2003年11月23日
「マナを踏みつけることなく」 安部一徳牧師


ヨハネによる福音書6章41〜51節/聖書175ページ
(ページは新共同訳聖書のページ数を示しています)



 エジプト脱出後、旧約の民が体験した最大のピンチに「飢え」があった。イスラエルはエジプトで奴隷であったが、「飢えること」はなかったゆおうだ。民は40年の荒野放浪で、飢えの苦しみに耐えられなくなり、指導者モーセを、また神すらも疑った。そのイスラエルに、救いのしるしとしてある恵みが与えられた。それは天から降ってくる「マナ」である。彼らはそれを食べ、飢えから解放された。この体験は、後世の信仰者たちへ、しっかりと受け継がれるはずだった。しかし、神(ヤーウェ)が、奴隷を解放する主であり、また、命の根源を支える救い主であることを忘れ、人々の関心は、「神はいかにわれわれに恵みを与えるか」という視座に、恵みは転落してしまった。
 イエスは、ご自分を命のパンとおっしゃった。ここに出てくる群衆達の求めるものも、マナを求める旧人達のごとくに、「イエスに何をしてもらえるか」というところに関心が集中している(これは彼等に限ったことではない、振り返ればわれわれもそうなのではなかろうか)。イエスは挑戦的とも言える彼等に向かって「私は命のパンである」という。「わたしは〜である」はヨハネ伝でよく見る表現だが、これは終末のときに、「まさにイエスがそうだということがわかる」意味が込められている込められているという。すなわち、「わたしは命である」とおっしゃるイエスそのものが、私たちに示される命のパンであるということだ。わたしが求めるイエスは、常に「何かを与えてくださる救い主」という印象がぬぐいされないが、イエスはここで、何よりも最大のプレゼントは、イエスご自身であるということ、それ以外にない(使徒言行録4:12)ことをここで示されているのだ。
 そのイエスとわたしたちの関わりは何であるのか。それはわたしたちが彼から何かを受け取るということではなく、わたしが彼のところに行く、そう、いうなれば裸のまま、ありのままの姿で、彼に信頼(仰)し、従う以外に無いのではないだろうか。イスラエルがマナの奇跡を信仰ゆえに恵みと受け止めたように・・・