本文
啓示録 2:7 耳のある者は、その霊が諸召会に言われることを聞くがよい。勝利を得る者には、神のパラダイスにある命の木から食べさせよう。
フットノート
* (6) 命の木
ここの「木」のギリシャ語は、ペテロの第一の手紙第2章24節のように、「木材」を意味します。それは、通常「木」に用いられる言葉ではありません。聖書で命の木は、常にわたしたちの食物のための(創2:9.3:22、24.啓22:2、14、19)、神のすべての豊富の化身であるキリスト(コロサイ2:9)を言っています。ここの木は、十字架につけられ(一片の木材としての木に暗示されている―?ペテロ2:24)、復活して(神の命に暗示されている―ヨハネ11:25)、今日、召会の中におられるキリストのことであり、その究極は新エルサレムとなります。そこでは、十字架につけられ、復活したキリストが、神に贖われたすべての民を、永遠にわたって養われる命の木となられるでしょう(22:2、14)。
神の本来の意図は、人が命の木から食べることでした(創2:9、16)。堕落のゆえに、命の木への道は、人に対して閉ざされました(創3:22-24)。キリストの贖いを通して、命の木(すなわち、人の命としての、キリストにある神ご自身)に触れる道が、再び開かれました(ヘブル10:19-20)。しかし、召会の堕落の中で、宗教とその知識が忍び込みました。宗教は、キリストにある信者が、命の木である彼を食べることからそらしています。ですから、主は勝利者に、褒賞として、神のパラダイスにある命の木であるご自身から食べさせると約束されたのです。これは、彼らが宗教の知識を離れ、ご自身を享受することに戻るようにとの励ましです。この主の約束は、召会を神のエコノミーにしたがって、神の本来の意図に回復します。主が勝利者たちに求められるのは、全召会が、神のエコノミーの中で当然行なうべきことです。召会の堕落のゆえに、主は来て勝利者たちを召し、召会に置き換えて、神のエコノミーを達成されるのです。
命の木から食べることは、人に関する神の本来の意図であっただけでなく、神の贖いの永遠の結果でもあります。彼の贖われた民はすべて、命の木を享受します。命の木は、永遠にわたって贖われた者が受ける永遠の分け前、神聖な豊富のすべてを伴うキリストです(22:2、14、19)。宗教のそらすことと召会の堕落のゆえに、主は知恵の中で、来たるべき王国でご自身を享受することを褒賞とされます。それは、彼の信者たちが、宗教の教えのそらす知識に打ち勝ち、今日、召会生活にある命の供給としてのご自身の享受に戻って、神のエコノミーを達成するように励ますためです。
命の木を食べること、すなわち、わたしたちの命の供給としてキリストを享受することは、召会生活の主要な問題であるべきです。召会生活の内容は、キリストを享受することにかかっています。わたしたちが彼を享受すればするほど、その内容はますます豊かになります。しかし、キリストを享受することは、わたしたちが初めの愛で彼を愛することを要求します。もし主に対する初めの愛を離れるなら、わたしたちはキリストの享受を失い、イエスの証しを失います。ですから、燭台はわたしたちから取り除かれます。主を愛すること、主を享受すること、主の証しとなること、この三つの事柄は、並行するのです。