5.人間について
<ぶどう樹342号>[しぼんだ夢と神の理想]
将来への夢
「大きくなったら、ぼくは、ジェット・パイロットになりたい。」「わたしはスチュワーデスよ。」小学校の卒業文集を見ると、そんな将来の希望がならんでいます。しかし、大人になり、社会の中で生活していくうちに、ふくらんでいた夢も色あせ、しぼんできて、現実に押し流されていくことになりがちです。
「人生の目的は?」と問いかけると、「いやあ、食べて行くだけで、せいいっぱいですな。」「理想とか希望とか、未来とかを、考えなくなりましたね。そんなヒマもないです。悲しい中年ですな。」こんな言葉が返ってくることが多いようです。
では、神様の方では、私たちの未来に対して、どんな理想、どんな望みを持っていらっしゃるか、ご存知でしょうか。神のみ言葉である聖書の冒頭に、
「神は自分のかたちに人を創造された。」<創世記1:27>
と書かれています。このみ言葉は、人間が何のために造られたのか、また、人間はどんなにすばらしいものになるかを教えています。
「神のかたち」とは、外形のことではなく、内的な姿のことです。イエス・キリストがこの世においでになったことによって、私たちは、神の愛を知り、イエス・キリストを見ることによって、神と出会うことができるようになりました。それだけではなく、わたしたちも、キリストの生き写しとなり、キリストのように生きる事ができるのです。神が人間性をとってこの地上においでになったイエス・キリストこそ、私たち人間の完全な模範であり、渡したいが内的にキリストの姿をもつ者となることこそ、私たちが生まれてきた目的なのだと、聖書は言っています。
神のような人
イスラエル民族の先祖であり、すべてのクリスチャンから「信仰の父」と仰がれているアブラハムは、異郷の地で生活していたとき、人々から、「あなたは神のような人です」と言われました。<創世記23:6>アブラハムは、真の神を知らない人の中で、アブラハムの神、全能の神、ヤハウェこそ唯一の神であることを、自分自身の存在その者を通して、目に見えるように現したのです。
また、イスラエル民族がエジプトの奴隷になっていたとき、神はモーセに言われました。「見よ、私はあなたをパロ(エジプト王)に対して神のごときものとする」と<出エジプト7:1>。モーセはイスラエル民族を解放しようとしないパロの前に、多くの神の災いを行い、ついねイスラエル民族を解放しました。そして、荒野では数々の奇跡を行って、イスラエルの人々を救い、養い、導いていきました。
アブラハムも、モーセも同じ人間であり、様々の欠点や不完全さ、弱さをもっていました。失敗も多くありました。しかし、その彼らが、「神のような人」となったのには、ただ一つの秘訣があるのです。それは彼らが、「我は全能の神なり」<創世記17:1>、「我は有りて在る者なり」<出エジプト3:14>との、神の御名によって、神と出会い、神ご自身が彼らの打ちに現存された、ということです。
「畳のうらがえし」ではなく
「聖人」とか「神のような人」とか言いますと、ほとんどの人が、「私のような者は・・・」と言われます。私たちは誰もが、良い人間でありたい、仲よく平和に暮らしていきたいと願っています。そして、自分なりに欠点を改めようと努力してきました。しかし、あまり変わりばえがしなくて、自分自身にあいそがつきてしまうのです。
せっかく新築するのに、あれも、これもと、古い畳や、サッシやドアを使ったために、結局、変わりばえのしない家になってしまったような、そんな自分の姿を発見するのです。
しかし、神様は、私たちが、「聖人」「神のような人になる」というすばらしい計画をもっておられるのです。そこにこそ、人間が生まれてきた意味があるのです。人生の目的とは、神と出会い、神にそっくりにた存在になることなのです。自分の仲から出てくるものによっては、結局人間は自分を作り替える事は出来ません。ですから、神様はこう言われるのです。
「心の深かみまで、新たにされて、真の義と聖とをそなえた神にかたどって造られた新しき人を着るべきである」<エペソ4:23ー24>
それは愛から出た
それは、すべて神様の愛からら出たのです。神様は他の何ものもご自身の形に似せておつくりになりませんでした。ただ、人間だけを、ご自身と愛によって一つとなり、ご自身の形をもつようにとおつくりになったのです。そして、イエス・キリストは、十字架の上に罪も汚れもないそのお体を、わたしたちの身代わりの犠牲とされた事によって、私たちの内にある、すべての罪や汚れ、みにくいものを清め、神の姿を、回復して下さるのです。
神様は、私たちに対して、偉大な理想を持っておられるだけでなく、それを実現するために、必要な全ての手段を、講じて下さったのです。私たちが成すべきことは、その神様の愛の中に、自分自身を明け渡し、その御名を呼び求めるということだけなのです。古だたみのような自分自身を投げ出して、心の最も奥深くに、神のみ姿、神の御名を刻みつけていただくことです。こうして、心の中に、神ご自身が現存されるとき、私たちは心の深かみまで新しいものとされるのです。
どっちがむずかしい
「本当にここでは、聖人にならないことの方が、聖人になることよりも、むずかしゅうございます。」これは23才の短い生涯で、聖人となったテレジヤ・マルガリタ(1747ー1770)の言葉です。
カルメル会という修道院で、1767年1月の最後の日曜日の早朝、突然、神のみ言葉が彼女を捕らえました。
「私たちは神が私たちに対して持っておられる愛を知り、かつ信じている。 神は愛である。愛の内にいる者は神におり、神も彼にいます。」
<Iヨハネ4:16>
その瞬間、彼女の顔は火のように輝き、彼女の唇からは、「神は愛なり、神は愛なり、神は愛なり。」と、水がほとばしるように繰り返されていました。
この神の愛の御名によって、神と出会い、神の愛にのみ尽くされた彼女は、「おお、私の神よ。私はあなたの完全な写しになること以外に何も望みません。愛なるイエス、わたしもあなたのみあとに従ってまいります」と祈るのでした。
彼女は、神様がどんなに自分を愛して下さるかを知りました。
人間を「聖人」「神のような者」とするために、どんなに大きな愛を現して下さったかを、イエス・キリストの十字架の上に見たのです。このキリストのはかり知れない愛、全てを新しくし、つくり変えていく大きな愛の中に、とどまり続けるなら、聖人にならないことの方がむずかしいと確信したのです。
考えて下さい。あなたが江戸時代の人であるなら、「京都から江戸まで3時間で行ける」などと言ったら、気が狂ったかと思われる事でしょう。しかし、今日誰もそれをあざ笑う人はいません。むしろ、当然と考えます。もし、神様の愛という新幹線を、制令というモーターで走るなら、3時間で、「聖人」駅!
神様の愛の御名を唱え、愛の御霊を注いでいただき、愛のみ名の内に、神と一つになって、愛の中におり続けるなら、聖人になることは当然、聖人にならないことの方がむずかしいのです。
古だたみのような自分を投げ捨て、神様の愛の中に飛び込んで行きましょう。
「私たちが神の子と呼ばれるためには、どんない大きな愛を父から賜った ことか。よく考えてみなさい。私たちは、自分達が彼(キリスト)に似
るものとなることを知っている。」<Iヨハネ3:1ー2>
「神は愛なり」