十二章 友との別れ

 2002年(平成14年)5月25日に、長女の奈々子が女児を無事出産しました。妃奈乃と名付けられました。妃奈乃は人見知りを全くしない子です。次女の子彩斗が,人見知りの激しい子でしたから、誰に抱かれても声一つあげない妃奈乃に、皆がいぶかしげな顔をしながらも、競って抱っこしたがりました。しかし、母乳が良く出るのでしょう,スクスクと大きくなり過ぎて、10ヶ月で9キロもあり抱くのも容易ではなくなったようです。
 妃奈乃の様子を観察していると、他の誰かに抱っこされていても、ママを顔を右左に回して目で追いながらも、行きたいとは示しません.
「妃奈乃、お前はそんなにちっちゃいのに、抱っこしてくれた人に気を使っているのかい?」
と頭を撫でてやりたくなります。妃奈乃なんて名前は,字面から見ても美人でなくちゃ似合いません。賢くて,優しくて、美しい娘に育てと祈ります。
 妃奈乃の百日(ももか)は、奈々子の夫の清君の両親と、家の夫と祖父母が招かれ幸せに祝われました。草戸稲荷にお参りしたと聞き、私は思いました。奈々子は多分知らないと思いますが、稲荷神社と言うのは、狐を祭っているのです。狐が何をしてくれると言うのでしょうか?しかし、全ての行事を祝ってやろうと、決心したパパは立派です。百日は赤いドレスとティアラで写真におさまっています。
 祖父母が用意してくれた雛人形で、雛祭りを祝われた事は言うまでもありません。こちらは赤い十二単で顔がまん丸です。

 裕見は短大の2年から、いとこの光倫(みっ君)と光代と共同生活を始めました。看護学校へは、社会人入試であった為、15倍の難関を突破出来たのはまさにラッキィだったと言うしかありません。入ってからが大変で、特に試験の多さはびっくりもので、とてもアルバイトは出来ず、かと言って仕送りは増えず、かなりつらかった様で、2年生から奨学金を受ける様です。若い時はお金が有り余る程あるのは考えものですが,余り貧しいの
も可哀相なので、私の出来る範囲で援助をしてやりたいと思います。
 三女の聡子は、転勤で片道60キロもあるスイミングクラブに通っています。遠い上にハードな勤務ながら。私の月2回の帰宅を可能にしてくれています。
 2002年は,大切な二人の友人を亡くしました。一人は藤原行幸さん。3−1病棟にいた最後の年(1998年)の数ヶ月を同室で過ごした僚友でした。とても優しい方で、口には出されませんでしたが、入院も長く結婚もしておられず、苦労されて来た様でした。人間を病魔は自在に操り,不幸にしてしまうのです。医学は、それに抗いきれません。私が、東病棟に移ってからも、散歩の折りに私の病室に立ち寄って下さり,しばしのおしゃべりを楽しんでおりました。しかし、施設に移られ、手紙の苦手な私は、行幸さんが亡くなった事は、当院の短歌会に提出された、お姉さんの短歌で知りました。その後お姉さんからお便りを頂いて、外出先で転倒し入院され、施設に戻れぬまま、入院先の病院で帰らぬ人となられたそうです。2002年5月23日享年69歳。
 もう一人の方は、豊田市在住の、ALSと言う名の難病の在宅の患者さんでした。2000年(平成12年)8月末、パソコンにインターネットが繋がった時に、メーカーさんから紹介を受けたのが赤崎勝子さんでした。勝子さんは、結婚後7年程でALSを発症され、大腸がん、肝臓がんになられ、8月30日午前3時前に、心不全で亡くなられました。大病を担っておられたにも拘わらず、勝子さんのメールは明るくて、無邪気で、可愛い
人との印象を受けていました。ずっと在宅看護を受けて来られたのは、ご家族の協力ばかりでなく、幾らかの犠牲もあったと思います。その意味勝子さんは、家族に恵まれた幸せな人だったと思います。
 いえ、難病の私が、そんなありきたりな意見を言うのはやっぱり可笑しいです。悔しい!悲しい!難病患者の無念さを私は伝えなければなりません。
*人の世の幸も不幸も紙一重かランダムに受けし吾難病
 何故私なの?そう思う事もありますが、だからと言って嘆いてばかりいる訳ではありません。私の祈りは、難病等無くなる事です。医学の進歩が、早く難病に追いついて欲しいのです。その為にどんな協力も惜しみません。お二人の魂の救われる事をお祈り致します。

