アブラハム物語 01
「塵の中に住まう者よ、覚めて歌え」
Jesus, Lover Of My Soul
新約聖書 マタイによる福音書3章8節
旧約聖書 創世記11章27節-12章4節
苦しみの時は神に出会う時
 「苦しい時の神頼み」と言う言葉があります。病気になると願掛けに行く。人生に迷うと占いに行く。悪いことが続くとお祓いをしてもらう。そういう人たちを見て、祈りや信心というものを揶揄する言葉です。私たちも神様を信じ、苦しいときには神様に祈る人間ですから、少し気になる言葉でもあるのです。

 私が牧師になる前の話ですが、私が通っていた教会の祈祷会でこんなことがありました。ある八十歳ぐらいの男性が「わたしは入れ歯をなくした。たいへん困って神様に祈ったところに、すぐにそれが見つかった。神様は素晴らしい」と、感謝に念に満たされてお話をなさったのです。すると、同じぐらいの年齢の女性が「わたしはそんな個人的なことで神様に祈らない。神様は忙しいのだから、そんなことで患わせてはいけない。もっと神様のお仕事のために大切なことを祈るべきだと思う」と話されたのでした。

 この婦人のように、クリスチャンの中には「『苦しいときの神頼み』なんて、本当の信仰、本当の祈りではない」と考えている人も少なくないようなのです。信仰や祈りというのは、自分の願いを神様に押しつけることではなく、神様の従い、仕えて生きることだというのであります。

 私たちはこれから信仰の父と仰がれているアブラハムの生涯を学びながら、毎週の礼拝を守って行きたいと思っています。そのアブラハムの信仰というものを見ますと、確かに自分を捨てて神様に従っていくということがあるのです。今日のところでも、神様は、アブラハムに「生まれ故郷を離れ、父の家を離れて、わたしが示す地に生きなさい」と言われます。すると、アブラハムは「主の言葉に従って旅立った」と書いてあったのです。自分の守ってきたものを守るとするのではなく、自分が行きたいところに行くのではなく、むしろそれを捨てて神様に従ったというのであります。これこそが本当に祝福される生き方なのだと、聖書は語っているのです。

 しかし、もう一つ正しいことがあります。それは、苦しみの時に、人は神様と出会うということであります。神様を求めることなく生きていた私たちが、どうして教会に来るようになったのでしょうか。苦しみがあったからなのであります。どうして聖書を手にとって読み始めたのでしょうか。苦しみがあったからなのであります。どうして神様に祈ることを覚えたのでしょうか。苦しみがあったからなのであります。苦しみの時は、神様と出会う時なのです。これも大切な真理なのです。

 これは信仰の始まりのことだけに通用する話ではありません。今、神様を信じて従っている信仰生活の中にも、しばしば苦しみがあります。その苦しみさえも、私たちがより深く神様の愛を知り、力を知り、正しさを知るために素晴らしい機会となります。

 私の祖母はもう亡くなりましたが、入れ歯が合わなくて何度も作り替え、大金を払い、たいへん苦労したのです。その事を知っておりましたから、「入れ歯をなくした」ということは確かに命に関わるような問題ではありませんが、それがその人の生活をどんなに脅かす危機であったかということがよく分かるのです。それで神様に祈って、それを見つけることができた。そして、神様の愛とお守りの確かさを知り、神様と共に歩む平和と喜びを知ったという話なのです。

 最初、私たちは苦しみの時に、神様を求め、神様に出会いました。それで終わりではなく、今に至るまで、さまざまな困難や悩みや悲しみを通して、神様の愛を知り、力を知り、正しさを知り、感謝と喜びと信仰を深められてきたのです。
アブラハムとその家族の生活
 アブラハムも例外ではありません。自分を捨てて神に従ったアブラハムでありますけれども、実は、アブラハムもまた苦しみの時に、神様との出会いを果たした人なのです。今日は、そのことをお話ししたいと思います。

 今日お読みしました創世記11章27-32節には、「テラの系図」が記されています。系図とありますけれども、これを「アブラハムとその家族の生活」として読んでみると面白いと思うのです。アブラハムはカルデヤのウルという町で大勢の家族と一緒に住んでいました。ウルというのは、メソポタミヤ文明の最も古い町の一つで、当時の大都会でありました。人々はレンガ作りで部屋が幾つもある邸宅に住み、贅沢で豊かな文化的な暮らしをしていました。ウルには、遺跡としても有名でありますが、エジプトのピラミッドと並び評されるジックラドと呼ばれる大きく立派な神殿がありました。このような華やかで、賑やかで、文化的な町の中で、アブラハムとその一家は人並みの暮らしをしていたのであります。

 人並みであるということは、幸せなことのように思います。しかし、幸せそうに見える人が、本当に幸せかどうかは別の問題であります。よく健康があれば幸せ、家族があれば幸せと言いますけれども、健康であっても、家族があっても、幸せを感じない人がいます。幸せというのは、結局は心で感じるものですから、何もなくても心が満たされている人は幸せですし、たくさんあっても心に恐れ、不安、虚しさがあれば、幸せを感じることはできないのです。

 それでは、アブラハムは幸せだったのでしょうか。幸せもあったでありましょう。しかし、心を満たされて、ウルの文化的な生活を楽しんでいたかというと、決してそうとは思えないのです。11章28節をみますと、こう書いてあります。

 ハランは父のテラより先に、故郷カルデアのウルで死んだ。

 アブラハムの弟であるハランが、若くして死んだということが書いてあるのです。これはアブラハムとその一家の生活を揺るがすような苦しく、辛い出来事になったでありましょう。特に父であるテラにとっては一生涯癒えることのない心の痛手となったに違いないのです。

