1999年5月9日
マルコ8章11節−13節 「キリストのしるし」

 私たちの回りでは、どんどん科学技術が進歩していき、なるほど生活は便利になりました。18世紀におきた産業革命以降、世の中は科学の発展をよろこび、また、万能としての科学を信仰するにいたっていきました。科学というのは、実証主義、証拠主義ですので、法則とそれを裏付ける証拠がなければ、科学的とは言われません。つまり、記し、証拠がなければダメなのです。それで、進化論における人類の祖先とされてきた、アウストラロピテクスを例に挙げましょう。あたかも人類の祖先とさせるため、オランウータンの骨と人間の骨をくっつけた真っ赤な偽者化石を作り、それをアウストラロピテクスと名づけました。これを証拠に、理科の教科書には10年前までは、これぞ進化論とばかりに教えられてきました。実証主義、証拠主義のなれの果てがニセモノ作りに走り、人々はだまされてきたのです。現在では、DNA鑑定をして、親子であるかどうかを調べることができるようになりました。便利ですが、それによって、せっかく仲良かった関係が赤の他人とわかり、家庭が傷つくということも起きています。
 今日登場する人々も、しるしを求めました。しかし、主はきっぱりと拒まれています。私たちは今、主イエスの救いを頂いていますが、救われている証拠を見せろといわれたなら、皆さんはどうしますか。主が語られていることを考えてみましょう。

1.キリストをためす
 主イエスのもとにやってきたパリサイ人たちは、主イエスがメシヤであることのしるしを要求してきました。なぜ、彼らはこんなことをしたのでしょうか。主イエスが彼らの要求通りに、証拠やしるしを見せたのなら、彼らは主イエスを信ずる、受け入れようと考えをもってのことなのでしょうか。
 彼らは既にマルコ3:20から27において、主イエスのみ業に対して、それが悪霊の仕業であると決め付けています。しかも、平行記事であるマタイ16:1〜12を見ますと、パリサイ人に加えてそこにはサドカイ人たちもいたことになっています。これはゆゆしきことです。というのは、彼らは常々犬猿の中として相対していたからです。パリサイ派は、人は聖書の言葉通りに生きるべきだと考え、それを実践してきました。サドカイ派は、聖書の言葉はもっと現実的に当てはめ、もっと自由であるべきと考えていました。どうしても主義主張が会わないのに、それでも一致してことにあたっているというところに、何か裏がある、魂胆があると思えるのです。
 この彼らのたくらみは、どうしたら主イエスを妨害できるかということでした。自分たちの都合や利益、自分たちの道理を通すためには、主イエスの働きは邪魔になりつつあったからです。そこで、しるしを求める格好をつけて、実はどれだけ主イエスが自分たちの妨げにならないかを調べるためにやってきたとしか、彼らのたくらみを考えることはできません。日本で言えば、「出るくいは打たれる」ということです。これ以上主イエスの説教やいやしの奇跡が、彼らに目障りな存在ならば、主を何とかしようという考えがそこにあったのです。すなわち、主を利用できるかできないかを試すためであったと言えるでしょう。

2.しるしは与えられない
 こんな陰謀があるということを、主が知らないはずがありません。主はきっぱりと、「しるしは与えられない」と彼らを拒まれました。注目すべきは、主の深いため息です。先週もお話しましたが、この言葉は、新約聖書の中で、たった一回しか登場しない貴重なものです。しるしを求め、それによって信ずるか信じないかを決めるならともかく、むしろ神を自分たちの都合に合わせようとする、彼らの傲慢さを主は見抜かれていたのです。そして、そのためにものすごい不快な思い、怒り、悲しみをお受けになっておられたのです。
 このような傲慢さに主は怒り、厳しい態度でしるしを与えることを拒まれました。しかも「絶対に」と強調されていますから、主の拒絶の激しさを物語っています。興味深いことは、マタイ伝での主のお言葉には、「ヨナのしるし以外には与えられない。」と言われていることです。ご存知のように、ヨナとは預言者ヨナのことです。神の命に従わなかったため、魚の腹の中で三日いて、それから外に吐き出された人でした。まるでピノキオとゼペットじいさんの様にです。このヨナの出来事は、主イエスの十字架とよみがえりをあらかじめ指し示していることと考えられています。ですから、主はご自分の働き、み業以外には、これ以外の特別なしるしはないのだと言っておられるということなのです。マタイ伝での記事では、主が天気予報のたとえを話されています。夕方が夕焼けであれば、明日は晴れるとわかるのに、どうして主の今までの働きを見聞きして、それが時代のしるしであると悟れないのかと、彼らを非難されたのです。

