アッセンブリー誌
2001.5.


いきいきした礼拝を目指して

2.楽しい教会、楽しい礼拝

『自然に成長する教会』(1996,Christian A.Schwarz)の中には、質が高く成長している教会は、「生き生きとしている(inspiring)礼拝」を捧げていることが上げられていると申し上げました。このことについてもう少し見ていきたいと思います。
「聖霊が本当に働かれるところではどこでも、集会の雰囲気も含めて、礼拝が捧げられる方法に具体的な影響が出てくるのである。真に生き生きとした礼拝に出席している人は、口をそろえて『教会に行くことが楽しい』と言う。」
このことと正反対の考え方は、「クリスチャンはクリスチャンとしての義務を果たすために教会に行くという考え方である。人が教会に行くのは、そこで喜びやいのちあふれる経験ができるからではなく、牧師や神に気に入られたいと思うからである。喜びのない退屈な礼拝に耐える誠実さをも神が祝福されるとさえ信じている人もいる。このように考える人たちは、常に他のクリスチャンに対しても教会出席のプレッシャーをかける傾向がある。彼らは、礼拝の中に現れる神による成長の自動性ということを理解していない。礼拝が生き生きしたものであるならば、人々は『おのずから』礼拝に引きつけられるのである。」
これは、耳の痛い話です。私自身、この基準を忘れないようにしたいと思っています。みなさんは、礼拝に行くことを「楽しい」と感じているでしょうか?それとも「義務」と感じているでしょうか?

【楽しい礼拝のための環境】

@ 神様との正しい関係
礼拝を楽しいと感じるためには、様々な環境が必要だと思います。たとえば、神様の前に出たいと願う信仰です。自分自身がどんな状態であったとしても、イエス様は私達を愛して下さっているという確信が必要です。クリスチャンは、いつのまにかイエス様の愛を条件的なものに変えてしまいます。「礼拝に出ているから、伝道しているから、奉仕しているから神様は私を愛して下さっている。」というのは間違っています。もちろんそれも大切ですが、イエス様は何をしていなくても、私達を愛して下さっているのです。
「もし敵であった私たちが、御子の死によって神と和解させられたのなら、和解させられた私たちが、彼のいのちによって救いにあずかるのは、なおさらのことです。」(ローマ5:10)
ですから、私達は大胆に神様の御前に出ることができます。礼拝は神様との出会いの場です。もし私達が神様を心から愛しているなら、その時が待ち遠しくなるのです。そういう神様との正しい関係が必要です。

A 人々との正しい関係
教会に嫌いな人、恨んでいる人がいるなら、私達は礼拝に集いたくありません。イエス様はそのことにも触れておられます。
「だから、祭壇の上に供え物をささげようとしているとき、もし兄弟に恨まれていることをそこで思い出したなら、供え物はそこに、祭壇の前に置いたままにして、出て行って、まずあなたの兄弟と仲直りをしなさい。それから、来て、その供え物をささげなさい。」(マタイ5:23〜24)
勇気をもってその人と和解しましょう。そうすれば、生き生きとした礼拝を捧げることができます。

B 参加すること
ある人々は、礼拝を評価するために教会にやってきます。椅子に座って、司会者のネクタイから始まって、選曲、奏楽、説教と評価していきます。そしてお昼を食べながら友人のクリスチャンたちと、「今日の礼拝は何点だったか」について話し合うのです。それは、まるで野球場で野球を見ているような態度です。神様は私達を観客として召されたのではなく、「祭司」として召されたのです。もし、私達が観客席から立ち上がって、礼拝の場へと降りていくなら、その礼拝は間違いなく生き生きとしたものとなるでしょう。どのようにして参加するのでしょうか。祈りと賛美を捧げる心をもって、御言葉に心から同意する信仰をもって参加するのです。牧師や奉仕者にも励ましが必要なのを御存知ですか?彼らのために祈り、励ます時、私達の信仰生活も祝福されるのです。
私達の教会が、楽しい教会、楽しい礼拝となるよう、私達自身の環境を整えてまいりましょう。