 8月20日に家族全員で海に行きました。お盆まではスーパーである我が家も、長女の夫も次女の夫も自営業なので忙しいですから、お盆過ぎの20日に集まりました。義父母と、私達夫婦,奈々子夫婦と妃奈乃,沢江夫婦と彩斗、聡子とBFの創君と、裕見の総勢13名でした。
 しまなみ海道の尾道大橋を渡り、2本目の因島(いんのしま)大島の下に、小さな別荘があります。すぐ対岸は、ポルノグラフティの故郷の因島市です。ポルノー−なんて、やっぱり田舎者の付けそうな名前だなと思いますが歌は好きです。特に「ボイス」は大好きです。看護実習生の山田さんがお礼にと、パソコンで彼らのアルバムを作ってくれましたっけ。
 彩斗は初めての海でおおはしゃぎです。裕見はビギニが似合っています。手足の長い娘です。奈々子は、海に行かず、車椅子のわたしと、お昼寝中の妃奈乃を見ていました。もう一人お昼寝は、わが夫です。早々に盛り上がって酔いつぶれました。元来は下戸なのです。私と結婚して唯一良かった事は、お酒が飲める様になった事だそうです。はい、私はいける口でした。聡子と裕見は自由形の選手でした。聡子は短距離、裕見は長距離なのは性格をよく表わしています。
 皆それぞれ泳いだり、バーベキューをしたり楽しそうでした。義父母は庭木のせん定に夢中の様です。
家族全員で写真に納まりました。
 沢江の夫の信ちゃんは、今でこそ人気の高いベーカリーショップの専務ですが、沢江と知り合った当時は、橋に魅せられ、新尾道大橋を作っていました。因島大橋は、自分を仕込んでくれた先輩が手掛けた橋で、よくこの場所を訪れていたと懐かしがっていました。その先輩が、亡くなっておられる為、余計に胸に迫るものがあったようです。忙しい信ちゃんが、束の間の休息と、追憶を得たようで、それだけでも、海に来たかいがあったと思
いました。

 1994年(平成6年)3月より綾野晃子先生のご指導により、月2回のペースで始まった短歌の例会が、2002年(平成14年)12月に200回を迎えました。それを記念して「王山の集い2」が発行されました。一人30の歌が載っています。
 私は初回より投稿して、添削をして頂いていましたから、かなりの長い期間を経ているのですが、添削を理解が出来ておらず、年月がそのままキャリアとならず、さっぱり上達しないと言うジレンマもありましたが、不思議と止め様とは思いませんでした。
 何故例会に出席出来なかったのかは、呼吸器がついているからです。とても他の病棟に付き添い無しで、長時間(2時間)出掛けるのは無理がありました。しかし、昨年の11月より、ここ東病棟で例会が持たれる事になりました。それは、3―1病棟の方が施設に移られて、万谷さん、笠原さん、柚木さん、私と、東病棟からの投稿者が多かったからです。それにより出席出来る様になりました。腕は初心者同然でしたから、腕を上げる機会
の到来と勿論大歓迎です。助詞の使い方や、動詞、形容詞等も新鮮な教えを噛み締めました。格別助詞は三一文字より余るとカットする事をしがちですが、例え字余りでも、いるものはいるのです。美しい、楽しい等の形容詞の直接的な表現は避ける。動詞と色で短歌は生きるのだそうです。それに前回提出しておいた愚作を、直して解説して頂けます。綾野先生は辛口ではっきりおっしゃるのもスカッとします。
 ここの短歌の例会は、我が身の難病(マイナス)を生かして歌うのが、特徴なのだそうです。先生は、病気をテーマで良い歌が出来ると、
「マイナスがあってよかったね。あるからこの歌が生きるのよ。」
とおっしゃいます。へー?そうなんだ。と今頃思います。
 短歌の面白さを今感じています。綾野先生、どうぞお元気で300回まで続けて頂きたいと願います。

