平和の基

1998/8/2
中山弘隆 牧師
コロサイの信徒への手紙1:9−23

本日は平和聖日でありますので、わたしたちは日本キリスト教団の諸教会と共に、世界の平和を祈願しながら、この礼拝を守っています。日本キリスト教団では、広島に原爆が投下された8月6日を記憶し、世界平和と核兵器廃絶を祈るために、8月第一聖日を「平和聖日」と定めております。世界第二次戦争はヨーロッパと東洋で勃発しましたが、戦争の責任を負っている日本は、広島と長崎とに原子爆弾を投下され、一般市民の大きな犠牲を払って、戦争の終結を迎えました。しかし、その犠牲はあまりにも大きかったのです。

今年で、戦後53年になります。この期間日本は一度も戦争をせず、敗戦の廃墟から立ち上がり、今日では経済大国と呼ばれるようになりました。このような情勢の変化につれて、戦争の悲惨な体験も日増しに風化しつつあります。しかし、今世紀における二度の世界大戦は、戦争が人類絶滅に至らせることを実証しました。そして、人類はこのような戦争を再び繰り返してはならないことをわたしたちに警告しているのであります。

それにも拘わらず、この53年間にも、朝鮮戦争、インドとパキスタンとの戦争、イスラエルとアラブ諸国との戦争、アフリカ大陸における民族間の戦争、ベトナム戦争、アフガニスタンの内戦、中国とベトナムの戦争、ペルシャ湾岸戦争、ユーゴスラビヤの内戦、その他にも数多くの戦争がありました。このことを考えますときに、わたしたちは真剣に平和を祈り求め、その実現のためにつねに大きな努力をしていなければならないと痛感致します。

それでは今日、世界平和を造り出すには、どうしたらよいのでしょうか。わたしたちの使命は何でありましょうか。これらのことについて、聖書は何と言っているでしょうか。旧約聖書の中で、世界平和の壮大なビジョンが与えられています。それは神の支配がこの世界に確立するときに、世界平和が実現するという預言であります。イザヤ書32:5-18で次のように預言されています。

「ついに、われわれの上に霊が高い天から注がれる。荒れ野は園となり、園は森と見なされる。その時、荒れ野に公平が宿り、園に正義が住まう。正義が造り出すものは平和であり、正義が生み出すものはとこしえに安らかな信頼である。わが民は平和の住みか、安らかな宿、憂いなき休息の場所に住まう。」
  

このイザヤ書のみ言葉をわたしたちが真剣に受け止めますとき、本当の平和は正義と公平とが行われる社会において実現するものであることが分かります。言い換えますと、平和とは人間社会に紛争や戦争がないというだけではなく、正義が存在することであります。この点が今日の社会に平和を造り出すためには非常に重要なのであります。

ところで、旧約聖書が預言しました正義と公平と平和とは、キリストの贖いを通して、実現しているのです。

「神は、御心のままに、満ちあふれたものを余すところなく御子の内に宿らせ、その十字架の血によって平和を打ち立て、地にあるものであれ、天にあるものであれ、万物を御子によって、御自身と和解させられました。」(コロサイ1:19,20)

ここに、聖書は「神が満ちあふれたものを余すところなく御子の内に宿らせられた。」といっていますが、それは主イエスの中に、完全な正義と真実と愛とが実現したということです。そして今日、主イエスを通して、正義と真実と愛とが人類に与えられるようになったということです。また、「十字架の血により、平和が打ち立てられた。」と言っていますが、それは主イエスの十字架の死による贖いにより、人類が神との正しい関係に入れられたということです。神は人間の罪を赦し、わたしたちの心に聖霊を与えられたと言うことです。

今や、神はこの主イエスを復活させ、教会の頭と全世界の主とされたのです。「御父は、わたしたちを闇の力から救い出して、その愛する御子の支配下に移してくださいました。」(1:14)と、聖書は宣言しております。主イエスは十字架の贖いと、復活の勝利をもって、全世界の主として、支配しておられるのです。この主イエスの支配の中に、世界の平和の基があるのです。

平和の実現を阻んでいるものは、すべて罪です。罪は利己的であり、貪欲であり、高慢であり、偏見であり、偽りであります。その暗さと邪悪さとは底のない沼のように深く、実に多くの人の命を奪うものです。罪の働きが、個人的問題の中だけで見られる限りでは、犠牲者も少ないのですが、一旦階級、民族、国家という社会的領域で現れる場合には、多くの人々の命を奪い、無数の人々に非人間的な苦しみを強いる、残酷極まりない悪魔的な様相を呈します。

主イエスの贖いは、そのような罪の闇の力に対する決定的な勝利であります。人間を罪の束縛から解放し、正義と愛とを実行する勇気と力とを与えます。そのようにして、主イエスはすべての者の支配者となられたのです。

主イエスは、すべての人々、すべての民族、すべての国家、すべての王、すべての政権、すべての憲法、すべての法律、すべての裁判、すべての文化、すべての時代、そして、人類の歴史と永遠の国の唯一の支配者なのです。しかもその支配は十字架の贖いの支配なのです。なぜならば、世界を支配される生ける唯一の神は、主イエスの贖いの中で現された性質を持っておられる神であるからです。神は主イエスの贖いを通して、すべての者を支配されるからです。主イエスは世界を支配される神であるからです。

しかし、このことは教会が世界を支配するということではありません。教会が主イエスに代わって世界を支配するということでは、断じてありません。世界を支配される方は、あくまで主イエスご自身です。主イエスはキリスト教会、またはキリスト教という一つの宗教の範囲を越えて働いておられます。従いまして、世界の支配者である主イエスを信じるキリスト教会、またはクリスチャンは主イエスの贖いの力を、自分たちの中で、現していく者であります。

そのためには、わたしたちは真剣に世界の平和のために祈ることが必要です。祈るならば、主がわたしたちに先立って進んで行かれることが分かるのです。そして主イエスの支配は人間のすべての領域に及んでおり、この恩恵を受けない領域は何もないことがわかるのです。このことを信じ、告白し、実践するとき、教会は自己の使命を果たすのです。そうするならば、主イエスは教会の範囲を越えて、国家や民族の広い領域で、また世代を越え、世紀をこえた長い歴史の中で、平和を実現して行かれるのです。主イエスこそ、平和の基であります。主イエスの贖いこそ、人を神と和解させ、人と人との間に、平和を造り出す働きであります。実に壮大な愛のドラマであります。 


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