七章 救いへの道
お義姉[ねえ]さんへ
いつもお世話になりありがとうございます。私が、91年の末に、一旦退院したものの、病状は悪化をたどり、心は真っ暗な絶望の中にいた時、皆治してやりたいと、心を砕き励ましてくれましたよね。有り難かった。そんな時、近所の霊感のあると言う人が、
「お大師様にすがりなさい、お大師様が救って下さいます。」
と言われて、なんだか暗闇の中に、一筋の光が見えた様な気がして嬉しかったわ。早速、お義父さんとお義母さんは、西国寺に治癒祈願に行って下さったし、お義姉さんは、忙しい時間にも拘らず、毎朝、私を車に乗せて、西国寺に連れて行ってくれ、一緒に祈ってくれましたよね。結局は、市民病院に搬送される事により、それは、終わりを告げたのだけど、してもらった好意は、いつまでも消えず、私の心を暖かくしてくれています。それに、家の不肖の娘達の事を、親身に面倒見てくれている事も、主人や本人達から聞いて、心でいつも感謝しています。
お義姉さん私ね、この病気は、私にとって必要な物だったのではないか、と今は思っています。前の私は、「喜怒哀楽」の「哀」は、肉体の痛みばかりで、心の痛みや哀しみには、極めて鈍感だったと思うのです。お義姉さんが、前に癌かもしれないと悩んだ時、私はピンと来ず、悩みを共有してあげられなかった。癌で無かったから良かったものの、矢張り、そんな私を許せないのです。私が21歳の時に、父が亡くなりました。何も知らずに、冬休みで東京から帰って来たら、会津若松駅に、母の実家のきい子叔母ちゃんが迎えに出てて、父が芦ノ牧温泉での忘年会で倒れて、脳挫傷で意識不明の重体と聞かされても、なんかピンと来なくて、いやに冷静な私がいたのです。病室に入るとすぐ、父は私の声が聞こえたのか、一瞬ぐーんと起き上がったのです。きい子叔母ちゃんは泣きながら、
「何日も前から、幸子が帰って来ると楽しみにしていたから、幸ちゃんの事きっとわかったんだから。」
と言いました。それ程愛してくれたのも知ってるし、小さい時から本当に可愛がって貰ったし、私も父が大好きだったのに、不思議と感情が動かなかったのです。私が帰って一週間目の元旦に、祈りも空しく、意識の戻らないままに亡くなりました。勿論その時は、悲しくて辛くて泣いたのだけど、お通夜やお葬式には、全然泣けなかったのです。普段は夢想家なのに、肝心な時に、父との思い出が何も浮かんで来なかったのです。矢張り、私の心には、欠陥があったのだと思います。
今究極の病人になって、生きているのでは無く、生かされている身になってから、キリスト教と再会して、色々な事が分かる様になりました。私と病気では絶望しかありませんが、私と病気とイエス様なら、希望があり、許しがあり、救いがあり、心が穏やかで、昔からの出来事を、一つ一つ思い出して反省する事が出来るのです。ですから私は、今平安に毎日を感謝しつつ暮らしていますから、どうぞ安心して下さい。そして、引き続き娘達の事、よろしくお願い致します。どうぞお身体をお大切に。
「神は愛なり」
内田富子様へ
いつもお忙しいのにお手紙ありがとう。文通し始めてもう五年になるでしょうか。こんなに続いたのも富子さんのお陰です。私、暇人のくせに筆不精で、中々返事を書かなくても、待たずに手紙をくれましたものね。何回かの時、私が、
「尾道では、知人は多いけど、残念ながら友達は出来なかった。」
と書いた事がありましたよね。理由はそうそう、奈々子が高校の頃、よく私と衝突していた事でしたね。私は短気だったし、奈々子は誰に何と言われようと、ポリシーを変えようとしない頑固な所がありましたしね。一度私は彼女に、
「出ていけ!」
と言ったら、本当に出て行っちゃって、外は暗いし心配して捜し回って、結局は親友の尚ちゃんの家に居て、安心したのですけど。次の衝突の時、もう捜すのかなわんから、
「あんたはいいから、お母さんが出て行く。」
と言って、コートと財布を持って外へ飛び出したけど、考えてみると何処にも行く所が無くて、結局映画を見て時間を潰して、主人に迎えに来て貰って帰ったのでした。その時初めて、心を許し合える友達の、いない事に気が付いたのでした。その事を書いた時富子さんは言ってくれましたよね。
「私が、友達に立候補します。」
って。嬉しかったわ。それから、どんなに励まされた事か。それに、超能力者を知っている人を、紹介してくれた事もありましたね。結果はどうあれ、その時は幸せを感じていました。そして、富子さんの親友の娘さんが、敬虔[けいけん]なクリスチャンで、その縁でそのRさんとお会いし、イエス様の救いに導かれたのです。だから、富子さんには凄く感謝しています。念の為に言い添えますが、奈々子も大人になって、今は外泊の時の私の世話を、引き受けてくれています。でも、丁々発止と渡り合ってた頃が懐かしいです。
それではこの辺で、乱文にて失礼致します。お元気で。
