4月11日イースター礼拝メッセージの要旨 ― ルカ24章13〜35節 ― 
        「実に主はよみがえられた」    寺田師

幸手教会の墓石に「我は復活なり命なり」と刻まれ、先月召天された太田兄の墓石にも「我は甦りなり命なり」と記されている。
過日、田沼師と荒井兄姉の宅を訪問した時、応接間の壁に掲げられていた聖画「エマオー途上のイエス」を見、心に安らぎを覚えた。

エマオー途上の二人の弟子は、メシアと期待していたイエスが十字架刑によって死んだ事への失望と深い悲しみ、そのイエスが、今朝、甦られたという信じがたいニュースを聞いて驚き、考えが混乱していた。エルサレムの弟子達も同様だった。二人は歩きながら議論し合っていた。そこに、甦られた主が現れ共に歩まれた。
「目がさえぎられていた」(16)。「ああ、愚かな、心の鈍い人たち。」(25) という言葉は人間的常識だけでは「復活」という神の業は理解できないことを示す。使徒パウロは後で復活の主の顕現に触れ「目から鱗のようなものが落ちた」と語っている。(使徒9の18 参考)
「無理に願ったので・・・」(29)は「求めの切なるによりて・・・」とある様に神から新しい恵みを受けるに必要な一つの条件です。
「イエスはまだ先へ行きそうなご様子」(28)は、二人の弟子の切望さを試されたのかも知れません。
「彼らの目が開かれ」(31) パンは聖餐式を意味するが、五つのパンの奇跡を思い出したのか? しかし、やはり聖霊の聖業です。その開眼の時が来るまでイエスは寛容と忍耐をもって弟子達と同じ歩調で歩み、十字架と復活の必然を教えられた。「心がうちに燃えた」(32)。消えそうな澳(おき)が再び燃え上がるように復活のイエスに接して心が燃え上がった彼らは、11キロの夜道を、悲観しているだろう兄弟達にこの喜びを一刻も早く伝えようと走った。福音を知っている信者はこの姿に倣うべきです。ところが、前後して復活の主はシモン(ペテロ)にも現れていた。「実に主はよみがえって、シモンにお姿を現された。」彼らは共に喜んだ。著者ルカは、(使徒1の3)で「数多くの確かな証拠をもって・・・」とイエスの復活の事実を証している。

主の復活の意味する主なもの
一、 受肉に始まり、十字架によって成就した贖罪の業に対する、父な
る神の確認。
二、 復活によって、「力ある神の子、救い主、導き主」であることを
示された。
三、 生ける者と死んだ者とのさばき主であることを示された。
四、 世の終わりに、信者もイエスと共に甦ることの実証となられた。
五、 最後の敵である死に勝ち、死を滅ぼすことの実証であった。
 
 イエスの復活は、ヨハネ福音書3章16節に記されてある神の愛の賜物である「永遠の命」を明らかに示されたものです。