遜な心)が、あなたがたにもあるようにしなさい(キリストをあなたがたの謙遜の模範としなさい)。
キリストは、神と本質的に一つ〔神が神であられるための属性をすべて保有しておられる〕神のかたちであられますが、神と等しいというこの事を固守しておきたいとはお思いにならないで、かえってご自身をむなしくして〔そのすべての特権と正当な威厳を脱ぎ捨てて〕しもべ(奴隷)の姿をとられ、人間としてお生まれになりました。
彼は、人間の姿でお現われになったのち、〔さらになお〕ご自分を低くして(へりくだって)死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで、その服従を貫かれました。」(フィリピの信徒への手紙2・5〜8、詳訳)
Aここに、ベツレヘムからカルバリ−の十字架に至るまでの、キリストの謙遜・従順・服従の生涯の要約がしるされている。
Bキリストは神としての特権と、正当な威厳を脱ぎ捨てて、人間となり、しかも、しもべの貌をとられたのである。ここにこそ真実の意味での謙遜がある。
C「それからイエスは両親と一緒にナザレに下って行き、彼らにお仕えになった」(ルカ2・51)との聖書による啓示である。
尊厳なる神が人となり、しもべのかたちをとられ、徹底的に人間に仕えられたのである。
この比類のない謙遜に、誰が心を打たれぬ者があろうか。
聖ベルナルドは、「天使の服する神が、被造物である人間に従われるとは、比類なき謙遜である。おお、神が人間に従われたのである。人よ従順を学べ」と絶叫したのであった。
D使徒ヨハネもまた、自ら目撃した、師であり、主であるイエスの謙遜を、感動を込めてここに書きしるしたのである。
「過越の祭りの前に、イエスは、この世を去って父のみもとに行くべき自分の時がきたことを知り、世にいる自分の者たちを愛して、彼らを最後まで愛し通された。」(ヨハネ13・1)
E「イエスは、父がすべてのものを自分の手にお与えになったこと、また、自分は神から出てきて、神にかえろうとしていることを思い、夕食の席から立ち上がって、上着を脱ぎ、手ぬぐいをとって腰に巻き、それから水をたらいに入れて、弟子達の足を洗い、腰に巻いた手ぬぐいでふき始められた。」(ヨハネ13・3〜5)
F当時のユダヤの習慣として、食前に客人の足を洗うことは、奴隷の仕事として定められていた。師であるイエスが、自分をもふくめて弟子達の足を洗い給うた、思いもよらなかった事柄に、人一倍感受性の強い使徒ヨハネは、深い感銘、印象を受けたのであった。
G彼にとってこのイエスの行為、愛の奇跡は、パンの奇跡よりも、ラザロの復活よりも、強烈な感動を与えたものの如くある。
Hこのリアルに録されし記事が、それを物語っている。
「イエスは・・・・・自分は神から出てきて、神にかえろうとしていることを思い」(ヨハネ13・3)
天地万物の創造主、宇宙の主宰者であられる主が、人性をとりこの世に来たり給うた目的、「キリストの目的はみことばをもってなされる水の洗いによって教会をきよめて、これを聖なるものとすることにあり、こうして彼が、しみも、しわも、すべてそれに類するものがなくて栄光に輝く教会をご自身の前に立たせることであり、教会がきよく、傷のないものとなるためであったのです。」(エフェソの信徒への手紙5・26〜27、詳訳)
I原罪と自罪によって徹底的に堕落している人間を、御自身の血の洗いによって聖化し、神化し、ご自分の浄配にふさわしきものとすることであった。そのためには、言語に絶する犠牲が必要であったのである。
〜人間の新創造〜
@第一は、「夕食の席から立ち上がって」、その第二は、「上着を脱ぎ」、第三、「手ぬぐいをとって腰に巻き」、第四、「水をたらいに入れ」、第五には、「弟子達の足を洗い、手ぬぐいでふき」、以上5つの行為をもって、人間を根本的に、本質的に聖化し、これを聖なるものとすることにあった。
「夕食の席から立ち上がって」(ヨハネ13・4)、このキリストの行為は、深い象徴的な意味をもっていた。
すなわち、「キリストは、神と本質的に一つ〔神が神であられるための属性をすべて保有しておられる〕神のかたちであられますが、神と等しいというこの事を固守しておきたい<保留しなければならない>とはお思いにならないで」(フィリピの信徒への手紙2・6、詳約)を意味しているのである。
「上着を脱ぎ」(ヨハネ13・4)、かえってご自分をむなしくして〔そのすべての特権と正当な威厳を脱ぎ捨てて〕」(フィリピの信徒への手紙2・7)主は実に天の位より地上に降下し、ご自身の栄光、神と等しいということを、保留しようとはせず、その権威を脱ぎ捨ててまでも、愛ゆえに大いなる犠牲をも、あえて払い給うたのである。
それは罪人なるわたしたちが、古き人を脱ぎ捨てて、キリストを着るために他ならなかった。
