あ行
アーメン
アーメンとは、『本当にそうです』という神の真実に対する感動から発せられ、『そのようになりますように』という願いも含まれた意味です。クリスチャンの祈りもアーメンで締めくくられ、『真実がなされますように』と神への信頼も表します。
あかし(証し)
神によって、受けた恵みが真実であることを証言することを言います。
(例・・・イエスによって救われたことをあかしする)
贖い(あがない)
あがないとは、代価を払って買い取るという意味です。イエス・キリストが十字架の死、神の裁きである死という代価を払うことにより、本来わたし達が受けなければならない罪の裁きである死から買い取ったことをさします。
「私たちは、この御子のうちにあって、御子の血による贖い、すなわち罪の赦しを受けているのです。これは神の豊かな恵みによることです。」
エペソ人への手紙 1章7節
悪霊(あくれい)
サタン(悪魔)の支配下にある霊的存在であり、その数は多く、レギオンと言う軍団をなし、人間の心の中に入り、その人格を支配することもあります。
イスラエル
「神が戦う」の意味で、神がヤコブに与えた名前であり、その子孫である民族の別名です。またその民族からなる国をさすこともあります。
異端
聖書で教える真理に反する教えを持ち、キリスト教の一派を自称するものを異端と呼びます。キリストはこれらを偽キリスト、偽預言者と言って、その出現を予告して注意を促しています。異端の特徴としてキリストの神性を否定します。
「偽り者とは、イエスがキリストであることを否定するものでなくてだれでしょう。御父と御子を否定する者、それが反キリストです。」
ヨハネの手紙第一
2章22節
異端はキリストの受肉(神であるキリストが人となりこの世にきたこと)を否定します。
「人となって来たイエス・キリストを告白する霊はみな、神からのものです。それによって神からの霊を知りなさい。イエスを告白しない霊は一つとして神から出たものではありません。それは反キリストの霊です。あなた方はそれが来る事を聞いていたのですが、今それが世に来ているのです。」
ヨハネの手紙第一 4章2節〜3節
異端はキリストの十字架の贖いを否定します。
「しかし、イスラエルの中には、偽預言者も出ました。同じように、あなた方の中にも、偽教師が現れるようになります。彼らは、滅びをもたらす異端をひそかに持ち込み、自分たちを買い取ってくださった主を否定するようなことさえして、自分たちの身にすみやかな滅びを招いています。」
ペテロの手紙第二 2章1節〜2節
このようにキリストの神性、受肉、贖いを否定しているかどうかが基本的な判断基準となります。さらにこの真理を否定することは、三位一体の神、キリストの復活、目に見える方としての再臨、永遠の刑罰などの重要な教理も否定することになるため、注意深く見極める必要があります。初めて教会を訪れる際には、これらのことを質問してみることはとても大事なことです。
<異端を見極める具体的な特徴>
- 聖書の解釈が自己流です。
- キリスト教用語を使いますが意味が違います。
- 正統的な教会や団体に協力しているように見せかけます。
- 聖書のほかに自分たちの独自の経典を持ち、神の啓示の書であると主張する人たちもいます。
「私は、この書の預言のことばを聞くすべてのものにあかしする。もし、これに付け加える者があれば、神はこの書に書いてある災害をその人に加えられる。また、この書のことばを少しでも取り除くものがあれば、神は、この書に書いてある命の木と聖なる都から、その人の受ける分を取り除かれる」
ヨハネの黙示録 22章18節〜19節
- 自らを神(例・・キリストの生まれ変わりだと主張)とするような権威を持って信者を意のままに操る教祖のような指導者もいます。
「そのとき、あなたがたに、『そらキリストがここにいる。』とか、『ほら、あそこにいる。』とか言う者があっても、信じてはいけません。にせキリスト、偽預言者たちが現われて、できれば選民をも惑わそうとして、しるしや不思議なことをして見せます。だから、気をつけていなさい。私は、何もかも前もって話しました。」
マルコの福音書 13章21節〜23節
- 聖書の極端な解釈から非社会的な行動をとることもあります。
- ある種の政治勢力と結託して勢力の拡大を図るものもいます。
- 神による一方的な恵みによる救い(義認)ではなく、自分の行いによる救いを主張する人々もいます。
「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たのではなく、神からの賜物です。行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。」
エペソ人への手紙 2章8節〜9節
異邦人
聖書においては、ユダヤ人以外の人々をさします。当時のユダヤ人達は、自分たちだけが、神に選ばれた民族であるとの優越感を持っており、神がどんな民族であろうとも平等に信仰者を受け入れ、救い出す御方であることを理解していませんでした。しかし神は、使徒ペテロに、幻を通して全世界のあらゆる民族の信仰者が等しく救われることをしめされ、それから後、その救いの真理は、全世界に伝道されていきました。
インマヌエル
「神は私たちとともにおられる」という意味で、旧約聖書のイザヤ書において預言され(イザヤ書7章14節)、新約聖書のマタイの福音書において成就した(マタイ1章23節)救い主イエスにつけられた名前です。
永遠のいのち
本来わたしたち人間には、永遠のいのちが神によって与えられていましたが、人間の罪に対する裁きとして死が与えられました。しかし神は終末にキリストを信じる者には永遠のいのちを与えられて、完全な不滅の存在としてくださることを約束されています。そして神を誉め称えながら永遠に神とともに生きるのです。
「あらゆる恵みに満ちた神、すなわち、あなたがたをキリストにあってその永遠の栄光の中に招き入れてくださった神ご自身が、あなたがたをしばらくの苦しみのあとで完全にし、堅く立たせ、強くし、不動の者としてくださいます。」
ペテロの手紙 第一 5章10節
永遠の刑罰 → 最後の審判
エルサレム
聖書の時代において、最も重要な都市の名前です。統一王国イスラエルとユダ王国の首都でした。神殿はエルサレムに建てられたため、多くの人々が神を礼拝するために訪れましたが、紀元前587年に、エルサレムは、バビロニヤの軍隊によって占領、破壊されます。バビロンでの70年間の捕囚の後にユダヤの民は、エルサレムに帰還し、町は再建されました。イエス・キリストは、この町の外で十字架につけられ、復活しました。