〜イエスはオリブ山に行かれた〜
@「イエスはオリブ山に行かれた。」(ヨハネ8・1)イエスの公生涯において、オリブ山は重要な位置をしめている。
Aそこは祈りと瞑想の聖なる場所であり、しばしば夜を徹して神の祈りに専念されたのであった。
Bイエスの公生涯において祈りがそれ程重要であったなら、われらにおいて、祈りはどれ程重要であることであろうか。
C祈りによって神と出会い、汲めども尽きぬ泉から、生ける水を豊かに飲んでこそ、それがわれらの原動力となるからである。
D「朝早くまた宮にはいられると」(ヨハネ8・2)義の太陽であるキリストの出現によって、「日の光が上からわたしたちに臨み、暗黒と死の陰とに住む者を照らし、わたしたちの足を平和の道へ導く。」(ルカ1・78〜79)
E暗い律法時代の夜明けが遂に到来し、恩寵の光、命の光は、今や燦然と照り輝き、福音時代が到来したのである。
F義人シメオンは待ち望まれたメシヤと神殿において出会い、幼子を腕に抱き、神をたたえて言った。
「わたしの目があなたの救いを見たのですから。
この救いはあなたが万民のまえにお備えになったもので、
異邦人を照らす啓示の光、
み民イスラエルの栄光であります。」(ルカ2・30〜32)
G今や象徴ではなく、「すべての人を照らすまことの光があって、世にきた」(ヨハネ1・9)のである。
〜真の光、世の光なるキリスト〜
@「御子イエスの血が、すべての罪からわたしたちをきよめるのである。」(ヨハネの手紙一1・7)それは罪から解放し、罪より徹底的にきよめ聖別するために他ならない。
Aしかるに人間は光の中に自分をおくことを生来好まず、光をさけて去ってゆく。
B今日、神に用いられる偉大な聖人が起らないのは、命の光が人格の最深部にまでとどくように、人格の深みにおける心の変化、自己の完全キリスト化変容、キリストの神性への全き参与による神化を、徹底的に求める人が少ないためである。
C人間の霊魂は神の栄光を見る度合い、神の聖性に参与する度合いによって変容するのである。ただ神のみを見つめ、感嘆のうちに自失し、沈黙のうちに神の愛にとどまるものは変貌する。
D真の光、光よりの光であるキリストとの出会いにおいて、強烈な霊的光は、彼女の最深部にまでとどいた。彼女の良心は今や深いねむりより目覚め、悔悟の涙はとめどもなく両眼から流れ落ちる。
E今や真に罪を痛快し、イエスのメシヤたることを信ずるに至った彼女の瞳は涙で洗われ、イエスを信仰の眼指しをもって仰ぎ見る。彼女を責めしすべての人は、今や去ってひとりもいない。
F今あるのは、イエスただひとりである。このイエスのみただひとり罪なくして全聖のお方、罪ある女を裁き得る資格ある方、また人の罪を赦す権能を持つお方である(ルカ5・24)。
G光に来たりて、光の中にとどまる者は実に幸いである。石炭も火の中にとどまることによって遂に火に変化する。
H「わたしがきたのは、義人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである。」(ルカ5・32)
Iいとも優しくあわれみ深き愛、聖にして強き愛の光は、その放射を受け入れるものを変化せしめる。激しい真実の愛と光の接触によって、彼女の心中に大変化が生じた。
Jそこでイエスは身を起こして女に言われた、「女よ、みんなはどこにいるか。あなたを罰する者はなかったのか。」女は言った、「主よ、だれもございません。」イエスは言われた、「わたしもあなたを罰しない。お帰りなさい。今後はもう罪を犯さないように。」(ヨハネ8・10〜11)
Kこの物語は、福音書の中で、最も感動的なもののひとつである。「お帰りなさい。今後はもう罪を犯さないように。」
L「さあ、わたしたちは主に帰ろう。・・・・・・・わたしたちは主を知ろう、せつに主を知ることを求めよう。主はあしたの光のように必ず現れいで、冬の雨のように、わたしたちに臨み、春の雨のように潤される。」(ホセア6・1〜3)
Mイエスはまた人々に語ってこう言われた、「わたしは世の光である。わたしに従って来る者は、やみのうちを歩くことがなく、命の光をもつ。」(ヨハネ8・12)