A「わたしたちは、この事を知っている。わたしたちの内の古き人はキリストと共に十字架につけられた。それは、この罪のからだが滅び、わたしたちがもはや、罪の奴隷となることがないためである。」(ローマの信徒への手紙6・6)
B「すなわち、あなたがたは、以前の生活に属する、情欲に迷って滅び行く古き人を脱ぎ捨て、心の深みまで新たにされて、真の義と聖とをそなえた神にかたどって造られた新しき人を着るべきである」(エフェソの信徒への手紙4・22〜24)としるされている通りである。
C古き人を脱ぎ捨て、キリストご自身を着ることの他に、人間の新創造は決してあり得ない。
このことにおいてのみ人間は、神の完全な貌であるキリストの似姿とされ、キリスト化され、遂にキリストに変容されるにいたるのである。
D「手ぬぐいをとって腰に巻き」(ヨハネ13・4)すなわち、「しもべ<奴隷>の姿をとられ」(フィリピの信徒への手紙2・7、詳約)を意味している。
〜キリストの御宝血による聖化の恩寵〜
@「手ぬぐいをとって腰に巻き」(ヨハネ13・4)すなわち、「しもべ<奴隷>の姿をとられ」(フィリピの信徒への手紙2・7、詳訳)を意味している。
言(ロゴス)は単に人性をとり、人間の姿をとられしのみではなく、さらにへりくだり、遂に奴隷の姿をとられたのである。
かくまで尊厳なる御者が、ご自分を低くされたのは、われらの放漫を打ち砕き、いやすためである。
うるわしくして慕わしきもの、それは謙遜の美徳である。
A「水をたらいに入れて」(ヨハネ13・5)「彼は、人間の姿でお現われになったのち、〔さらになお〕ご自分を低くして<へりくだって>、死に至るまで、しかも〔あの〕十字架の死に至るまで、その服従を貫かれました。」(フィリピの信徒への手紙2・8、詳訳)
B血を流すことなくしては罪をあがなうことはできず、ただ神の御子の血のみが、人類の罪をきよめ、これを聖なるものとすることが可能であるからである。(ヨハネの手紙一1・7)
C「主は言われる、・・・・・たといあなたがたの罪は緋のようであっても、雪のように白くなるのだ。紅のように赤くても、羊の毛のようになるのだ。もし、あなたがたが快く従うなら」と(イザヤ1・18〜19)。
D「彼らは・・・・その衣を羊の血で洗い、それを白くしたのである。」(ヨハネの黙示録7・14)
E「わが民の君たちは雪よりも清らかに、乳よりも白く・・・・その姿の美しさはサファイヤのようであった。」(哀歌4・7)
Fキリストの御宝血による聖化の恩寵によって、霊魂は雪の如く白く浄化され、キリストとの一致によって、聖霊の浸透を受け、キリストの御姿が形成され、あたかも美しいサファイヤの如く、キリストをみごとに反映するものとせられるのである。
〜神的愛の特徴〜
@神的愛の特徴は、愛するものを自分に似たもの、美と聖において自分のレベルまで高め変貌させることにある。
A「わが妹、わが花嫁よ、あなたはわたしの心を奪った。あなたはただひと目で、あなたの首飾のひと玉で、わたしの心を奪った。・・・・あなたの愛は、なんと麗しいことであろう。」(雅歌4・9〜10)
B神性への参与にとって、キリストの美において、全くキリストの如く変容し、キリストは花嫁の霊魂のうちに、ご自身の姿を発見し、かくも魅了され給うのである。
C「こうして、シモン・ペテロの番になった。すると彼はイエスに、『主よ、あなたがわたしの足をお洗いになるのですか』と言った。
イエスは彼に答えて言われた、『わたしのしていることは今あなたにはわからないが、あとでわかるようになるだろう。』」(ヨハネ13・6〜7)
イエスの洗足は、新契約による救いの核心に触れるものである。
そのためにこそイエスは十字架にかかり、血を流すのである。
Dそこでイエスは彼に答えられた、「もしわたしがあなた・・・を洗わないなら、あなたはわたしとなんの係わりもなくなる。」(ヨハネ13・8〜9)
「なんの係りもなくなる。」永遠の断絶、永遠に無関係を意味する。
Eキリストの御血による洗いによって、原罪からきよめられ、キリストの命そのものに生きるのでなければ、つまり、「キリストの霊を持たない人がいるなら、その人はキリストのものではない」(ロ−マの信徒への手紙8・9)のであるからである。
Fそれゆえにこそ、キリストは徹底的に洗いきよめたいのである。それはキリストのやむにやまれぬ愛である。
〜聖化の完成〜
@キリストの愛に答えるみちは、キリストに無条件に従うことであり、聖旨のままに全面的に委託すること、聖化の完成は実にキリストとの一致の霊的生活にかかっている。
Aすばらしい聖化の恩寵に浴するための第一条件は、自己のミゼ−ルに徹し、かくして自己は退場し、キリストご自身に全く明け渡し、キリストの内的現存を体験し、持続することである。
Bキリストこそわたしの知恵、わたしの義、わたしの聖、わたしのあがない、すべてのすべてである。(コリントの信徒への手紙一1・30)とのパウロの体験を、自分自身のものとすること、これである。