そして彼はそこから出て行って、彼の故郷の町にやって来る。また、彼の弟子たちが彼に従う。そして安息日になったので、会堂で教え始めた。すると、多くの者がこれを聞き、仰天して言った、「このようないろいろなことがどこからこいつにやって来たのか。それに、こいつに与えられた知恵はいったい何だ。また、その手でなされた、これほどのさまざまな力ある業いったい何だ。こいつは大工職人ではないか。マリヤの息子で、ヤコブ、ヨセフ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。またその姉妹たちも、この地で俺たちのもとにいるではないか」。こうして彼らは、彼に躓いた(注:信じない)ままであった。 並行箇所:マタイによる福音書13:54〜58 *マルコによる福音書6章7〜13節 さて、彼は十二人を呼び寄せる。そして彼らを二人ずつ遣わし始めた。また、彼らに穢れた霊どもに対する権能を与えた。そして彼らに指図して、道中は一本の杖のほかには何も携えないように、パンも革袋も持たず、帯の中には 並行箇所:マタイによる福音書10:1、5〜15
§「人はどれほど理解から遠いか」
「例えば9.11の世界貿易センターテロ事件の現場に立つイエスを想像して見るがいい。「さあ、みんな、対テロ戦争だ」とブッシュ大統領と同じことを言うだろうか。イエスは「いや、報復はいけない」とあえていい、興奮する群衆から石を投げられて、退場するのではないか。(中略)(ブッシュが敬虔なキリスト教徒なら)現代のキリスト教徒が、キリストよりずっと後退していることは歴然だ」(なだいなだ) というのは、的を射た観察です。ただ、私なら、「石を投げられて退場する」のではなく、「その場ではそこに集まった人々の心をつかみ、後から暗殺される」のではないかと想像します。 イスラエルの子らに対して和を講じた町は、ギブオンに住むヒビ人を除いて一つもなかった。こうして彼らはすべて戦いによって獲得した。彼らの心をかたくなにしてイスラエルとの戦いへと向かわせたのは、ヤハウェからでたことであった。それは容赦なく、彼らを聖絶(新共同訳では、滅ぼしつくす)するためであった。ヤハウェがモーセに命じた通り、彼らを滅ぼし尽くすためであった。 鈴木佳秀訳 *イザヤ書2章2〜5節 終わりの日々に、ヤハウェの家の山は、 素晴らしい平和の思想ですね。
§故郷で受け入れられないイエス さて、今日の聖書箇所の前半は、イエスが故郷ナザレに帰って、そこでは受け入れられない、というエピソードです。3節の「こいつは大工職人ではないか。マリヤの息子で、ヤコブ、ヨセフ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。またその姉妹たちも、この地で俺たちのもとにいるではないか」という近所の人たちのセリフは興味深いですね。12年ほど前に、神奈川の私立学校の教員対象の講演会で、外山滋比古が「先生達はなるべく生徒達に実生活を見せないほうが良いです。できれば隣町から川を越えて通いなさい。なぜなら、ほとんどが、生徒に見せられるような実生活を送っていないからです。どこからともなく来て、どこかへと帰っていくミステリアスな存在であったほうがいい」と言うのを聞いて苦笑したことを思い出します。 *トマス福音書31 この句は元来、郷里や所有を放棄しつつ宣教活動をしたいわゆる「巡回霊能者」のエートス(引用者注:習慣・風習)を背景として形成された諺である。トマスはこれを「単独者」(注:自立者、血縁的同族関係からおのが身を断ち切って一人で立つもの:荒井/解脱したもの:高橋)を具現して生きるイエスの孤独、あるいは、本来的自己の救済者として受けるイエスの苦しみの意味で解釈するように、われわれに迫っている。(荒井献) 「躓いたまま」の人々、「また彼は、彼らの不信仰のために驚き通しだった。」混乱の世の中にあって、イエスさまなら、どう思うだろう、と思うときに、今の社会に対してこういわれる姿が目に浮かびます。
§弟子達の派遣 今日のテキストの後半は、弟子を二人ずつ遣わして、「穢れた霊どもに対する権能を与え」「人々が回心するようにと宣教」させる場面です。二人ずつ旅するのは、安全を考えたユダヤ人の旅の習慣ですが、ひとりの宣教の業をもう一人が証人として見るという必要性ももっていたのでしょう。「病人たちに油を塗って癒」すのは、ユダヤ教でも、ヘレニズム文化でも広く行われていたことだそうで、ヤコブの手紙(5:14)にも出てきますが、福音書ではここにしか記述はありません。これは今でも行っている人々がいます。 *ガラテヤ人への手紙6章9〜10節 |
