礼拝メッセージ 要約 2003年1月分
今週のメッセージ(2003.1.5)
「神を愛する者へ」 ローマ人への手紙8章28節新年となりました。
2003年がどのような年になるのでしょうか。それは神のほか誰もわかりません。迎えた一年をどのような心構えで過ごしたらよいのでしょうか。そのようなことを考えつつ、標語の聖句に心を向けましょう。1.最善をなさる神
「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。」(ローマ8:28)
クリスチャンは、神に愛されて罪が赦され義とされて、滅びから救われて、永遠のいのちを頂いた者たちです。このようにして神の愛がわかり、神を愛する者となりました。驚くべき神の愛と恵みにより、新生した私たちは、新しい約束に立って生きる者として戴いたのです。もはや世にある信仰のない人とは異なった生き方をするようにされたのです。すなわちキリストにあっての人生哲学を持っているのです。ローマ人への手紙を書いたパウロは、この上記の節で、そのようなクリスチャンの人生哲学をこの聖句で述べていると言えるでしょう。それは簡潔にいえば、すべてのことが働いて益となるという観点です。
この神のお働きにはどのような意味が隠されているのでしょうか。このことは、神の絶大な愛と憐れみの結果、イエスの十字架によって罪人に知らされた愛のゆえに、神を愛する者とされた者への、特別な約束であります。その人に対しては、神はあらかじめご存じで(神の予知という)神の愛の計画のうちに覚えて、すべてのことを働かせてくださるばかりか、益としてくださるのです。
益としてくださるということは、その前の26-27節にあるように聖霊の助けと執り成しの結果です。私たちが困難や苦境にあって祈るとき、それに応えて様々な要素を配分し、私たちの最善となる結果を用意しておられると考えることが出来ます。そのために、私たちが持つべき信仰を少し述べておきます。
2.すべての道で主を認める信仰
「あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ。そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。」(箴言3:6)
人生は短いようですが、急には変化しない長丁場でもあります。現状というものは少しずつ、一歩一歩導かれて変化していくのです。たまには急転直下ということもありますが、そうした場合でも、神の働きは見えないところで長い準備段階を経て、ある時一気に変化するということが多いのです。それは自然界にもよく見られる現象です。さなぎが蝶になる場合とか、水が氷に変わる瞬間とか、その前段階が見えないだけという場合です。前の段階を歩んでいるときは、それはちょうど長い道をたどって一足一足前進している旅人のような者です。いつでも、どんなことも、主を認めるということは、たとい目に見えない場合でも、背後に必ず神の最善の働きがなされていると信じる信仰なのです。時間的にいつでも、また問題毎にどんなことでも、神の主権と臨在を認め、主を主とすることです。それは、すべてのことで主を崇め、主に栄光を帰し、主の栄光を表すということを認めることです。
そうすることにより、神の御旨が何であり、神の助力とご干渉を期待するということです。このような生き方、人生のフィロソフィーを持つためには、蔦田二雄著「岩から出る蜜」1月3日の項を参照すると、聖霊の内住と確証が会得された結果によるものであるといっています。そうした結果「私たちは順境においても、逆境においても、みな祝福の故であるという理解を持つようになり、逆境のとき「なぜだろうか」という思惑はなくなるのです。
3.キリストの内住
神を愛する者は、注がれた聖霊によってイエスの愛を知らされ、そのゆえに神を愛する者です。その信仰の内容は、自我の磔殺によるキリスト内住の信仰です。「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。」(ガラテヤ2:20)
心の中にキリストが私の内に生きておられるという信仰が働くと、その結果、すべて最善の神への信仰が働くようになります。神はご自身を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々をそのようにしてくださるからです。聖霊に満たされ、神の前にすべてをささげて従う者に、神はこの神は最善であるとの信仰をお与えになります。
4.逆境を越えて進む
逆境はきびしいものです。とくにクリスチャンであるからといって、苦難を受けることは、殉教につながる最も嶮しい道筋です。そこは死の谷の陰を歩くことですし、誤解や中傷の矢が飛び来る、批判と攻撃と嵐に遭難しそうになる生活です。それはヨブの試練を想い出させます。神の懲らしめや訓練を知る時でもあります。それを軽んじてはなりません。(ヘブル12:5)
私たちは、過去を清算し、未来に向けて現在を生きているのですから、新年にあたり、今のあり方を確信して、神のあわれみにおすがりしながら、神を愛して進もうではありませんか。
今週のメッセージ(2003.1.19)
