「福音のささやき」をネットでお読みの皆さん、新年おめでとうございます。今年も主キリストと結ばれて、信仰と人生の歩みをご一緒いたしましょう。国内・国外共に心痛むさまざまなことに囲まれて迎えた新年、私たちの営みが、冬の日の陽ざしのように周りの何人かの人を暖めることのできるようなものになればと思います。 こんな新年毎に私たちは「主の洗礼」を祝います。洗礼によってキリストと結ばれる者となった私たちが、新しい年を始めるのにふさわしい祝日と言えるでしょう。「そのころ、イエスはガリラヤのナザレから来て、ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられた」(マルコ 1:9)。ガリラヤのナザレから出てきて、という一言にどれほど大きな決断が示されていることでしょう。三十年ほど生きてきた自分の生活に終止符を打ち、一人残された母マリアとも別れて、おのが身を捧げる道へと進まれた、その転換点にあるのがこの洗礼です。同じ洗礼を受けたクリスチャンもこの潔さに倣うべきでしょう。 とは言え、いつも疑問に思うのは、水の洗礼と霊の洗礼との関係です。ヨハネの洗礼は悔い改めの洗礼であると言われています。過去の自分と決別し、神のみ前に空手で立つ、そんな心根を示す水の洗礼。それは私たちが受けた「水と霊における洗礼」と同じものと言えるのだろうか。そんな疑問が繰り返し起こってきます。そんなとき、「天が開け、聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降って来た」という福音の言葉を思いましょう。確かに、ヨハネ自身はこの水による洗礼は人が自分からできる心構えを示すだけのもので、神のみがお与えになる神の子の命を賦与することはできないと公言しています。しかし、イエスご自身はこの水の洗礼を通して、霊の洗礼をお受けになったということがあからさまに示されています。それだけでなく、天の父から、「わたしの愛する子、わたしの心にかなう者」と宣言されているのです。そして私たちが受けた洗礼は、この「主の洗礼」に与るものなのです。 今私は、復活祭に洗礼を受ける人たちのために、洗礼について話しています。その際強調するのは、洗礼の二つの側面です。自分に死んで、神の命に生きる。つまり、過去の自分との決別と、神の子としての永遠の命に生き始めるという二つの面です。パウロなら、「古い人を脱ぎ捨て」、「新しい人を着る」とか「キリストを着る」とか表現するでしょう。第一の側面は水の洗礼が表すもの、第二の側面は霊の洗礼が表すものです。二つの面は切り離すことができませんが、区別して理解すべきことです。まず古い自分に死ぬことがあって、初めて神の子として生まれることがあるのでしょう。イエスご自身も、それ自体、神の力を持たない水の洗礼によって、過去との決着を付けられた。それによって、上からの霊の洗礼を受けられた。私たちが受けた洗礼もこのイエスの洗礼に与るものです。 洗礼が施されるプロセスそのものがこのことを示しています。洗礼はギリシア語でバプテスマと言います。その意味は、洗いではなく、浸し沈めることです。水に入って頭まで沈めてしまうことは、自分の死を意味しています。そして水から上がってくるとき、その人は神の命によって再生しているのです。水は死の象徴であると同時に、聖霊の象徴でもあるからです。 このように考えると、洗礼は「死んで、生きよ」というイエスの教えの中核が、わが身において究極的に実現することだと言えるでしょう。「自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである」(マルコ 8:35)。また、神の国をわが身に来たらす行為そのものとも言えるでしょう。「天の国(神の国)は次のようにたとえられる。商人が良い真珠を探している。高価な真珠を一つ見つけると、出かけて行って持ち物をすっかり売り払い、それを買う」(マタイ 13:45-46)。それまでの自分の生活を構成していたものを一切合切放擲して、全く新しい尊い命をいただくことですから。 イエスご自身このような教えを、このような神の国を、ご自分の生涯を通して体現していかれました。私たちは、遠い昔に、あるいは割合最近、この「主の洗礼」に与り、キリストに従っていく生き方を始めました。年の初めにあたって、この福音の道を歩み続ける心を新たにいたしましょう。
岩島忠彦神父
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