「神は愛なり」
Rさんへ
いつもお世話になりありがとうございます。Rさんと初めてお会いしたのは、阪神大震災のあった年で95年の11月の末の事でしたよね。その前に、あなたが、富子さんに宛てた手紙を見せて頂きましたが、そこには、
「人的な救いには限界があり、人間を真に救えるお方は、イエスキリスト以外にはおられない。それを行広さんに知らせたい。」
との内容だったと思います。私は即会いたいと思いました。昔とは言え、ミッションスクールで六年学び、キリスト教は私にとって、故郷の一部でもあったからです。
富子さんと一緒に来られたあなたは、とても清楚な印象を受けました。でも、神を語るあなたは熱っぽく自信に満ちていましたよ。そして、
「イエスキリストは全知全能の神であり、今も生きて働いておられます。御名[みな]をあがめて願うなら、必ず癒されます。御名は神の御実体であり、オールマイティであるからです。」
と言われましたね。病人にとって「癒される」との言葉は、私の様に医学から完全に見放された者には特に、非常に魅力的で、大いなる喜びに満たされて、まっしぐらに飛び付きました。その結果はまだ叶いませんが、希望を持って行きられると言う事は、なんと幸せな事でしょうか。Rさんに会う前の私は、絶望にどっぷり浸かり、流した涙で、左耳が聞こえなくなった程でした。ですから、日夜「救い」を渇望[かっぼう]していたのです。
あなたは、神様の御名は12にあり、御名によって人は神と出会い、聖霊を受けると言われました。又、聖霊を受けると御名が、腹の底から湧いて来て止まらなくなるとも言われました。そして、よくあがめられる御名は、「我は主なり」「神は愛なり」「我は全能の神なり」である事も知りました。私は、必死で御名をあがめました。朝も昼も夜も。聖霊を求めた訳では無く、信仰を求めた訳でも無く、只一点「癒し」のみを求めての事でした。Rさんは癒されると言ったのに、東京から来られた牧師様も、
「それを売りにしている訳ではありませんが、現実に癒された方は、沢山いらっしゃいます。」
とおっしゃったのに、何故私は癒されないのか悩みました。矢張り奇跡は聖書の中だけのお話なのかと、落胆しかけていた96年の3月3日に、全く予想もしていなかった、不思議な体験をしたのでした。夜の6時よりいつものように、御名をあがめ始めました。「我は主なり」「我は主なり」と。15分が過ぎた頃、なんとも不思議な感覚に捕らえられました。御名が独りでに湧いて来るのです。御名が私の手を離れて、独り歩きを始めた様な、不思議な感じで、リズミカルに次々と湧いてくるのです。7時を過ぎましたが、御名の流出は留まる気配がありません。7時半に止めようと試みましたが止まりません。これが、聖霊を受けると言う事でしょうか。うわー凄い体験をしている。感動で胸が一杯になりました。7時50分の二度目の試みで止まりました。「神様って本当にいたんだ。」と言うのが実感でした。この体験により、私は希望と救いと、永遠の命を与えられたのですよね。御父とイエス様と聖霊は同義語(三位(さんみ)一体)である為、私の心の核心に、イエス様がお宿りになったと言う事と、あなたは教えて下さいました。私の様な癒される事だけを求めている、不信仰な者でも、イエス様は、大きな愛で包んで下さいました。
Rさん、私はあなたが導いて下さったイエス様に、精一杯愛をお返ししたいと思っています。まだその方法は分かりませんが、このような状態でも生かされている、存在理由と使命について、祈り求めて行く積もりです。私にはもう絶望の涙はありません。でも、弱虫なので、いつも側に居て、はっぱ掛けて下さいね。これからもどうぞよろしく。
「神は愛なり」
K先生、J先生へ
いつもお祈りありがとうございます。K先生が、「聖イエス会」の三原教会に、任命を受けて96年の4月に赴任されて、初めてお会いしてから、四年の月日がたちました。早いものですね。先生が、主人の高校のラクビー部の後輩と聞いて、ぐっと親しみが湧きました。程無く結婚されて、奥様のJ先生も一緒に来て下さる様になり、気さくで明るいお二人に、お会い出来るのが楽しみで、外泊が待たれました。先生は、聖書のみ言葉をとり継いで下さいます。「カナの結婚式」で水を葡萄酒に変えられた、イエス様の初めてなさった奇跡や、「娘よさあ起きなさい」「息子よさあ起きなさい」等の、死人を生き返らせた奇跡等、本当に沢山学ばせて頂きました。こんな言い方は失礼かも知れませんが、一年目より二年目、二年目より三年目と、メッセージに迫力が増して来られたと思います。
受け手が私一人では、贅沢過ぎて勿体無いと思っています。それに毎週日曜の夜に、三原からおいでくださるもの、大変な努力のいる事と感謝しております。
