20。隠せない罪

おはようございます。今日は、前回に引き続き、創世記3章7節にある御言葉を伝えたいと思います。

「このようにして、ふたりの目は開かれ、それで彼らは自分たちが裸であることを知った。そこで、彼らは、いちじくの葉をつづり合わせて、自分たちの腰のおおいを作った。」

アダムとエバは、善悪の知識の木の実を取って食べてから目が開かれました。二人は目が開かれて、自分たちが裸であることを知りました。善悪の知識の木の実を取って食べる前までは裸で生きていても、恥ずかしいと思いませんでしたが、目が開かれたとたん自分たちが裸であることを恥ずかしいと思うようになりました。

アダムとエバが罪を犯す前は、裸であっても、それが神の前に出るのに何ら問題になりませんでした。彼らは善悪の知識の木の実を取って食べる前には、善悪を知る知恵がなかったので、神の前に裸で出ることを恥ずかしいと思いませんでした。ところが、自分たちが裸であることを知ってしまうと、恥じを感じ、彼らと神の間に問題が起こりました。

神は人間ではないので、肉を持っておられません。ですから、アダムとエバが肉を持っているとしても、神の前に出るためには、心で、霊で出なければなりません。私たちは教会に礼拝を捧げるために行きますが、肉だけ行っても、心が神の前に行かないと、それは意味のないことです。

アダムとエバは神の前に出て行きました。彼らが自分の罪を悟る以前、罪を犯す以前、自分たちが裸であることを知る以前には、神の前に出て行くのに何の問題もありませんでした。しかし、彼らが裸であることを知ってからは、神の前に出て行くのに問題が起こってしまいました。心に壁ができてしまったことです。この問題を神の前で解決しなければなりません。

アダムとエバは自分の咎を隠そうとして、いちじくの葉で腰のおおいを作りました。がんばって腰のおおいを作って、自分の咎を隠そうとしましたが、それが、神の前に出るのに大胆さと自由を与えたのではありません。今、多くの人々が良心の呵責を感じているため、アダムとエバが罪を犯してからいちじくの葉で腰のおおいを作り、園の木の間に身を隠したように、心を開いて神の前に出て行けないのです。その暗い罪の問題が解決できないと、教会に通い、礼拝を捧げ、献金をしたりしても、まるでアダムとエバの罪悪が、心の仕切りとなって神の前に出られなかったように、体は教会に通っていても、心は神の前に出られません。罪の問題が解決されなくても、神の前に大胆に出られ、神との交わりができるならば、私たちは罪を解決する必要性を感じないでしょう。

罪がある状態の中では、神の前に立つことも出ることもできないので、罪は怖くて恐ろしいものです。私たちが神の前に出る時こそ、真の安らぎと慰め、恵みが受けられます。神は、私たちの体ではなく、心が神に向かって出て来ることを願っておられます。

神は、人間が神の前に出て来るときに、罪が邪魔することを知っておられるので、苦しむ私たちのことをかわいそうに思われ、御子イエス・キリストを送り、私たちの罪を解決して下さいました。私たちが神の前に出て行くのに気にかかる、良心のすべての問題が解決された時こそ、十字架の真の意味を知るようになります。

イエスはそのことを成し遂げられるためにこの世に来られました。私たちが罪を犯さなかったら、もし犯したとしても、神の前に自由に出られるならば問題にならないでしょう。私たちはすでに罪を犯し、アダムとエバが善悪の知識の木の実を取って食べたことが罪であることも悟りました。

それが罪であることを悟った以上、その問題が解決される前までは、誰も神の前に大胆に出られないのです。解決されていない人たちは、体は出て行っても、心は絶対に出られません。献金と祈祷をし、聖書を読んでも、その心は罪が仕切りとなっているので、神の前に出られないのです。イザヤは次のように言いました。

主の御手が短くて救えないのではない。その耳が遠くて聞こえないのではない。あなたの咎が、あなたがたと、あなたがたの神との仕切りとなり、あなたがたの罪が御顔を隠させ、聞いてくださらないようにしたのだ。(イザヤ59:1,2)

罪が私たちの心の仕切りとなり、神の前に出られないようにさせたのです。真の信仰は、'私'は弱く、不足なものですが、主の恵みを受け、(理論ではない自分の心の中心から)神の前に出るのに気にかかるものが全くないほど、イエス・キリストの血により、すべての罪が清められることです。神の前で心が完全に開かれる時こそ、イエス・キリストがその心に臨まれます。