 2月末に、次女の息子の彩斗がハワイの幼稚園に、1週間程体験留学に行きました。キムタクの好きな彩斗は、「グットラック」の中でパイロットに扮しているキムタクが、飛行機に乗ればいるものと、少し信じていた節があり、帰って来てお土産を届けてくれた時に、
「彩斗、キムタクおった?」
と聞いたら、
「うんおったよ。」
と答えたので、あららやっぱり3歳児等、どんなに貴重な体験をさせても、理解に限度があり、又頭の引き出しが小さくて、一つ覚えたら一つ忘れて、結局大人になったら何も覚えてないのだからなあと思いました。
 しかし、覚えていなくても記憶は潜在的に残ります。裕見が、恐い事を教えてくれました。赤ちゃんは、お腹が空いたりおむつが濡れたりすると、母親を求めて泣声を上げます。当然抱き上げて貰える事を期待しているのですが、それを無視されたら、それも、日常的に無視され続けたら、赤ちゃんは感情表現が阻害され、1歳になっても、全く笑わない子になるそうです。それを聞いた時、親なのに何故そんな虐待をするのか、その子の為に
涙が出ました。沢江にも奈々子にもそんな親にはなって欲しくはありません。我子をしっかりと抱きしめて、色んな体験をさせてやって欲しいと思います。  
女が自分の乳飲み子を忘れるであろうか。母親が自分の産んだ子を憐れまないであろうか。たとえ、女たちが忘れようとも/わたしがあなたを忘れることは決してない。(イザヤ書49:15)
 
 昨年の1月30日に会津若松市にある、母校ザベリオ学園の校舎が焼けました。40年程前は私達が中学高校時代を過ごし、今は小学校として使われていた校舎でした。思えば古い建物です。火事の原因はわかりませんでしたが、幸いにも怪我人はありませんでした。
 そして、今年の3月6日に祝別式(落成式)があり、素晴らしい校舎が出来ました。1階が、コンピュータールームと図書室が合体したマルチメディアセンターとなり、木をふんだんに使った教室は、廊下との境のないオープンスペースなのです。神の御愛を感じました。
 この様に別世界にいても懐かしい故郷の事が分かるのは、同級生の満田スミさんが、メールやビデオを送ってくれるからです。本当に感謝しています。
 少子化の進むこの時代に、私学の経営は中々難しいかと思いますが、キリスト教の精神に基づいた、愛の溢れた生徒を沢山育てて頂きたいと思います。私は、同級生達の愛に支えられているからです。又、ザベリオ学園で学んだキリスト教がもとになり、私は、今救いの道を歩んでいます。
「あなたのしてもらいたいことを人にもしなさい(ルカによる福音書)」
この素晴らしい御言葉が、標語だそうです。

 4月1日は、私達にとって結婚30周年の記念日でした。前日に外泊から戻りましたから、カサブランカを今年は見ずじまいかなと思っていましたが、12日に帰宅した時に、大きな壷に生けられたカサブランカを目にして感動しました。矢張りこれがないといけません。私を幸せな気分にしてくれるのは、カサブランカこれで決まりです。しかし、相当香るらしく、聡子はくしゃみが止まりません。少なくとも我が家には、約1名カサブラン
カ嫌いがいるようです。
 しかし、家の夫は偉い人です。長患いの女房に文句も言わず大事にしてくれます。私は当たり前の様な顔をしていますが、本当は心の中で深く感謝しています。

