〜シロアムの池に行って洗いなさい〜
@ヨハネ福音書第9章において、大預言者イザヤ(前740年)の預言の成就を、文字通り見ることは大いなる喜びである。
「その日、耳しいは聖書の言葉を聞き、
目しいの目はその暗やみから、見ることができる。
柔和な者は主によって新たなる喜びを得、
人のなかの貧しい者は
イスラエルの聖者によって楽しみを得る。」(イザヤ29・18〜19)

「『神は来て、あなたがたを救われる。』
その時、目しいの目は開かれ、
耳しいの耳はあけられる。
その時、足なえは、しかのように飛び走り、
おしの舌は喜び歌う。」(イザヤ35・4〜6)
Aさて、イエスは道を行かれる時に、生まれつきの盲人を見られた。弟子達が尋ねた、「先生、この人が生まれつき盲人なのは、だれが罪を犯したためですか。本人ですか。それともその両親ですか。」(ヨハネ9・2)
B「本人が罪を犯したのでもなく、また、その両親が犯したのでもない。ただ神のみわざが、彼の上に現れるためである。」(ヨハネ9・3)
Cイエスの解答は、未だ誰ひとりとして考えてみたことのない、全く新しい啓示の光であった。
D主イエス・キリストがご自身の栄光を顕し給うには、一つの条件、法則が定められている。それは歴史上の人物であるイエスに対する、正統信仰においてであった。
Eそのためにこの盲人を導くには、ヒントを与える必要があった。
「イエスは・・・・・地につばきをし、そのつばきで、どろをつくり、そのどろを盲人の目に塗り」(ヨハネ96)、以上が第一ヒントである。
第一ヒントにおいては、盲人の鋭い感覚に訴え、ある重大なことを想起せしめ、それによってご自身の本性的栄光を啓示されたのであった。
しかし、この人は単に肉体的に盲人であったばかりでなく、霊的にも盲人であったために、第一ヒントにおいて正確な解答を出すことができなかったのであった。
「シロアム(つかわされた者、の意)の池に行って洗いなさい。」(ヨハネ9・7)第二ヒントにおいては、シロアムという名称に重大意義が含まれている。盲人は未だその象徴的意味を理解しなかったが、主の命令に圧倒され、シロアムの池を目指し、盲目的に信仰の第一歩をふみ出したのであった。
盲人は、あぶなっかしい足取りで、シロアム・・・・・シロアムと繰り返し叫びつつ、次第にシロアムの池に近づいたのである。
霊的ににぶかった盲人は、幾度もシロアムをくりかえし叫んでいるうちに、遂にシロアムの意味を理解し把握したのである。「シロアム、訳すと、つかわされた者」との意味を。
目に泥をぬり、シロアムの池に行って洗いなさいと、命じた御方を、天より遣わされしもの、メシヤご自身と遂に理解し信じ、今や信仰の両手をさしのばし、ゆるやかに流れるシロアムの池より、水を両手一杯汲みあげ、幾度も顔を洗ったのである。
その瞬間大奇跡が起り、暗黒はあとかたもなく去り、鮮烈な光がおとずれてきたのである。
見える! 見える! 光が! 世界が!
Fヨハネによる福音書中には、遣わされた者ということばが実に41回もしるされている。イエスをつかわされたる者、メシヤご自身と信ずる者は実に幸いである。
Gまことのシロアムであるイエスご自身に来たり、イエスと出会い、イエスのうちより流出する生ける水なる神性によって、罪を洗いきよめられ、聖化され、霊眼の開かれし者は、イエスの御顔に輝く、神をみるであろう。
〜霊的開眼〜
@この生まれながらの盲人は、イエスに出会い、イエスご自身を天よりつかわされたる約束のメシヤと信じ、肉眼がみごとに開かれた。
A彼は心の奥底より、イエスご自身をメシヤと信じ、その信仰は迫害によっても、いささかもゆるぐことはなかった。
B「イエスをキリストと告白する者があれば、会堂から追い出す」(ヨハネ9・22)ことを決定していたユダヤ人共同体は、そのことの故に遂に彼を追放するにいたった。
「わたしの心は言います、
『主よ、わたしはみ顔をたずね求めます』と。
み顔をわたしに隠さないでください。・・・・・・
あなたはわたしの助けです。
わが救いの神よ、わたしを追い出し、
わたしを捨てないで下さい。
たとい父母がわたしを捨てても、
主がわたしを迎えられるでしょう。」
C彼がイエスはキリスト(メシヤ)なりとの信仰告白の故に、すべての人より捨てられ追放されしその時、主ご自身は彼を追い求められ、彼に出会い、「あなたは人の子を信じるか」(ヨハネ9・35)と言われた。
D「主よ、それはどなたですか。そのかたを信じたいのですが。」(ヨハネ9・36)
Eするとイエスは彼に言われた、「あなたは、もうその人に出会っている。今あなたと話しているのが、その人である。」(ヨハネ9・37)
Fすると彼は歓声をあげ叫んだ、「主よ、信じます。」(ヨハネ9・38)そしてイエスを拝んだ。
G彼は今こそはっきりと、肉眼で歴史上の人物であるイエスご自身をつらつらとみつめた。
H同時にまた、今や開かれた霊眼をもって、信仰の燃ゆる眼指しをもって、イエスご自身のうちにメシヤ性を、更にメシヤのうちに神ご自身を拝し奉ったのである。
Iしかして今こそ彼は、第一ヒントをはっきりと理解したのである。「神である主は、土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで、人は、生きものとなった。」(創世記2・7)との意味を。
J彼はここにおいて、感極まり、イエスを己が救い主キリストと、更に信仰の最後の段階である、イエスを己が神として受け入れ、礼拝し奉ったのである。
K歴史上の人物であるイエスをキリスト、真の神として信じ受け入れ奉る時、イエスへの信仰は頂点に達したのである。
L霊魂が真の光、命の光、超自然的光、神的光をまともに受けるとき、イエス・キリストとの人格的出会いにおいて、イエス・キリストの顔にある神のみ顔と出会い、顔と顔と合わせてあい見、ただ神ご自身のみを拝し恍惚となる。
M霊眼開かれし心の清い人のみが神を見るのである。神と真実に出会い、神を見る人は幸いである。
N人生の終極の目的は神を見ることであり、神を見た人は、神において一切を見いだす。