聖書は、イエス・キリストが十字架で死なれたことにより、私たちのすべての罪が解決されたため、だれでも神の前に出るのに不足のないように、全うされたと言っています。このような話は、聖書の一部分だけで話しているのではなく、新旧約聖書66巻の中で数多く証しされています。聖書には、イエス・キリストが十字架に釘でつけられて死なれた時、流した血により、私たちをすべての罪から贖い、神の前に出るのに恥ずかしくないようにさせたと記されています。

私たちが神の前に出る時、罪を犯したのは私たちですが、その罪を贖った方は、私たちではなくイエスであるのに、イエスが私たちのために施した恵みを悟れないまま出て行くことが問題です。

人の努力や苦労によってでも、神の前に出られ、私たちのすべての罪が解決されるならば、それは嬉しいことでしょう。しかし、残念ながら人はそのようにはできません。すべての人は罪人なので、自分の罪のために何もできないのです。もし、私たちが自分の力で罪を解決することができるならば、イエスが私たちのためにこの世に来られて死ぬ必要がなかったことでしょう。私たちにはできないからこそイエスが来られました。ですから、贖いは私たちが成し遂げるのではありません。イエスが成し遂げられます。

私たちがバスや飛行機や列車に乗る時、飛行機の切符やバスの切符は私たちが買いますが、運転をする人は私たちではなく、運転手や操縦士です。ですから、運転ができる人でも、できない人でも、切符さえ買えば、乗り物に乗れます。飛行機の操縦ができるからといって、その人が得することでもありません。かえってその人がもっと不安かもしれません。なぜなら操縦はその人がするのではなく、操縦士がするからです。

そうです。罪の問題は私たちが解決するのではなく、イエス・キリストが解決します。ですから、私たちから見て良い人でも、悪い人でも、イエスの前では同じです。なぜなら私たちが善を行ったとしても、その善によって天国に入ることではないからです。善を行った人でも、悪を行った人でも、自分の努力では神の前に行けません。イエス・キリストが私たちのために十字架につけられて死なれた、その恵みによって神の前に行けるのです。

イエス・キリストは、私たちのために十字架につけられ血を流して死なれました。神がその死をご覧になり、私たちのすべての罪の問題が解決されています。問題は、私たちがそれを信仰として受け入れるかどうかです。

今、皆さんがイエス・キリストの十字架の贖いを信仰として受け入れれば、皆さんがどんな人であっても、その贖いにより、皆さんの罪が雪の如く清められ、神の前に出るのに何の気かかりもなくなります。

「待ち望んでいた御国に上り、神の宮で会う時、救い主の義を受けて堂々と前に立とう。」という聖歌があります。私たちには、全く善がありませんが、イエス・キリストが私たちの罪のために裁きを受けたことを信じる人は、まさに自分が裁きを受けたことになります。イエスが自分のために十字架につけられ死なれたことを信じる人は、実際に死んだのはイエスであっても、その信仰によって自分自身が、自分の罪のために十字架で死んだことになります。ですから、2千年前のゴルゴダの十字架はイエス・キリストの死ではなく、まさに自分の死です。イエスが2千年前、ゴルゴダの十字架で死なれたその死は、イエスの罪のために死なれたのではなく、私たちの罪のために死なれ、その死によって私たちの罪の裁きと刑罰が済みました。

皆さん、信仰は、私たちが主のために何かを行うことではなく、主が私たちのために行ったものを、自分が行ったものとして受け入れることです。イエスは、私たちのために死なれたその大きな恵みを、私たちにただで下さったので、それはまさに私が死んだことと同じです。主が十字架で死なれたのは私たちの死であり、もはや私たちは罪を犯したその結果により、罪に対して死んだのです。そのため他の刑罰は残されておらず、また神が私たちをご覧になって義とされたので、私たちは自信持って神の前に出られるのです。

皆さん!神の前に出られることは、私たちの行いと努力でできるものではありません。私たちがいくらまじめで、清くて、御言葉の通りに生きるとしても、イエスの贖いがなくては御国に入ることは勿論、神の前に立つこともできません。反対に私たちがいくら汚らわしくて、十字架の強盗のような悪者であるとしても、私たちはイエス・キリストの贖いにより、大胆に神の前に出られるのです。ですから、私たちの行い、努力、善に頼らず、ただイエス・キリストの十字架の血と贖いだけを頼り、神の前に出ることが真の信仰です。

ですから、自分の行いとは関係なく百パーセント、神の子イエス・キリストの血によって私たちの罪が清められていることを信じ、心に何のひっかかりもなく、神の前で、「私は義人です。」と言えるのです。
それでは、また次回お会いしましょう。さようなら。

前へ
次へ