福音を聞く―新約聖書への招き―
 
2004年4月27日放送
病む人とイエスの出会い
イエスの時代の病人や障害を持った人は、肉体的な苦しみ以上に、その病気が罪の結果だと見られることによって神からも人からも完全に断ち切られてしまうという苦しみがあったと思います。この人々がイエスに出会っていった話を福音書は数多く伝えています。イエスと彼らとの出会いの中でいったい何が起こったのでしょうか。

まず、イエスが個々の罪と病気との結びつきを断固として退けているということを確認しておくべきだと思います。ヨハネ9章の目の見えない人の話のところでイエスはこう言います。
「この人が盲人なのは、本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。」(3節)
イエスはここでまったく過去を問いません。なぜこの人が盲人になったのかはまったく問題にしていません。「神様がこの人を愛しておられる。そしてこの人の上にご自分の業を現そうとしているのだ。」イエスが見ているのはその一点だと思います。

旧約聖書ヨブ記で、ヨブという正しい人がとんでもない不幸に見舞われる。そしてヨブはその苦難の意味について延々と神に訴える。けれども結局神様は何もヨブの苦難の意味を説明していないんですね。
ただ、ある意味で神は決定的に答えています。38章で神様は突然嵐の中からヨブにご自身の姿を現して、救いを与えていきます。苦しみの原因を説明するというのではなくて、具体的な出来事として答えていると言ったらいいかもしれません。

イエスもそのように語るのだと思います。「神様は人間の苦しみを決して見過ごしていない。神様はその人に何かをなさるんだ。癒しということは、神の業がその人の上に現れるということであって、神は今まさに救いの業をなさろうとしておられるのだ。」
そしてこのイエスのメッセージを受け取った人々は確かに癒されていった。そのことを福音書は伝えています。

自分はどうしようもない罪人で、その罪によって神から見放されていると感じざるを得ない、もう自分自身の存在の意味も見失ってしまう、そういう人々に向かって「いや、神はあなた方を見捨てていない。」イエスはそう語りかけたわけです。

イエスの癒しというのは、「神様がこの人を愛して下さっている。この人を受け入れて下さっている」ということの明白な宣言であったと思います。その宣言はただ言葉によってなされたのではありません。
マルコ福音書1章に「汚れた者」とされた重い皮膚病の人と出会ったイエスの姿が記されています。
「イエスが深く憐れんで、手を差し伸べてその人に触れ、『よろしい、清くなれ』と言われると、たちまち重い皮膚病は去り、その人は清くなった。」(41、42節)
その病気のために誰も触れようとしないその人に、イエスは手を差し伸べて触れていきます。その中で病人が受け取ることは、ただイエスという人間の親切とか優しさだけではなかったでしょう。彼は自分が神から、そして人からも見捨てられた存在ではないということを、イエスとの出会いによって気づかされていくわけです。

ルカ8章の出血の止まらない女性は、正しいとは言えない方法でこっそりとイエスに触れようとしました。しかしイエスは気づいて、「あなたの信仰があなたを救った」と言っています。
ここで言う「信仰」というのは、何かの内容を信じるという信仰ではないでしょう。ただひたすらまっすぐにイエスに向かっていく姿勢と言ってもいいのではないかと思います。その精一杯の思いをイエスは受け止めて評価していると思います。

この「触れる」という行為の特別な意味に注意したいと思います。当時は、汚れた人に触れればその汚れが移るというのが常識でした。しかしイエスはそのことをまったく意に介していないようです。それはイエスには汚れが移らないということよりも、むしろその相手の持っている「汚れ」という苦しみを、自分の身に引き受けようとすることだと言ったほうがいいのではないでしょうか。これは福音書の中でイエスが示した根本的な姿勢だと思います。

本気で自分に近づいてきて、本気で自分の痛みや苦しみや重荷を共に負ってくれる人に出会った時、人は根底から変えられる。そう言ってもいいのではないかと思います。イエスに出会った病人や障害者たちは、自分たちの汚れとか罪とかを気にもかけずに自分たちのためにすべてを投げ出して下さるイエスの姿を、ものすごい感謝と喜びと共に感じたに違いないと思います。

イエスの癒しという行為は神の国の到来のしるしだという言い方がされます。しかしイエスは神の国の到来を人々に証明するために病人を癒したとは言えないと思います。イエスはほとんどの場合、病人を探し出して癒そうとはしていませんし、癒したことを他の人に語ることを度々厳しく禁じています。イエスの癒しは、たまたま出会った病人の苦しみに心を動かされて、やむにやまれずに行ったというふうに見たほうが自然ではないでしょうか。イエスにとってはどんな病人も神から愛されたかけがえのない人間であって、そうであるならば、この目の前の人間の苦しみを黙って見過ごすことはできない。そういうところからイエスは関わっていって、そこから癒しが生まれていく。そんなふうに思います。そしてイエスと病人との出会い、そこで起こる事、それがそのまま神の国の現実だと言ってもいいのではないかと思います。

イエスは決してあきらめません。イエスは神様の力と、その人の可能性を信じ続けます。このイエスの信頼がイエスに出会った人々にも伝わっていき、病人はそのイエスとの出会いによって信頼と希望を取り戻し、そこから立ち上がっていったのだと言えるのではないでしょうか。つまり病人や障害を持った人たちはイエスとの出会いによって、絶望から希望へ、あきらめから信頼へと、内側から変えられていって、そして彼の生きている現実のすべてが変わり始めたのではないかと思います。
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