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〜人間を照らすまことの光イエス・キリスト〜


第67課「成し遂げられた」ヨハネによる福音書19章23−42節

「これらのことが起こったのは、『その骨は一つも砕かれない』という聖書の言葉が実現するためであった」

ヨハネによる福音書19章36節

1.心の思いがあらわにされるための心を突き刺す剣
 主イエスの十字架の許には、主の母マリアがたたずみ、自分の息子の死に行く様を見つめていました。マリアはどのような思いで、十字架に死に行く主イエスをみつめていたのでしょうか。自分の子どもが自分の目の前で死に逝こうとする、それだけでも心引き裂かれることなのに、その死は尋常な死ではありませんでした。さんざんなぶりものにされ、いたぶられた上に、このようにさらしものとされて、刻一刻と死に行くのです。しかも激しい苦しみと激痛の中で苦悶にもだえながら。十字架に死に行く主の姿は、マリアの心をどれほど鋭く刺し貫いたことでしょうか。かつてマリアは30年前、主が生まれて40日目のきよめの儀式を果すために、このエルサレムにやってきたとき、神殿で一人の老人が近づいてきて、突然赤子の主を抱き上げたかと思うと、突然恐ろしい形相になってマリアに向かい、こう預言したのです。「この子は、イスラエルの多くの人を倒したり立ち上がらせたりするためにと定められ、また、反対を受けるしるしとして定められています。あなた自身も剣で心を刺し貫かれます。多くの人の心にある思いがあらわにされるためです」と(ルカ2章34、35節)。そのとき預言された、心が剣で刺し貫かれるとは、このことだったのかとマリアは思い巡らしたでしょうか。しかしマリアは、まさにこの場で、さらに心を突き刺す言葉を聞かなければなりません。十字架の上から主は、マリアに向かって「婦人よ」と呼びかけたのです。「母よ」ではなく、「婦人よ」でした。今際の息にある息子からの最後の言葉が、せめて愛情溢れる優しい言葉であったら、マリアの心はどんなに慰められたことでしょう。しかし主は、自分の母マリアに向かって、「婦人よ、女よ」と呼びかけられたのです。もちろんこの言葉は、傍らに共にいた愛弟子、おそらくヨハネに母マリアの今後を託し、委ねたということで、それ自体は愛情深い主の配慮だということができます。この言い回しは、当時の養子縁組の言い方だという説明もあります。老いた母の老後を弟子に任せることができた主は、心置きなく死に行くことができるともいえます。しかし、ここで主がマリアに言われた言葉は、マリアにとっては心突き刺す鋭い言葉だったのではないでしょうか。しかしそれが、マリアには必要だったのです。今、目の前で死に行く男は、自分の腹を痛めて生み、育ててきた我が子だという思いからマリアを引き離し、母親なりの感傷から思いを引き離す必要があったからです。今、この十字架にかかって、死に行こうとしている男は、マリアの息子イエスなのではなくて、ユダヤ人の王イエス、いや「神の子イエス」だということを、マリアも知り、信じる必要がありました。人々がこの子をあざけり、捨てとうとも、わたしはこの子を見捨てない、この子はわたしの子という思いがマリアにあったと思います。主は、そのマリアの思いを打ち砕かれます。この子はわたしの息子よ、というマリアの自負心や思いが打ち砕かれる必要がありました。ここで十字架にかかって死に行く男は、マリアの息子ではなく、神の子だからです。そして主はこのマリアの弱さ、愚かさ、罪のためにも、今十字架にかかって死なれるのです。マリアが主を自分の息子として見上げるだけなら、マリアに救いはありません。マリアがその肉の目ではなくて霊の目を開かれて、主を見上げ、その方がわが子ではなくて、救い主としておいでになった神の子として見上げるようになった時、主の十字架はマリアをも救うものとなります。そのためには、マリアの肉の思いが打ち砕かれる必要がありました。十字架の主を自分の愛する息子としてではなくて、自分の罪の身代わりとして死んでくださった救い主として信じるようになるためでした。十字架の主によって、「人の心にある思いがあらわにされる」、それはまずマリアに求められたことでした。しかしそのためにマリアの心は剣によって刺し貫かれていきます。しかしそのことが、マリアを真実に立ち上がらせることになります。復活された主が昇天された後、弟子たちはある家に集まって、約束の聖霊を待ち望み、祈り集っていました。その一群の人々の中に、主の母マリアがいます(使徒言行録1章14節)。主が十字架からマリアに語りかけられたのは、マリアが肉の目ではなく、霊の目で主を見上げて、「本当にこの方こそ神の子だった」と、百人隊長と共に主への信仰を告白し、主の命にあずかるようにするためでした。マリアの心を突き刺した鋭い言葉、それはマリアを死から命へと招き入れるための言葉でした。そこでマリアの心にある思いがあらわにされて、主の十字架によって真実にマリアが立ち上げられるようになるためでした。主の十字架を前にして、わたしたちはその心の思いをあらわにされ、倒れるか立ち上がるかの、どちらかの前に立たされていくのです。それは、わたしたちも、主によって立ち上げられる者とされるためでした。
2.聖書の言葉が実現するため
 ヨハネの福音書は、十字架の道行きが強いられてでも、迫られてでもなく、どこまでも主の意思に基づくものであることを明らかにします。十字架に向かわれる主は、ご自分のほうから進んで十字架を背負って進み行かれます。しかしそれは、決して主の勝手な考えや計画に基づくものではなくて、むしろ父なる神の御心に基づき、それに主が従われたものであることを明らかにするのです。主はこれまでも、繰り返しご自分の働きが自分から勝手に為したことではなく、父から求められたものであること、主が語られた言葉もご自分から勝手に話したことではなくて、父の言葉を語り伝えてものであることを明らかにしてこられたのでした。ここでは、「聖書の言葉が実現するためである」という言い方で語られています。それを3回も繰り返すことで、主の十字架の出来事が、偶発的に起きた惨事ではなくて、神のご計画の中で着々と実現してきた神の救いのみ業に他ならないことを明らかにするのです。ここでは、主の衣が引き裂かれ、またくじで引かれたこと、主が渇くと言われたこと、そしてその骨が砕かれなかったことが、聖書の預言の成就として語られます。いずれも詩篇22編に見出す預言の実現ですが、とりわけ主の骨が砕かれなかったと記されたことが、主の十字架の意義を明らかにしていきます。

