2002825日(日) 第二礼拝     石井 忠雄 師

説教要旨 「人より神に」 使徒の働き4:1〜22

 ペテロとヨハネが「美しの門」で物乞いをしていた男性の足を立たせたことは、教会に対する多くの人の関心をあつめました。 そのことから、その力がどこから来たかについて、説教をすることになりました。

 また、このことがきっかけとなって、教会はユダヤの議会の権力と対決するようになり、迫害を受けるようになります。

 1.使徒たちの逮捕とその理由(1〜4)

ペテロたちが多くの人に向かってナザレのイエスこそ死を打ち破り、今も生きておられる方であること、そして私達もその復活に預かるものとなることを、語っているときに祭司、宮の守衛長、サドカイ人らがやってきました。

 ここにやってきた「祭司たち、宮の守衛長、また、サドカイ人」といわれる人々は、当時のユダヤの貴族や神殿を司る宗教的な指導者また、社会的、政治的な権力者でした。そして、思想的には旧約聖書を受け入れてはいますが、合理的な考え方をし、み使いの存在や霊の存在を否定し、復活を信じていない人々でした。これらの人々にとって自分たちが管理している宮の中で公然と「『死者の復活』が宣べ伝えられている」ことは由々しい事柄でした。しかも、これらの人たちの目には、群集を集め、当局が死刑にしたイエスのことを宣べ伝えていることは、人々を扇動し、騒動を起こす危険があると映ったようです。そこで、弟子たちを逮捕し、群集から隔離し、それらの活動をやめさせようと考えました。

 イエスさまの復活を承認することは、また当時の権力者であるユダヤ議会が否定し殺したイエスさまがメシヤであることを神が認めたことを表します。すなわち人が罪ありとして、殺し葬り去ったものを神が義なるものと認め、生かし、立たせたことになります。

そのことは権力者のミスジャッジを明らかにすることになります。大いに面子を潰すことになります。いえ、責任問題に発展するかもしれませんし、人々の信用を失うことになるでしょう。しかし、主の弟子にとっては、自分達が従っているイエスは、死をも打ち破り、神として今も生きておられること、自分達の主となってくださり、4:2に「イエスのことを例にあげて、死者の復活を宣べ伝え」とありますように、私達も復活の希望に生きることができるという意味があります。

 サドカイ人のもう一つの面は名前をギリシャ風に変え、生活もギリシャ風な生活を好んでいました。また、彼らはローマ政府に協力し、今の秩序を守ることをモットーとし、民族的な紛争を起こして、その秩序を破壊することを嫌っていました。

 そして、こんな状況の中でも、神さまは、5000人の人を信仰の恵みに入れてくださいました。

 2.最初の裁判(5〜12)

 さて、ユダヤはロ−マの植民地でしたが、宗教的な自治、またそれに基づく裁判の自由や刑の執行はある程度、認められていました。逮捕はおそらくサドカイ的な、また政治的な思惑によったのでしょう。そして、イエス・キリストの復活を説くことによって、人々が、自分達と違う考えに引き込まれて行くこと、また、それによって人々の思いがあおられ、暴動へと発展することを恐れたのでしょう。さらに、これによって現体制の秩序が崩され、今まで自分達が享受してきた特権が失われる危険を感じた等々……の理由によったのではないかと思われます。しかし、実際の裁判は奇蹟を行った力は何かを問う、宗教裁判となりました。それは、この裁判を執行するサンヘドリン(70人議会)には、サドカイ人ばかりではなく、天使や霊の存在を信じ、死人の復活を信じるパリサイ人がいたからです。彼らは、数の上では決して多くはなかったようですが、人々に大きな影響力をもっていましたので、無視することはできません。

 ですから尋問の内容は復活や宮の騒乱罪ではなく

 @ 何の権威(力)によるのか

 A 誰の名によるのか

の二点に変えて追求することに変更されました。

 権威とは「力」のことです。また、「名」というとき、当時ユダヤ人の間で、聖人の名で悪霊追い出しを行っていました。ですから、その力の源は何かを聞きたかったので

す。それに対して弟子たちは、

@ 今日裁判を受けているのは、病人を癒したといいう「良い業」についてであり

 A そのことの原因がなにかというなら答えようといい    

 それは、誰も知らないような人物の名によってなされたのではなく

 あなたがた(ユダヤの議会)が、偽メシヤとして葬り去ったナザレのイエスの名によるもので、そのイエスこそ人々には捨てられたが、神が隅の頭石にされたと詩篇118:22で預言されているメシヤなのであることを語り、弁明したのです。

 また、この詩篇の預言は、神が建てられる新しい神の宮は、ユダヤ人が長い間守ってきた、律法を守ることによって建てられる、ユダヤ教ではなく、イエスさまの血によって贖われる、教会であることを意味しています。

