私を愛し、赦し、救ってくださった神様に心から感謝します。私は神様と出会う前は、自分のことを好きになれない人間でした。いつも周りの人と自分を比べては「私はダメだ」と思って毎日を過ごしていました。
小学校では本当に無口で、しゃべれない「人形」と言われていじめられていました。もしもっとかわいかったら、もっとスポーツができたら、私はこんなんじゃなかったのに…と今ある自分を否定し続けていたように思います。
何とか自分を認めてほしくて、好きだった勉強を頑張り、先生や友達の気をひこうと必死でした。けれど、そのような弱い部分とは反対に自分よりも何かが出来ない人を見つけると安心して、急に偉そうになって、きつい言葉でいじめてしまう私もいたのです。
いつも人をランク分けして、優越感と劣等感とにしばられていました。そういう自分が嫌いで、赦せなくて、何とかしたいけれど何ともできないそんな日々でした。小さい頃から時々教会学校に行っていましたけれど、神様の本当の愛を「私のため」として受け取ることができずにいたのです。
その私が神様を信じる決心をしたのは、中学二年生の夏のことでした。高砂教会でゴスペルコンサートが行われ、その中で歌われた一曲の讃美が私の心に深くしみ込んできたのです。それはこんな歌詞の曲でした。
認められたい 認められない 心の嘆き
優越感 劣等感 挟まれて
心重くて傷だらけ 人の視線に押しつぶされる
誰も 私を愛してくれないと 一人勝手な思いこみ
だけど本当は 主イエス様が こんな私を愛してた
(作詞・作曲:向日真理子)
そこに私の心そのものが歌われていました。そして「あなたは私の目には高価で尊い。私はあなたを愛している」という御言葉が語られたのです。涙が溢れました。
人にどう見られているか、どの様に評価されているかという事を気にしてそれに振り回されていた私。そんな私を愛していると言って下さる方がおられるということは、とても大きな衝撃でした。普通ならそんな風に語られても、疑い深い私はとても信じる気になれないと思うのですが、その時は神様の不思議な御手の中で、「私は愛されている」という実感が湧き起こり、深い感動と共に愛なる神様に触れられていました。
どんなに人が私をダメだと評価したとしても、何よりも素晴らしい主が、愛していると言って下さっているということが、私の心を変えました。気が付くと自分を出せるようになって、人目を気にせずに振る舞えるようになっていました。
そして、自分より弱いように見えていじめてしまっていた人たちを優しい思いで見られるようになりました。なぜなら、その人達をいじめてしまっていた私の醜い心を神様が赦して軽くして下さり、また私自身の傷ついた心を癒して解放して下さったからです。
それから、私は明るくなりました。中学一年生の時のクラスメイトと高校でも同じクラスになりました。「森さんってこんなに話す子だった?」とその子が不思議がったほどです。
神様が私を罪から解放して下さって、愛されている子どもという新しい存在証明を与えて下さいました。見失っていた自分自身を見出し、もう一度生き直し始めた、そんな感じです。
この感動的な神様との出会いから十数年が経ち、今私は教会の教育主事として働いています。そして今日も、神様に愛されて生きていることの素晴らしさを体験し続けています。イエス様がその愛のメッセージを、昨日も今日も変わることなく私に語りかけていて下さるからです。この讃美のように…。
私の目には あなたは高価で尊い
世界の初めから 私のもの
大切な人よ 美しい人よ
かけがえのないあなたを
いつも いつも 愛している
私はいつも あなたと共にいる
どんな時でも いつまでも
大切な人よ 美しい人よ
かけがえのないあなたを
いつも いつも 愛している
(作詞・作曲:AYA&KEN)