渇きの中に立つ主イエス
高松牧人
この後、イエスは、すべてのことが今や成し遂げられたのを知り、「渇く」と言われた。こうして、聖書の言葉が実現した。そこには、酸いぶどう酒を満たした器が置いてあった。人々は、このぶどう酒をいっぱい含ませた海綿をヒソプに付け、イエスの口もとに差し出した。イエスは、このぶどう酒を受けると、「成し遂げられた」と言い、頭を垂れて息を引き取られた。
(ヨハネによる福音書19章28-30節)
主イエスが十字架上でまさに息を引き取られる場面です。主イエスご自身の口から、最後に短い言葉が発せられます。どちらもギリシア語で一つの単語からなる言葉ですが、今ここで起こっている事柄がはっきりと言い表されます。一つは「渇く」、もう一つは「成し遂げられた」という言葉です。
ヨハネによる福音書は、神の御子として、また王として、積極的に十字架に向かって歩まれる主イエスのお姿を一貫して描いてきました。そこでは十字架の死に至る人間的苦痛を細かく描写しようとはしていません。もちろん、そこに想像を絶する苦痛があったことは間違いのないことですが、その苦しみのさまを感覚的に訴えかけはしないのです。
ただ、主イエスがどんなに深い悲しみと苦しみを味わわれたかを「渇く」の一言はよく示しています。渇きとは表面的には十字架上で起こる脱水症状を指していますが、この言葉がもっと深い意味をもつことは、「こうして聖書の言葉が実現した」とあることからもうかがえます。
ヨハネがここで想起しているみ言葉は「口は渇いて素焼きのかけらとなり、舌は上あごにはり付く。あなたはわたしを塵と死の中に打ち捨てられる」(詩編22・16)や「人はわたしに苦いものを食べさせようとし、渇くわたしに酢を飲ませようとします」(詩編69・22)です。これらは神に従って歩みながら苦難にあい、屈辱に耐えながら神を仰ぎ望む人たちの歌です。主イエスは今そうした世々の信仰者たちの痛みと苦しみを身に受けて、「渇く」と言われます。
また私たちはここで、主イエスがサマリアの女性に語りかけられた「わたしが与える水を飲む者は決して渇かない」(ヨハネ4・14)や「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい」(ヨハネ7・37)を思い起すことができます。これらの渇きは、神との交わりを失い、魂の深く荒れすさんでいる状態です。主イエスは、私たち人間がいのちの源である神から離れてしまった結果としての渇きを、だれよりも深刻に受けとめ、私たちの渇きを癒すために、神と人との断絶のただ中に立たれたのです。
もう一つの、そしてまさに最後の言葉は「成し遂げられた」です。これは終わりという意味と目的という二重の意味を含む単語です。主イエスの十字架の死は、
神の救いのみ業の完了であり、神の栄光が最も表わされる時であったのです。十字架の死が、贖いのみ業の完成であったからこそ、私たちは確信と喜びを持つことができるのです。十字架になお少しでも未完成なところ、不十分な点があるとすれば、そこに何かを加えなければならないとすれば、私たちの救いはまったく不確かなものとなってしまいます。私たちの救いのために必要なことは、すべてを成し遂げられている、ここに私たちの平安があります。
「息を引き取られた」という何気ない表現は、言語を直訳すると「霊を渡した」です。主イエスは地上のみ業を成し遂げ、ご自身の霊を天の父に差し出されたのです。そしてヨハネによると、まさにその霊を、天の父のもとに上げられた主イエスが、地上に残された弟子たちに吹きかけられるのです(ヨハネ20・22)。この聖霊は私たちにも注がれ、私たちはこの霊によって、成し遂げられた罪の赦しの恵みにあずかっています。
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