 「隅の頭石」とは建物の角にあって二つの壁を支える大切な土台のことで、この石があって始めて建物は建て上げられ、維持されるのです。ユダヤ人は、この石はアブラハムの子孫であること、また自分達が律法を全うすることと考え、その上に建てられているイスラエルの国であると考えました。しかし、実際はイエス・キリストの十字架の血による贖いによって、それを信じる信仰の故に立てられる教会なのです。

このことは当時の支配者にとっては耳の痛いことです。当時の指導者の判断が間違っていたことが指摘されたばかりか、彼らが行ったことは神に敵対する行為であることを指摘されたからです。

 もし、私たちが、自分の罪を指摘されたり、問題点を示されたりしたらどうでしょう。

世の様々な事件においても、「その罪を犯したのはあなただ」と指摘されたらどうでしょう。

それを素直に認めないばかりか、いろいろな理由を上げて自分の正当性を主張するでしょう。

 しかし、使徒は続けます。救いはこのイエスにしかない。このイエス以外に救われる道はないと。もしそうなら、道は一つしかありません。今自分の立っている立場を180度回転して、イエスに向き直ればいいのです。悔い改めること、そのことが一番大切な行為なのです。

 3.支配者の反応(13〜22)

 でも、議会は使徒たちの弁証に反論することができませんでした。なぜなら、ペテロとヨハネが無学な徒であるのに、こんなに確信を突いて語っており、しかもかつてイエス・キリストと関係のあった弟子たちだからです。その上弟子達が癒した人物が使徒たちと共にいて、彼らの行ったことが、事実であることを証明しているからです。

さらにこのことはエルサレム中に知られており、否定のしようがなかったからです。

ですから、イエス・キリストの名によって行ったという証言は、信ずるに足るものでした。

 もし、ペテロたちの弁証に偽りがあるなら、議会はその誤りを指摘し、反論すべきです。そうすればペテロたちの主張は抑えられるし、人々にそれが間違いであることを知らせ、人々の心を教会から引き離すことができるはずです。特に使徒たちが、歩けなかった男性を立たせたことの力の根源をイエス・キリストの名に置いて、イエスさまの復活がメシヤのしるしだと証言しているなら、その復活はなかったことを証明すれば事は足りたはずです。しかも、イエス・キリストの十字架と復活は、そんなに大昔の話ではないのです。長く見積もっても数ヶ月前の出来事です。それでも議会は、それを否定することができなかったのです。

ここで弟子達は、ユダヤの指導者が間違ったことを行ったことを責めているのではありません。彼らが間違った選択をしたことに気がついて欲しいのです。

しかし、支配者たちは、悔い改めませんでした。

それは支配者たちが、自分たちのプライドを捨てることが出来なかったからですし、神さまの御心よりも、自分達の立場、考えを第一として考えていたからです。

そこで、議会のとった方法は、弟子たちに伝道することを禁止することでした。彼らは権力の力をもって、弟子達の行動を押さえにかかったのです。

 しかし、使徒たちの方は

 @ 神に聞き従うより、人に聞き従う方が正しいのか

A 自分たちが見たり、聞いたり、行ったりしたことを話さない訳にはいかない。

という立場を選びました。

それは、この方以外に救いはないことを知っていたからです。

 そしてこれらは、観念的に、また論理的に正しいだけでなく、彼らはこれを体験で知っていました。キリストにある力は、人々を自由にし、生き生きと活かすことを知っていました。この40年間も歩いたことのない人物を歩かせただけでなく、彼に神を賛美する口を与え、喜び、踊る心を与えたのも、教会の土台となっておられるイエスさまの力です。

  真理を曲げることは神の前に間違っていることを彼らは知っていたのです。     

 

家造りらの捨てた石が隅の頭石=他の建物の頭石のこと

 イスラエルが神の家を建てるときに、不適格、不要として捨てた石は、真の神殿の頭石であったということ。これは、自ら律法を守り、義しく、知恵があり、神のみこころを行っていると誇っていた、イスラエルの指導者が、大変な間違いを犯し、しかも、神に敵対するようなことを行っているということを示している。

 そして、神が備えられた救いの道は、この神が据えられた「真の隅の頭石」すなわちイエス・キリストの名による以外にないというのです。

 

 イエスと共にいる=自分の能力や力で生きていると思われない。いつも主が共におられるからくることを世の人が認めるような生き方。そのようにキリストと共に生きていること。

 

使徒の働き 4:1〜22 [新改訳]