これは、出エジプト記12章46節、民数記9章12節、詩篇34編21節の成就ですが、それは過越の祭で食べる過越の子羊についての規定に基づくものでした。かつてイスラエルがエジプトの苦役に苦しめられていた時、神はイスラエルを救い出そうとされます。その時、これまでイスラエルを苦しめ、去らせようとしないエジプトに対する裁きが下されますが、それが初子を撃つというものでした。なぜなら神にとってイスラエルは神の初子、長子だからでした(出4章22、23節)。エジプトではその初子が撃たれている時に、イスラエルでは自分たちの初子の代わりに子羊をほふり、その血を家の門に塗ることで、その災いから免れます。イスラエルも、その初子を贖わなければなりませんが(出13章2、12、13節)、それを子羊が肩代わりすることになりました。神の救いは、民の罪を背負った代表がみなの身代わりとなって、その罪の裁きを引き受け、肩代わりすることで実現します。それが過越の子羊でした。そしてその子羊は、骨を砕いてはならないと定められていました(出12章46節)。ここでヨハネは、過越の子羊と主イエスを結びつけ、まさにこの民の罪を背負って殺される、贖いの子羊こそ主イエスご自身であることを明らかにしたのです。ヨハネにおいては、主が十字架にかけられて死んだ時刻は、ちょうどこの子羊が神殿でほふられ、殺される時間でした。主が十字架につけられるのは、「過越祭の準備の日の正午」(19章14節)でした。そして午後3時に主が「成し遂げられた」と言って、最後の息を引き取られた時、まさにそれが過越の犠牲の子羊をほふり、殺す時間だったのです。こうして十字架の主こそ、洗礼者ヨハネが預言したとおり、まさしく「世の罪を取り除く神の子羊」(1章29節)であることを、明らかにしたのでした。神がかつてイスラエルをエジプトから連れ上り、救い出した出来事は、実は主が罪の支配と圧制に苦しみ、死の支配に脅えるわたしたちを命へと救い出すということを意味するものでした。そしてその罪からの救いのためには、贖いが必要でした。罪を肩代わり、身代わりとなって死んでくれる犠牲が必要でした。その犠牲こそ、贖いの子羊こそ主イエスご自身でした。それは聖書においてこれまでずっと預言され、予告されてきた神の救いの計画の実現でした。神が罪に落ち、堕落したわたしたちを何としてでも救い出すために、歴史の最初から計画し、着々と進めてきてくださった救いのみ業が、今ここで実現したのです。だから主は最後に、「成し遂げられた」と語られたのでした。これによって、神の救いの計画は完全に実現し、成就したことを明らかにしてくださった、そしてそのために主は十字架へと進み行かれ、ご自身から十字架についてくださったのでした。この十字架の主こそ、「世の罪を取り除く神の子羊」なのです。

 ヨハネは、この福音書の目的を書き加えました。それは、「イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また信じて、イエスの名により命を受けるため」でした(20章31節)。ゴルゴダの丘の一本の十字架を前にして、わたしたち一人一人に問いかけがなされます。この十字架の主を、自分のための罪からの救い主として信じ、受け入れるかどうかということです。この神の呪いの木、裁きの木に「上げられた」方こそ、自分の王、神なる主であると心から認め、受け入れ、信じる者には命が約束されます。この十字架の主を前にして、わたしたち一人一人の心にある思いがあらわにされます。この方を前にして躓き倒れるか、それとも立ち上げられるか、どちらかです。パウロも言いました。「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です」と。そして「このキリストは、わたしたちにとって神の知恵となり、義と聖と贖いとなられた」と(1コリント1章18、23、24、30節)。あなたは、この十字架の主を自分の罪のための救い主、贖いの子羊として信じ、受け入れ、従いますか。信じる者には、命が与えられます。あなたはそれを信じますか。