「試練を喜びとせよ」 ヤコブの手紙1章1〜4、12節今朝取り上げるヤコブの手紙の宛先は、「国外に散っている十二の部族」となっていますが、これは各国々に離散しているユダヤ人たち(デアスポラという離散民)の中にクリスチャンが散在していたので、それらの不特定のクリスチャンをさしていると考えられます。
1.試練の存在
最初に「私の兄弟たち。さまざまな試練に会うときは」と呼びかけていますが、私たちは毎日のように試練に会わずにはおられません。現実の生活においては、試練は当然のように襲いかかってきます。ヨブは、「人が生れて悩みを受けるのは、火の子が上に飛ぶにひとしい。」ヨブ5:7(口語訳)といいました。つまり、苦難は日常茶飯事、当然のことであるというのです。ヨブ自身は、想像もできない程の苦難の中に投げ込まれましたが、幸い神への信仰と忍耐によってそのような試練から救い出されました。
2003年が始まってまだ間もない先週、私のことで恐縮ですが、持病の胆石症が再発し、今回でとうとう8回目の入院となってしまいました。実はそれまでに3回腹部にいつもの胆石特有の激痛を感じていましたので、あるいは危ないのではないかと思っていたのですが、病院に行き検査を受けるとやはり総胆管炎症になっているので即刻入院するようにとのことでした。予感は当たってしまいました。そしての後の働きがその瞬間凍結してしまいました。幸い今回も胆石を除いていただき無事退院することができました。感謝です。このように、試練と苦難は、どこにでもあるのです。
2.試練の解釈
次に「試練に会うときは、この上もない喜びと思いなさい。」といっています。試練は普通、嫌なことでありつらいことですから、早くそれから逃れたい、避けたいという感情が先になるのが人情というものです。なかなか喜ぶところには到達できないというのが本音ではないでしょうか。しかし、ヤコブは「喜びと思いなさい」といいます。これは、現状と私の受けとめかたの違いということではないかと思います。現状は困難、苦難で少しも変わらない。しかし、それを私がどう受け止めるか、どう捉え解釈するかということは私の信仰的な判断であり、価値観からくるものです。それを、信仰的に判断し、受け止めなさいということです。アブラハムもイサクをささげる試練のときも、現状と信仰にギャップを感じたに違いありません。「信仰によって、アブラハムは、試みられたときイサクをささげました。彼は約束を与えられていましたが、自分のただひとりの子をささげたのです。」(ヘブル11:17)
自分のただひとり子をささげました。(ヤコブ2:21)。このとき、アブラハムは、イサクからアブラハムの子孫が出ることを知っていたのですが、神はたとえひとり子イサクをささげても「死者のなかからよみがえらせることもできる。」と信じたのです。(ヘブル11:19)このように、彼は現状を見ながらも、信仰的に解釈して行動したのです。ヤコブの場合もその信仰のあり方は決して行い重視の業ではなく、常にイエス・キリストに結びつけていたのです。
3.試練の結果
「信仰がためされると忍耐が生じるということを、あなたがたは知っているからです。その忍耐を完全に働かせなさい。そうすれば、あなたがたは、何一つ欠けたところのない、成長を遂げた、完全な者となります。」(
1:3〜4) 最近のことですが、拉致されたAさんの話を独占インタビューということで語られた記事を読みましたが、次のように語っていました。「あそこ(拉致された小浜公園)に僕らが行ったから、僕らが連れていかれたんであって、ほかの人が行っていたら、その人が連れて行かれたんでしょ。そういうこと思うと、僕らでよかったなと。僕らは苦労したけれども、それはまそれでよかったんじゃないかなと思っている。後で聞いた話では、あの日、あそこへ行った人が何人かおるということですしね。」(「週刊朝日」の「誰にも言えなかった真実」から)。これはA氏にとって人生を変える大きな試練でしたが、その試練を乗り越えて、かえってそれを良い結果として考える大人の考え方をしておられる。拉致は、人の自由意志、人権を踏みにじる許せない行為ですが、その不幸を、不幸としてだけ考えて評価するのではなく、その中から、自分にとって価値ある内容を引き出し、試練を甘受してそれを高次元から評価していくということは、並みの忍耐力では出来ないことであると思います。これは信仰ある人でも、届き得ない程の心境を語っておられると思いました。
ヤコブは「試練を耐え忍ぶ人は幸いである。」(1:12)といっています。試練をとおった聖書の人物といえば、ヨセフ、ヨブ、ダニエル、エレミヤ、それに救い主イエスと数々あげられますが、苦難がその人物を作りあげることには変わりはありません。イエス様でさえ「キリストは御子であられるのに、お受けになった多くの苦しみによって従順を学び、完全な者とされ、彼に従うすべての人々に対して、とこしえの救いを与える者となり」(ヘブル5:8-9)とあります。私たちクリスチャンには、主がついておられます。ですから、なおさら、試練をとおして「いのちの冠」を戴くまで、忍耐し信仰を働かせようではありませんか。
1月12日、26日は、招聘講師のため記録がありません。