3.見ずして信ずること
 この、しるしを求めるパリサイ人たちの姿勢は、何も改善されることなく、主イエスの十字架にまで続いていきます。彼らは、主に「十字架からおりてこい、そうしたら信じてやる(マタイ27:42)」と叫びます。ところが、主はしるしを働くことによってご自分が救い主であることを知らしめようという思いはなかったのです。ローマ10:17をあけてください。「信仰は聞くにより、聞くはイエスの言葉なり。」また、ヨハネ20:27において主イエスは、トマスに「聞いて信ずるもの」になれといわれています。これらの御言葉から思うことは、まず、主の言葉を聞き、そしてそれを信ずるとき、そこから初めて見ることができるのだと、聖書は語ります。ということは、しるしを見ることによって信ずるのではなく、私たちにとって大切なことは、どれだけ私たちが神の国の支配を信じているか、認めているかが問われているのだと気づかされます。見て信ずることが信仰ではない。信仰という言葉が示すように、主の御言葉を信じ仰ぐことから、信仰の第一歩が始まるのです。こんなことは、耳にたこができるほど聞いてこられた子でしょうが、だからこそ大事なことなのです。さらに素晴らしいことがあります。主がマタイ伝の中で、天気予報のたとえをされました。このたとえは、夕焼けを見て明日が晴れるというビジョンを誰もが思うように、主イエスの御言葉の中にあふれているしるしを見て、私たちは神のビジョンを思うことができるのだということです。聖霊なる神が皆さんの魂に働かれ、私たちが聖書の中から、主にある兄弟姉妹との交わりの中から、紙のみ旨のしるしを感ずることができるのです。これは、クリスチャンでなければできないことなのです。世の中の人々にはできません。なぜなら、残念ながら修行や研究によってではなく、信仰によって神のしるしを知ることのできる特権を、私たちは神より与えられているからなのです。

 今日は母の日ですけれど、母に命を与えられて母の愛のしるしである今の私がいるのであることを思うとき、ただ命を与えてくださった母に感謝するだけではなく、もう少し進んで感謝をしようではありませんか。今、こうして信仰の幸いに生きる喜びを確認し、神が生きておられる、私の人生をも支配されて、私をより強く、より深く愛してくださっていることを確認できる幸いを、母によって与えられたのだと、感謝したいのです。
 母の愛は自分の目でみなければ信じられないものでしょうか。母が何かをしなければ感じられないのではなく、そばにいてくれるだけで感じられる、それが母の愛です。とすれば、母は神の愛を示すしるしであり、私たちが信仰者として生きているということも、神が母を通して与えられた神のみ旨を示すしるしであるともいえるではありませんか。
 そう考えると、私たちの回りにはたくさんの神が示すしるしとなるものがあるのです。たとえば、御言葉によって、自然現象や、反キリストの姿、戦争から週末のしるしを覚えることができるでしょう。兄弟姉妹との交わりを持つことが、キリストの愛を、慰めを示すしるしとなるでしょう。ということは、私たちの毎日の中で、「あ、これは何だろう、神が私に示されていることかしら。」と、主の示すしるしをより深く知ろうとする努力を、もう少しがんばってみましょう。聖霊が皆さんの心に働かれ、キリストのしるしをこの時代の中で読み取り、もっと素晴らしい祝福に預かるものとさせていただこうではありませんか。

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