4:1 彼らが民に話していると、祭司たち、宮の守衛長、またサドカイ人たちがやって来たが、

4:2 この人たちは、ペテロとヨハネが民を教え、イエスのことを例にあげて死者の復活を宣べ伝えているのに、困り果て、

4:3 彼らに手をかけて捕えた。そして翌日まで留置することにした。すでに夕方だったからである。

4:4 しかし、みことばを聞いた人々が大ぜい信じ、男の数が五千人ほどになった。

4:5 翌日、民の指導者、長老、学者たちは、エルサレムに集まった。

4:6 大祭司アンナス、カヤパ、ヨハネ、アレキサンデル、そのほか大祭司の一族もみな出席した。

4:7 彼らは使徒たちを真中に立たせて、「あなたがたは何の権威によって、また、だれの名によってこんなことをしたのか。」と尋問しだした。

4:8 そのとき、ペテロは聖霊に満たされて、彼らに言った。「民の指導者たち、ならびに長老の方々。

4:9 私たちがきょう取り調べられているのが、病人に行なった良いわざについてであり、その人が何によっていやされたか、ということのためであるなら、

4:10 皆さんも、またイスラエルのすべての人々も、よく知ってください。この人が直って、あなたがたの前に立っているのは、あなたがたが十字架につけ、神が死者の中からよみがえらせたナザレ人イエス・キリストの御名によるのです。

4:11 『あなたがた家を建てる者たちに捨てられた石が、礎の石となった。』というのはこの方のことです。

4:12 この方以外には、だれによっても救いはありません。世界中でこの御名のほかには、私たちが救われるべき名としては、どのような名も、人間に与えられていないからです。」

4:13 彼らはペテロとヨハネとの大胆さを見、またふたりが無学な、普通の人であるのを知って驚いたが、ふたりがイエスとともにいたのだ、ということがわかって来た。

4:14 そればかりでなく、いやされた人がふたりといっしょに立っているのを見ては、返すことばもなかった。

4:15 彼らはふたりに議会から退場するように命じ、そして互いに協議した。

4:16 彼らは言った。「あの人たちをどうしよう。あの人たちによって著しいしるしが行なわれたことは、エルサレムの住民全部に知れ渡っているから、われわれはそれを否定できない。

4:17 しかし、これ以上民の間に広がらないために、今後だれにもこの名によって語ってはならないと、彼らをきびしく戒めよう。」

4:18 そこで彼らを呼んで、いっさいイエスの名によって語ったり教えたりしてはならない、と命じた。

4:19 ペテロとヨハネは彼らに答えて言った。「神に聞き従うより、あなたがたに聞き従うほうが、神の前に正しいかどうか、判断してください。

4:20 私たちは、自分の見たこと、また聞いたことを、話さないわけにはいきません。」

4:21 そこで、彼らはふたりをさらにおどしたうえで、釈放した。それはみなの者が、この出来事のゆえに神をあがめていたので、人々の手前、ふたりを罰するすべがなかったからである。

4:22 この奇蹟によっていやされた男は四十歳余りであった。

Acts4:1−22 [NIV]

AC 4:1 The priests and the captain of the temple guard and the Sadducees came up to Peter and John while they were speaking to the people. 2 They were greatly disturbed because the apostles were teaching the people and proclaiming in Jesus the resurrection of the dead. 3 They seized Peter and John, and because it was evening, they put them in jail until the next day. 4 But many who heard the message believed, and the number of men grew to about five thousand.

AC 4:5 The next day the rulers, elders and teachers of the law met in Jerusalem. 6 Annas the high priest was there, and so were Caiaphas, John, Alexander and the other men of the high priest's family. 7 They had Peter and John brought before them and began to question them: "By what power or what name did you do this?"

AC 4:8 Then Peter, filled with the Holy Spirit, said to them: "Rulers and elders of the people! 9 If we are being called to account today for an act of kindness shown to a cripple and are asked how he was healed, 10 then know this, you and all the people of Israel: It is by the name of Jesus Christ of Nazareth, whom you crucified but whom God raised from the dead, that this man stands before you healed. 11 He is

" `the stone you builders rejected,

which has become the capstone. '

AC 4:12 Salvation is found in no one else, for there is no other name under heaven given to men by which we must be saved."

AC 4:13 When they saw the courage of Peter and John and realized that they were unschooled, ordinary men, they were astonished and they took note that these men had been with Jesus. 14 But since they could see the man who had been healed standing there with them, there was nothing they could say. 15 So they ordered them to withdraw from the Sanhedrin and then conferred together. 16 "What are we going to do with these men?" they asked. "Everybody living in Jerusalem knows they have done an outstanding miracle, and we cannot deny it. 17 But to stop this thing from spreading any further among the people, we must warn these men to speak no longer to anyone in this name."

AC 4:18 Then they called them in again and commanded them not to speak or teach at all in the name of Jesus. 19 But Peter and John replied, "Judge for yourselves whether it is right in God's sight to obey you rather than God. 20 For we cannot help speaking about what we have seen and heard."

AC 4:21 After further threats they let them go. They could not decide how to punish them, because all the people were praising God for what had happened. 22 For the man who was miraculously healed was over forty years old.

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