J先生には、同性の気安さから、つい愚痴を聞いて頂く事が多くて済みません。それに、今まで沢山の病気を癒された方や、他の教会の牧師様に、お会いする機会を与えて頂きましたが、どの方も信仰の手本であるばかりで無く、人格がお優しいと感じました。聖霊を受けると言う事は、心の核心に、イエス様が宿られ、謙遜で柔和なもう一人のキリストとして生きる事との教えが納得出来ました。しかし、それなら私はどうしたのでしょうか。聖霊を受けても、謙遜にも柔和にもなっていません。私はイエス様にもっともっと近づいて、自分を刷新したいとの願いから、洗礼を受ける決心をしたのです。家族の承諾も得て、先生にお願いしました。ついに、97年12月に、自宅で先生より洗礼を受けました。主人や娘達ばかりでなく、J先生、内田富子さん、Rさん、義姉にも出席して貰えた、幸せな洗礼式だったと、今でも感激がよみがえります。マグダラのマリヤとの霊名を頂きましたマグダラのマリヤは、イエス様に悪霊を追い出して頂いてから行動を共にして、イエス様や、弟子達のお世話をしていた婦人の一人で、十字架上のイエス様を、万感の思いで見守り、朝早く墓に出かけて行って、復活されたイエス様に、一番最初に出会った婦人であるとお聞きし、私もそれに恥じない信仰を持ちたいと思いました。
受洗にあたって書いた告悔文は、本当に辛いものでした。イエス様を十字架に架けたのは、紛れもなく私の罪のせいだと思いました。何の罪も無い、謙遜で柔和な神の子イエスキリストが、十字架上で死なれたのは、全人類の過去、現在、未来の罪を、完全無欠にあがなう為のお聞きしました。それでは、私の罪も、イエス様の流された、尊い血によりあがなわれたのでしょうか。申し訳無いと思います。十字架には、愛があり、許しがあり、救いがあるのですね。
最近お会いしたI牧師様も、M牧師様も、
「人間の究極の目標は、生ける神と明確に出会う事。」
とおっしゃいます。先生も、
「なにかれで無く神御自身を求めなさい。」
とおっしゃいますよね。そんな時、健康で神だけを求めている人に、純粋さではかなわないな、と思ってしまいます。私の信仰の一辺には、矢張り「癒されたい」との思いがあるからです。でも勿論今はそれだけではありません。「救い」は、確実に私の中に根を張りました。これからも多分悩みながらも、一つ一つの芽吹きを大切に、信仰を育てて行きたいと思います。どうぞこれからもよろしくお願い致します。
「神は愛なり」
あなたへ
いつも何をして貰っても、当然の様な顔をして、お礼を言った事はありませんでしたが、今日は素直にありがとうと言わせて貰います。
あなたは、半世紀近くキリスト教と無縁に暮らして来ました。それを、私が救われるならと、キリスト教を受け入れてくれました。正確には、私が、信仰を持つことを認めてくれ、毎週土曜から月曜の朝まで外泊させてくれ、日曜にK先生、J先生、Rさんにお会い出来る様に、道筋を整えてくれました。それに、先生やRさんに、感謝の気持ちを持って、接してくれましたよね。私が今、心穏やかに暮らせるのは、イエス様に導かれたお蔭であり、それは、あなたが、万難を排して連れて帰ってくれたお蔭で、与えられた幸せなのです。本当にありがとう。あなたは忙しくて、全然キリスト教の事が解かる余裕が無いけれど、定年にでもなったら一緒に教会に行きましょう。99年の5月30日に、初めて、三原教会に連れて行って貰えた感激は、いつまでも忘れません。臼井先生のメッセージも感動でした。
でもあなた、最近体力落ちたのじゃありませんか。前は私を抱き上げて車に乗せるのも、軽々だったのに、最近辛[つら]そうよ。もう少し面倒かけるから、腕力鍛えて下さいね。かく言う私も、年のせいか、毎週帰ると疲れる気がしますから、お互いが無理の無い程度に、適当に連れて帰って下さいね。
それに、毎週帰れたのは、日曜に何処にも行かず側に居てくれた、聡子と裕見のお蔭でもありましたよね。共に高校、大学受験の時も、文句一つ言わないので、甘えてしまって配慮が足らなかったと思います。でも、イエス様の為に働いた事なので、きっと祝福して下さっていると思います。私が入院した時、聡子は中1、裕見は小4でした。まだまだ母親の必要な時に、私は、坂道を転げ落ちる様な毎日に脅[おび]え、母親らしい事何一つしてやれなかったのに、本当に良い娘に育ってくれて感謝です。子を守るべき親である私は、反対にいつも聡子と裕見に守られてきたみたい。本当にありがとう。と言いたいです。
そして、あなたは、
「いつ治るのか。」とか「こんな生活いつまで続くのか。」
とか、私のプレッシャーになる言葉を一切言った事がありません。それも本当にありがたいです。生きとし生ける者を、有るがままに受け入れる強さを、あなたから学びました。それには、ずいぶん苦しい思いもあったと思います。ごめんなさい。そしてありがとう。
どうぞ、これからもよろしくお願いします。
「神は愛なり」