*マルコによる福音書6章14〜29節 するとヘロデ王が彼のことを耳にした。彼の名前があらわになったからである。そこで、ある人々は言っていた、「洗礼する者ヨハネが死人の中から起こされて現れたのだ、だからこそこれらの力が彼の中で働いているのだ」。ほかの者たちは「彼はエリヤだ」と言い、またほかの者たちは「かつての大預言者の一人のような預言者だ」と言っていた。ヘロデはこれを聞いて何度も言った、「わしが首を斬り落としたあのヨハネ、あいつが起こされたのだ」。 並行箇所:マタイによる福音書14:1〜12 そして就任後の行動を垣間見させるような発言、 また、痛烈な皮肉と取れなくもない、
§洗礼者ヨハネ 自分たちだけを選民と考え、他の人々を見下す人々に対して、洗礼者ヨハネは、こう言っています。 ヨハネの問いかけは、本質を突くものです。イエスの弟子達が、ヨハネをイエスの先駆者と位置づけた理由が良く伝わってきます。(違いについては、プリント「旅人イエス」18参照) 「バプテスマのヨハネの生涯と宣教についての主要な資料は正典福音書である。しかし、そこに保存されている誕生物語は、キリスト教徒がバプテスマのヨハネ教団から引き継いだ伝説である。(中略)ヨハネの使信は、神の最後 するとヘロデ王が彼のことを耳にした。彼の名前があらわになったからである。そこで、ある人々は言っていた、「洗礼する者ヨハネが死人の中から起こされて現れたのだ、だからこそこれらの力が彼の中で働いているのだ」。ほかの者たちは「彼はエリヤだ」と言い、またほかの者たちは「かつての大預言者の一人のような預言者だ」と言っていた。ヘロデはこれを聞いて何度も言った、「わしが首を斬り落としたあのヨハネ、あいつが起こされたのだ」。 この部分は、洗礼者ヨハネが、イエスの先駆者であったことを思い起こさせます。そして、その後のヨハネの受難と処刑も、イエスが受難し、処刑されることを暗示しています。(川島貞雄)そして、8章31節〜と9章30節〜 *ヨセフス「ユダヤ古代誌」18-116〜119 しかしユダヤ人のある人びとには、ヘロデ(アンティパス)の軍隊の敗戦は神の復讐であるように思われたが、確かにそれは「洗礼者」と呼ばれたヨハネになされた仕業に対する正義の復讐であった。というのはヨハネは立派な人 この処刑に関する、ヘロディアの娘サロメの挿話は、オスカー・ワイルドがこの話を脚色して1893年に発表した作品「サロメ」は広く読まれていますが、歴史的に事実かどうかはわかりません。
*マルコによる福音書12章28〜 すると律法学者たちの一人が近寄って来て、彼らが議論しているのを聞き、イエスが彼らにみごとに答えたのを見て、イエスにたずねた、「すべての掟の中で、第一のものはどれでしょう」。イエスは答えた、「第一のものはこれ |
さて、遣わされた者たちはイエスのもとに集まる。そして、自分たちがなし、また教えたすべてのことを彼に報告した。そこで彼は彼らに言う、「あなたたちだけで荒涼としたところに行き、少し休みなさい」。というのも、人の §「渇いている者は来なさい」 世界のニュースを見ていると、まるで世界が宗教や民族ごとに敵対し合っているように見えてしまいます。しかし、中東戦争でエルサレムが東西に分断されてしまい、金網が張り巡らされてしまったときさえ、分断されたパレスチナ人とユダヤ人の住民達は、隣人がパンが足りなくて困っていれば、金網越しにパンを投げ合って仲良く暮らしていたと聞きました。 マルコの黙示録と呼ばれる、マルコによる福音書13章の神殿崩壊予言と終末前の苦しみの箇所は、ブッシュ氏と私とでは、正反対のメッセージを受け取ることでしょう。 *マルコによる福音書13章3〜9節 「誰もあなたたちをだますことのないように、警戒せよ。多くの者が私の名においてやってきて、『私こそそれだ』と言い、多くの者を惑わすだろう。また、あなたたちは戦争のことを聞き、戦争の噂を聞くとき、動転するな。これらのことは起こらなければならない(引用者注:避けられない、の意)。しかしまだ終末ではない。すなわち、民族が民族に敵対して、王国が王国に敵対して、起き上がるだろう。そこかしこに地震があるだろう。これらは産みの苦しみの始まりだ。 ローマによる侵攻や圧政を背景に生まれたこの箇所は、弱者の視点で書かれています。自分こそが「救い主」だ、と言って、人々を引き連れてローマ軍にゲリラ戦を仕掛けていくような人々に気をつけろ、暴力対暴力がエスカレートする悪循環に陥るな、と。大国による侵攻や迫害は避けられない状況だ、しかし、「耐え抜け!」