 18日はイエス様が十字架上で亡くなられた聖金曜日で、20日はイースター(復活祭)でした。私は普段教会に行けないせいか、この様な時の挨拶を知りません。毎日教会の吉田先生がメールで送って下さる「日々の御言葉」の始めに、
「 イースター、おめでとうございます。
 イエス・キリストのご復活を心からお祝い申し上げます。
 死の力を打ち破り、罪のゆるしと復活の命を与えてくださったイエス様に心からの感謝をお捧げしたいと思います。どうぞ私たちの信仰が高められ、キリストの御名を崇めることができますように。
 我は復活なり命なり」
と書いて下さいますから、イースターはおめでとう。と挨拶するのだと分かりますが、自分から書くのは凄く照れくさいのです。私のような詰まらない者が、いっぱしのクリスチャンぶるのが恥ずかしいのです。でも、これは私が自分の信仰心を高める必要があるのです。主イエスを信じてそれを言い表してこそ義とされるのです。それなのに、私の心を覗いて見ると、私が望む信仰者と全く違う世俗的で、傲慢な私がいるのです。それも、凄く
凄く傲慢なのです。この病棟には、新人泣かせの男性がいます。どんなベテランでも、慣れるまでに、一度は「アホ!」言われるそうです。それも、50音でわざわざコミを取って、聞いた言葉がそれなので皆ショックを受けるそうです。しかし、その人を笑う権利も、非難する資格も私にはない事を、私が1番知っています。次の詩篇の中でダビデが非難しているいるのは、私の事です。
   
101:1 【ダビデの詩。賛歌。】慈しみと裁きをわたしは歌い/主よ、あなたに向かって、ほめ歌います。

101:2 完全な道について解き明かします。いつ、あなたは/わたしを訪れてくださるのでしょうか。わたしは家にあって/無垢な心をもって行き来します。

101:3 卑しいことを目の前に置かず/背く者の行いを憎み/まつわりつくことを許さず

101:4 曲がった心を退け/悪を知ることはありません。

101:5 隠れて友をそしる者を滅ぼし/傲慢な目、驕る心を持つ者を許しません。

101:6 わたしはこの地の信頼のおける人々に目を留め/わたしと共に座に着かせ/完全な道を歩く人を、わたしに仕えさせます。

101:7 わたしの家においては/人を欺く者を座に着かせず/偽って語る者をわたしの目の前に立たせません。

101:8 朝ごとに、わたしはこの地の逆らう者を滅ぼし/悪を行う者をことごとく、主の都から断ちます。

ダビデの心に適う信仰を持つ者になる事こそ、主に近ずく一歩なのかもしれま
ん。主よ、私を憐れんで下さい。

 27日は、私の55歳の誕生日でした。いい加減な年になりますと、全然嬉しくありません。小学生の頃に新聞に、交通事故の記事が載っても、被害者が40歳を過ぎていたら、「もう十分生きたじゃない。(死んでも)いいよ。」等と思ったものです。自分が、年を取る等と思った事もありませんでした。しかし、振り返ればあっと言う間だったような気がします。不遜な小学生は、とっくに(死んでも)いい年齢を過ぎました。アイム ラ
イブ。とは程遠い状態で。
 しかし、嬉しい事もありました。我三原教会の聖歌隊のメンバーが、倉敷教会に伝道コンサートに行かれた帰りに、自宅に帰っていた私を訪ねて下さいました。賛美歌を歌って下さり、最後に、思いがけずハッピィバースディが聞けました。皆さんがお帰りになった後で聡子が来て、
「お母さん、ハッピーバースディを歌って貰えてよかったね。感動したね。私凄く感動したよ。」
涙を浮かべてそう言いました。本当に感動しました。嬉しくもないと思っていた55歳の誕生日は、神様の御愛により祝せられたものとなりました。(2003.4)