イスラエルレポート                                    

天地を創造された偉大な神様が、人の姿をとって実際に生活されたその場所を訪れ、聖書に出てくる土地や空間を親しく体験できることは、それだけで感動的です。

しかし、そうだからこそよけいに、目に見えるものではなく、目に見えない霊的な事実に目を止めなければなりません。(Uコリント4:18,5:7)

イスラエルは、四国より少し大きいだけの小さな国です。地形もそんなに複雑ではありませんが、実に変化に富んでいます。まるで神様の箱庭です。国土は南北に長く、西側は地中海に面し、東側はヨルダン川を越えると、すぐヨルダン領です。そのヨルダン川は、レバノン国境にあるヘルモン山を水源として、ガリラヤ湖から、死海に向って流れています。ガリラヤ湖周辺は緑も多くとてもきれいです。日本に輸入されるスウィーティーやジャッファオレンジなどは、ガリラヤ湖の南西の平野部で作られています。

       

 


                                       

ヨルダン川は、バプテスマを受ける川です。バプテスマとは水につかり、キリストとともに死に、水からあがることで、キリストとともによみがえり、新しい歩みを始めることを意味します。(ローマ6:3〜5)

ヨルダン川は、とこしえのいのちの祝福である「ヘルモンの露」を水源としています。(詩篇133編)私たちが、バプテスマによってキリストの死と復活に結び合わされることは、恵みであり、私たち兄弟姉妹はみな、キリストを長子としてバプテスマされたのです。

 

クリスチャンにとっては、「死ぬ」ことこそ「いのち」です。ところが、死海はヨルダン川から水が入ってくるばかりで、どこへも水は出て行くことはありません。水分が蒸発することによって水位を一定に保っています。塩分濃度は25パーセントもあり、生物は住んでいません。恵みを受けるばかりで霊的に干上がってしまったいのちのない教会のようです。

 




死海は、またユダヤ人の信仰にも似ています。塩は腐敗をふせぎ、人間の体になくてはならぬものです。律法はユダヤ人に与えられましたが、彼らはその特権の中で堕落し、いのちのない宗教にこりかたまって、いのちの君を十字架につけ、今も拒み続けています。

ご承知のように死海では体が浮いて、水に沈みません。この世に対して完全に死ねなければ、まことのよみがえりはありません。私たちがバプテスマを受けるのは、いのちにあって新しいあゆみをするためなのですが、古い人のままでは新しいあゆみはできません。キリストの復活と同じようになっていないのは、キリストの死とつぎあわされていないからなのです。

死海のほとりには、信じられないような豪華なリゾートホテルが不自然に建ち並び、多くの観光客が訪れていますが、よけいに私は虚しいものを感じました。いのちのない死海の塩分や泥を使ったエステに群がる人々は、いのちを失ったキリスト教の道徳や文化で満足して、救われない信仰生活を送る人々を連想させます。

エルサレムのことにもふれないわけにはいきません。エルサレムは、天理の街とそっくりです。ドロローサはまるで天理本通りのようであり、悲しくなるような土産物屋であふれています。嘆きの壁は天理教本部です。黒いはっぴのかわりに、黒い帽子とスーツを着て、壁に向って祈っています。

至る所にカトリックの教会がうんざりするほど建ち並び、世界中からの環境客や巡礼者を見ましたが、その行列はキリスト教テーマパークで順番待ちをしているだけで、USJのお客さんと何ら変わりが無いのです。エルサレムは、今は霊的にはからっぽの状態です。

「このすべてのものに目を見張っているのでしょう。」(マタイ24:2)

「わたしの父の家を商売の家としてはならない。」(ヨハネ2:16)

「あなたがたは、なぜ生きている方を死人の中で捜すのですか。ここにはおられません。」(ルカ24:6〜6)


私は、エルサレムでこの3つのみことばを思い出しました。















旧約聖書には、神の御霊や主の霊という言葉がありますが、新約になると、キリストの御霊、キリストの心、イエスの御霊、御子の御霊などの表現が出てきます。これらは単なる神の霊ではなく、イエスさまの肉体において、試みられ、苦しみや悲しみを乗り越えたさらに優れた助け主なのです。(ヨハネ16:7)

この方が来られるので、イエスさまがいなくなることがかえって益であると言われたのです。

2000年前、イエスさまは、ベツレヘムにおられるときには、同時にエルサレムにはいることができませんでした。ベタニヤにおられるときには、カペナウムにはいることがきません。長血の女と話している間はヤイロは待っていなければならなかったのです。

しかし、今イエスさまは、どこにでもおられます。誰も順番を待つことはいらないのです。

私たちは、この御方の霊によって礼拝するのです。

神は三位一体の御方です。

天の父は遠く離れたところにはおられません。イエスさまも遠く離れた父の右の座にはおられません。私たちは三身一体のお方をばらばらに切り離して好き勝手に礼拝してはいけません。聖霊を注いでくださいと空に向って絶叫するのも違います。

十字架によってすべて完了したのです。

私たちは、キリストの十字架のみわざを信じる信仰によって聖霊の印を押されました。その教えにとどまる者は、御父をも御子をも持っているのです。

「その教えのうちにとどまっている者は、御父をも御子をも持っています。」(Uヨハネ9)

十字架によってすでに完成した霊的な事実を信仰によって現実のものとして受取るだけなのです。

「わたしの言うことを信じなさい。あなたがたが、父を礼拝するのは、この山でもなく、エルサレムでもない、そういう時が来ます。救いはユダヤ人から出るのですから、私たちは知って礼拝していますが、あなた方は知らないで礼拝しています。しかし、真の礼拝者たちが霊とまことによって礼拝するときが来ます。今がその時です。父はこのような人々を礼拝者として求めておられるからです。神は霊ですから、神を礼拝する者は霊と真によって礼拝しなければなりません。」(ヨハネ4:21〜24)

 

聖地巡礼などという人間的な宗教心を満足させる考え方自体が、このみことばが語る

霊とまことによる礼拝を否定するものです。

 

死海は海抜マイナス400メートルという世界で最も低いところにある湖です。海抜800メートルのエルサレムとは、1200メートルの標高差があります。しかし、エルサレムから死海までは、距離にしても30キロ弱。半時間もあれば移動できるのです。死海沿岸は亜熱帯性気候なので、エルサレムは真冬でも、死海のほとりでは水着で大丈夫です。実際、私たちもエルサレムでは寒くて震えていたのに、死海では泳げました。こうした地理的特徴にも、ひとつひとつ霊的な意味があるように思います。

私たちは日曜日に礼拝を守ることだけで満足しているクリスチャンで終わってはいけません。私たちは地の塩ですが、ロトの妻のように塩の柱となってはいけません。ロトの妻は塩の柱になったのは、神の怒りを受けて滅ぼされるべきこの世を振り返ったからです。アブラハムはロトを救いましたが、ロトは自分の家族さえ救えませんでした。

このイスラエルの地で幼子として生まれ、成長し、十字架にかかり、よみがえられたイエスさまの体におられた聖霊が、その経験を経て、わたしたちの助け主、癒し主、慰め主として、私たちのうちに住んでくださっているのです。

2001年3月23日から31日までの
現地での取材をもとに、天理と桜井
の教会で講演した内容をまとめたものです。
イスラエル全体についても、それぞれの街には、イエスさまの足跡の痕跡があるだけで、その実体はありません。今、イエス様はどこにいらっしゃるのでしょう。