 30節にはこんなことも書かれています。

 サライは不妊の女で、子供ができなかった。

 サライはアブラハムの妻であります。たいへん美しく、夫に仕える素晴らしい女性であったことが聖書によって知られています。長男でもあったアブラハムは、是非とも跡継ぎとなる男の子が欲しかったでありましょう。しかし、二人には子どもができなかったというのです。

 続いて31節を見てみましょう。

 テラは、息子アブラムと、ハランの息子で自分の孫であるロト、および息子アブラムの妻で自分の嫁であるサライを連れて、カルデアのウルを出発し、カナン地方に向かった。彼らはハランまで来ると、そこにとどまった。

 ここは、今回、私が最も想像力をかきたてられた箇所であります。テラは、息子ハランが死んだ後、その心の痛手を負って、生まれ育った町、賑やかで、華やかで、今まで築いてきた全生活の土台があるウルの町から出ていったと書いてあるのであります。アブラハムも、その妻サライも、そして死んだハランの息子であるロトも一緒でありました。彼らの目的地はカナンであったとあります。きっとカナンに行くことに大切な意味があったのでありましょう。しかし、テラは目的地にたどり着くことができませんでした。カナンまで行こうと思えば、きっと行けたと思うのです。しかし、その途中で、ハランという亡くした息子と同じ名前の町を通りかかるのです。テラは、この町に愛着を覚えました。そして、カナンという目的地を忘れ、ハランの地に留まりつけて、死ぬまでそこに住み続けたというのであります。なんとなく悲しく、切ない話ではないでしょうか。
塵の中に住まう者よ
  みなさん、私はアブラハムとその一家が、特別に不幸であったと言いたいのではないのです。しかし、何も問題のない幸せな一家であったわけでもありません。人並みに幸せであったかもしれません。しかし、人並みに苦しみや悩みを負っていたのであります。「人生とはそんなものだ。それ以上を望むのは贅沢だ」と諦めて過ごす人も多いでありましょう。しかし、それは神様を知らない人間の言葉です。三浦綾子さんは、青春のまっただ中にあった十数年を、重い病気で床に臥したまま過ごしました。恋人の死の知らせも、床に臥せたまま聞き、床に臥せたまま涙を流しました。その三浦綾子さんが、「天地をお造りになった神様は、何一つ無益なことはなさらない。わたしの病気もそうであった」と語っておられます。苦しみに人生を諦めるのではなく、苦しみを通して神様を求め、神様を知るならば、人生のどんな辛いことにも意味があることが分かるというのであります。そして、神様が自分の人生をどんなに大事に思って下さるか、どんなに尊い人生であるかということが分かるというのです。それが分かることが幸せなのではないでしょうか。

 それならば、どんなに分からない人生であっても、「人生とはそんなものだ。それ以上を望むのは贅沢だ」と諦めてはならないと思うのです。神様はそれだけに過ぎない人生を私たちに与えようとしているのではありません。しかし、諦めて、生ける屍のような生き方をしていては、私たちに命を与え、人生を下さった神様を知ることはできませんし、神様の祝福を受け取るような生き方もできないのです。「もっと何かがあるのだ。神様、それを教えて下さい。それを与えて下さい」と、あくまでも神様に求め、神様を知ろうとしてこそ、「それだけではない人生」を与えようとしておられる神様に出会い、人生の意味や目的を知り、苦しみにも、悲しみにも打ちひしがれない、喜びと希望の人生を生きるようになるのです。

 イザヤ書26章にこのようなみ言葉があります。

 塵の中に住まう者よ、目を覚ませ、喜び歌え。
 あなたの送られる露は光の露。
 あなたは死霊の地にそれを降らせられます。

 アブラハムは塵の中に住まう者でありました。華やいだ町に住み、人並みに暮らしていたかもしれませんが、それらはアブラハムに特別な価値を与え、特別な目的を与えるものではありませんでした。アブラハムの人生もまた塵のように踏みつけられ、石ころのように転がっているものだったのです。しかし、そのような塵の中から、神様はアブラハムを呼び出されたのであります。これが今日のお話の最も大切なポイントです。弟ハランの早すぎる死、それを悲しみ続ける父、子どもが生まれないことを悩み続ける妻、このような苦しみや悩みの中にあるアブラハムに、神様は「私が示す地に生きなさい。あなたを祝福し、あなたの祝福の源とする」と、祝福へと召し出されたのでありました。そして、アブラハムは塵の中から主の招きにこたえて旅立ち、ただの石ころではない、神様に召し出された特別な石にされたのであります。

 みなさん、私たちも「塵の中に住まう者」です。私たちの存在はどこにでも転がっている石ころのようであり、私たちの人生は塵のように踏みつけられています。しかし、荒れ野で宣教していたバプテスマのヨハネは、地面に無数に転がっている石の一つ拾い上げ、こうもうしました。「神はこんな石ころからでも、アブラハムの子たちを造り出すことがお出来になるのだ」と。塵の中に住む者であったアブラハムを呼び出し、アブラハムをわが友とし祝福された神様は、私たちをも塵の中から拾い上げ、「わたしに従いなさい」と神様の特別な召しをあたえて生かして下さるということなのです。すばらしいことではありませんか。

 私たちにはいろいろ苦しいときや、人生が分からなくなる時がありますけれども、そういう時にこそ神様は私たちを塵の中から呼び出そうとして下さっているのです。どうぞ、そのようなときこそ、神様に対して心の目を覚まし、神様の声を聞き、神様との素晴らしい出会いを果たしたいと思います。
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聖書 新共同訳: (c)共同訳聖書実行委員会
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