奇跡の出会い <2> "出会い編"

その様な究極的絶望感の崖っぷちに、私の心が打ちのめされていた時、あるクリスチャンの方と出会いました。その時は、クリスチャンである事は知りませんでしたが、人の鎮痛な心の中って、口に出さずとも顔面には表れるものですね。私の中にある悩みを察知して、あるクリスチャンの自叙伝を下さいました。

† 神に近づきなさい。そうすれば、
神はあなたがたに近づいてくださいます。(ヤコブ  4 ・ 8)


何気なく目を通している内に、余りにも正直で純粋な作者の心に、時として生きているのが辛かった、私のハートが完全に奪われてしまいました。彼女の証しにありました「キリストによって新しく生まれ変わった。」と言う本の内容は衝撃的であり、反面、何故か新鮮でもありました。それ迄の私は、キリスト=西洋画家達が描かれている、十字架の上で、痛々しい程にぐったりされている男性と言う認識と、四聖人の中の一人としての、認識でしかありませんでした。

所がある日、がんじ搦めになっている、この切なくてやるせない気持ちから、ほんの少しでも救われるものなら、もっとイエス様の事を知ってみたいと言う、内なる欲求が生じました。この欲求は、自分の意志等でコントロール出来るものではなく、まるで目に見えない何かに導かれる様に、自らが教会の門を潜りました。

今まで得体の知れない、心の飢え渇きの中にあった私でしたが、そんな中で、雲の合間からゆっくりと、優しく包み込んでくれる様な、今迄に体験した事のないような、それは実に、不思議な感動と、図り知れない安らぎ、心からの解放感でした。

† すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、
わたしのところに来なさい。
わたしがあなたがたを休ませてあげます。(マタイ  11 ・ 28)


若し真の神様との出会いがなかったならば、世を憂いつつ、一人淋しく心の暗闇を、今も尚呟きを繰り返し乍ら、さ迷っていたかも知れません。今までからも、様々な形で、色んな事をお語り下さっていたのでしたが、私の心の状態が閉ざされたままの時は、その御声を聞く事が出来なくて、幾度も通り過ごしていた事を、思い知らされたのでした。

私の限られた考えの及ぶ範囲の、小さな側面だけを見て、「真実」を逃していた事にも気ずかされたのでした。 はっきりと今、上からの御声が、イエス様からのものであるという、確かな手応えで間違いなく、確信を得る事が出来ました。恵みによってお導き下さっている主の御声に、無邪気に素直に従う日々を歩ませて戴きたいと、切に願う日々の中で生かされております。

† もしあなたがたが、わたしのことばにとどまるなら、
あなたがたはほんとうにわたしの弟子です。
そして、あなたがたは真理を知り、
真理はあなたがたを自由にします。 (ヨハネ8・31)

<menuに戻る> <奇跡の出会い (3)Next>