(13節)まるで、今のパレスチナ人たちに与えられているがごとき、メッセージではありませんか。 私イエスは、諸教会について、これらのことをあなたがたに証言するために、私の使いを遣わした。私はダビデの根また子孫であり、輝く明けの明星である」。 §五つのパンと二匹の魚 ガリラヤ湖の北岸、マグダラのマリヤの故郷、マグダラ(ミグダル)から北東へ行き、カペナウム(カファルナウム)のすぐ手前にタブハというところがあり、そこに、パンと魚の教会があります。このパンの奇蹟が行われた、という伝承が残るこの地に、4世紀に建てられ、6世紀の地震で崩れてしまい、7世紀以降は存在すらも忘れ去られていた教会ですが、19世紀に黒い服を着ているカトリックのベネディクト派の修道僧に発見されて再建されました。 *マルコによる福音書8:11〜13 では、マルコによる福音書はなぜ、このような奇蹟物語を報告しているのか、考えていきたいと思います。 *6:34 「腸がちぎれる想いに駆られた」は、深く憐れむ(cf.1:41)ということです。また、「牧人のない羊のよう」は、リーダーやえさをくれる人に棄てられてしまって、明日の命もわからない羊のようという意味で、民数記27章17節などにも出てきます。
*マルコによる福音書6:35 1デナリオンは、1日分の労働の賃金だったそうです。1デナリオン銀貨は、最初は4.55g。後に3.9g。さらにネロ帝以降は3.41gとだんだん小さくなっていったそうです。200デナリオンは200日分の給料と言うことになります。弟子の反応は、マルコによる福音書に一貫しているように、イエスを理解できない弟子たちの姿を映しだしています。 *6:39〜 「横たわらせる」のは、当時の食事の姿勢をとること。イエスは五個しかないパンと二匹の魚を分け与え始めます。 *預言者エリヤのパンの奇蹟:列王記上17章10〜 マルコによる福音書は、生前、弟子達にすら理解されなかったイエスが、実は、私たちの救い主であり、旧約聖書の預言者たち以上に素晴らしい奇蹟を行うことができる、が、奇蹟によって人を惹きつけたりはしないというイエス像を表現しているようです。 *ヨハネによる福音書6:26〜71 *47〜50「アーメン、アーメン、あなたがたに言う、信じる人は永遠の命を持っている。私は命のパンである。あなたがたの父祖は荒野でマナを食べた。そして死んだ。(cf.民数記14:26〜35)これは天から降ってくるパンである、人が食べると死なないように。私は天から降った、活けるパンである。人がこのパンを食べるなら、永遠に活きることとなる。 活けるパンとしてのイエスの言葉によって満たされる私たち。圧政や難しい時代にあっての無力感や疎外感、閉塞感すら克服して喜びのうちに生きることができる素晴らしさ。私たちも、この群衆とともにいただいた活けるパンで *マタイによる福音書28章20節 私があなたたちに指示したすべてのことを守るように、彼らに教えよ。そして見よ、この私が、世の終わりまで、すべての日々にわたり、あなたたちと共にいるのである。 2003年3月16日 |
*マルコによる福音書16章1〜8節 さて、安息日が終わり、マグダラの女マリヤとヤコブのマリヤとサロメは、イエス塗油を施しに行こうとして香料を買った。そして週の初めの日、朝たいへん早く、日の昇る頃、彼女たちは墓行く。そこでお互いに言い続けた、 並行箇所: マタイによる福音書 28:1〜8 §「この私が、世の終わりまで、すべての日々にわたり、あなたたちと共にいる」 イラク戦争は、アメリカ軍のほとんど一方的な勝利で終わりを迎えようとしています。しかし、フセイン政権陥落後の治安維持を考えていなかったために、略奪が横行する無法地帯と化してしまいました。病院は全く機能しなくな 「しかし、すべてをまとめて考えると、この一年はローラと私にとって素晴らしい1年でした。」(Edited by Jacob Weisberg, 'More George W.Bushisms'訳は筆者) 何の変哲もないような当たり前の一言に聞こえますが、これが2001年9月11日の連続テロ事件のすぐ後の年の瀬、12月21日に語ったことが問題になります。支持率も落ちて様々な疑惑も浮上し、窮地に追い込まれていたさなか、9月11日のテロのお陰ですべてが解決し、念願の軍の増強など、思うようにことが進むようになったことを、喜んでいる本心が露呈してしまった瞬間でした。 さて、今日は、イースターです。今年は、残念ながらイラク戦争の血なまぐさいニュースがたくさん報じられる日々に、復活祭を迎えます。こうしたニュースに接するたびに、ひとりの人間の存在価値を思い、十字架での死をむかえられたイエスと、その復活との意味を考えずにはいられません。このプリントの最後に、私たちがエルサレムで仲良くなったパレスチナ人のこども達の写真がありますが、戦争の恐怖におびえ、あるいは殺されていく人たちは、私たちやこの子達と全く変わらないひとたちです。この混乱と不条理(絶望的な状況)とに満ちた世界にあって、私たちは、イエスの福音と、そのなかで新しく与えられた価値観がなければ、正気を保ってしっかりと足を進めることはできません。 *ガラテヤ人への手紙1:4 「そのキリストは、私たちの罪のためにご自身を与えられた。それは、私たちを現在の悪の世から解放するためである」。 そして、来月、横田敏子さんが洗礼を受ける決心をされました。横田さんの胸に光る大きな十字架が象徴するように、横田さんの心の中に、神様が住んでおられることを受け入れて、新しい人生の第一歩を踏み出そうとしておられます。
私があなたたちに指示したすべてのことを守るように、彼らに教えよ。そして見よ、この私が、世の終わりまで、すべての日々にわたり、あなたたちと共にいるのである。 §「イエスはここ(墓)にはおられない」 聖書を読み、福音を学ぶにも、私たちはわからないこと、理解できないことに数々ぶつかります。今日のテーマ、イエスの「復活」も、大変難しい問題の一つです。 さて、今日のテキストは、イエスが十字架につけられ、亡くなって、埋葬した後に、マグダラのマリヤら、女性達がお墓を訪問する場面です。イエスの死に打ちひしがれていた人々が、思いもかけないようなできごとに遭遇します。それは、イエスの墓が開き、遺体が消えてなくなってしまっていたのです。何故なのでしょう。 言葉はあなたの近くにある、あなたの口のうちに、そしてあなたの心のうちに。これは私たちが宣べ伝えている信仰の言葉のことである。なぜならば、もしもあなたがあなたの口で主イエスを告白し、あなたの心のうちで、神はイエスを死者たちの中から起こした、と信じるなら、あなたはすくわれるであろうから。心によって信じられて義へと至るのであり、口によって告白されて救いへと至るのである。 マルコによる福音書16章でのメッセージは、亡くなって埋葬されたはずのイエスが、「起こされた、ここ(墓)にはいない」ということです。死者のいるべきところには、イエスはおられない。生きておられる。
死人が起こされることについては、あなたたちはモーセの書の『柴藪』のくだり(出エジプト3)で、神が彼にこう言われたのを読んだことがないのか、この私がアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。神は死人たちの 「私がアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。」(だということは)神は死人たちの神などではなく、生ける者たちの神だ。(ということは、アブラハムもイサクもヤコブも生きている)「アブラハム、イサク、ヤコブ *コリント人への第一の手紙15:2b〜8 〜 その福音によってあなたがたは救われるのである。なぜならば、私はあなたがたに、まず第一に、私も受け継いだことを伝えたからである。すなわち、キリストは、聖書に従って(イザヤ書、私の罪のために死んだこと、そし 具体的には、どのような出会いだったのでしょうか?
すなわち、神の御子を私が異邦人たちのうちに救い主として告げ知らせるために、御子を私のうちに啓示することをよしとされた時、私は直ちに血肉に相談することはせず、またエルサレムにのぼって私よりも前に使徒となった人
*ローマ人への手紙 11:15 私は異邦人達のための使徒である以上、私の務めを光栄に思っているし、いかにして私の同胞に妬みを起こさせて ちょっとわかりにくい部分ですが、「彼らが(ユダヤ人たちが信仰を)受け容れることは、死者たちの中からの命(死者の復活)以外の何を意味するだろうか」とパウロは言っています。従って、死んでいた者(信仰を受け入れて *ローマ人への手紙6:13〜14 またあなたがたは、あなたがたの肢体を、不義の武具として罪に捧げてはならない。むしろあなたがたは自分自身を、死者たちの中から起こされて生きている者として神に献げ、またあなたがたの肢体を義の武具として神に献げな
*ヨハネによる福音書11:25 イエスは言った、「私は甦りであり、命である。私を信じている人は皆いつまでも死ぬことがない。あなたはこれを信じるか」。 2003年4月20日 イースター礼拝 |