バッハのヨハネ受難曲を歌う

         最高の祝祭への参加の呼びかけ

                                                                  野口幹夫



主の受難の聖週間が近づきました。

ヨハン・セバスチャン・バッハは、聖トマス教会の音楽監督の在任中、聖金曜日のために受難曲を作りました。いま残っているのはヨハネとマタイです。バッハはヨハネを先に作りました。聖書に挟む自由詩もみずから書くか選ぶかしましたし、一回の公演後も終生これに手を加え続けました。それに比べるとマタイは、ピカンダーという作家に編集を任せ、ヨハネのようには手を入れませんでした。今日音楽として、有名なのはマタイ受難曲のようですですが、バッハが愛したのはヨハネの方だったように思います。それには理由があるように思えます。

1、イエス・キリストの受難の真相

 

 イエスが30歳にして、忽然としてユダヤの地に現れた。祭司でもなく、聖書学者でもなく、敬虔な信仰のパリサイ派でもない、当時のユダヤ社会に中では、いうなれば「ただのひと」のイエスが、救いの福音を述べ、人々を癒しはじめた。

その福音は、これまで聞いたことがないようなもので、貧しい社会の底辺の人々の心にうったえた。そのこころを癒し、また病気の人も次々と治るさまは、まるで奇跡のようであった。瞬く間に、彼の人気と噂はガリラヤ湖周辺から、遠く首都のイエルサレムまで広まった。 実際に目にし、耳で聞いた人々は、どこまでも彼に従い、彼が歩くところ数千人の人が群れると言った状況になった。

しかしそれが一瞬の走馬燈の出来事であったかのように、彼は突然処刑された。何故だったのか、そもそも彼は何者だったのか。どのような意味を持っていたのか、当時は全く分からなかった。

 しかし処刑後、あのイエスは甦られ、生きておられると言う噂がひろまった。イエスが教えたとおりに共同の生活をする人々は、貧しいけれど清らかで互いに笑顔で愛し合い、助け合う姿が美しくみえ、それに加わる仲間は増え続けた。

やがてその集団がイエスを知らない人々にも、かれのことを神の子として伝えはじめた。当然その受難についても様々な解釈が語られ、伝えられるようになった。

 マルコ・ルカ・マタイの福音書は、このドラマの意味が、少しずつ分かりかけた頃に書かれた。本当のことが分かるには、もう少し時間がかかる頃だった。

 新約聖書の初めにあるマタイ、マルコ、ルカ3つの福音書が伝える受難の物語は、基本的にマルコから引用されているので、同じである。この3つは共観福音書と呼ばれている。普通はこれらをまず読むので、キリスト教徒であろうとなかろうと、殆どの人々の頭にイエスの受難はこのようであったと頭に描くのは、この共観福音書の、とくに代表とされる「マタイによる受難の物語」なのである。

「ヨハネによる福音書」はそれから10年も20年も経って書かれた。この福音書は始めから、これまでの福音書とは違っていた。書いたとされているヨハネはだれであるかはわからない。しかし長い間の言い伝えでは、イエスが生前一番可愛がっておられた少年ヨハネが年老いてから書いたと伝えられてきた。まるで、少年の目から見ていたイエスのことを、今書き残さないと違ったイエス像が残ると懸念したかのようだ。

ヨハネ福音書が書かれた2世紀の始め頃、イエスの教えの福音としての意味が、やっとイエスの教え通りに理解されたのだ。ヨハネ福音書の意味はまさにそこにある。

しかしその歴史的な違いを、気にする人は少ない。四福音書は全て矛盾もないし、神の導きによって書かれた真理と聞かされていたからである。

バッハはこの2つの受難物語の深い違いを見抜いていた。その2つの受難曲を理解するためには、まずこの2つの受難物語の違いを詳しく掘り下げるなければならない。

2,二つの受難物語

 マタイ福音書が書かれた時代はキリスト教もまだ未成熟であった。その受難物語には、多くの矛盾があることが読むうちに気が付く。それがイエス理解の本質にも絡む重要な矛盾である。その疑問は、ヨハネ福音書と比較して読むことによって、ようやく納得できる真相が明らかになるのである。 

 まず一番の問題はイエスがなぜ処刑されたのかである。

マタイ共観福音書では、祭司達にそそのかされたユダヤ民衆が、一夜でイエスに反逆し、彼を処刑せよとの声を挙げたために、その圧力で処刑されたことになっている。

(特にマタイの福音書は「その責任はユダヤ民族の子孫にまで責任が及んでもよい。」との罪深い一句を書き加えさえした。これはマタイがユダヤ民衆の総意であったように強調したかっただけなのだが、この一句こそ2000年に渡るヨーロッパのユダヤ人迫害の、隠れた裏根拠になったのである。これがなければナチスのホロコーストも、今日のパレスチナ問題も起きなかったかも知れないのである。)

 さてマタイによれば、まず弟子に裏切られ、熱狂的に支持していた民衆にも背かれた哀れなイエスは、もはや逃れようがない。全ては聖書に書かれた預言の実現のために、飲みたくない苦杯を飲むと言うことになっていく。 敵に渡される前に日には、血の汗を流して苦しみ、父なる神に出来ればやめてくれと祈る。そんな苦しみをよそに弟子達はのんきに寝てしまうというような孤立無援のイエスがえがかれる。 十字架上のイエスは、苦しい息の下で「神よ、なぜ私を捨てるのか。」と痛切な言葉を残す。徹底的に弱いイエスである。遠藤周作が好むイエス像である。

 共観福音書における受難のこのような描写は、神の子として、福音を述べ伝え、癒しを民に与えた前半のイエスと、受難の部分では性格が一致していないと思える。イエスにとって、旧約の預言が実現するためにしなければならないといった硬直した、 逃れることの出来ぬ恐ろしい義務を遂行する人でであり、イエスは被害者であった。

その見方に立つかぎり、我々はその処刑をイエスと共に悲しむほかない。さらにそれは人間の罪のために起き、それをあがなうためのことであったと意味づけたパウロによって、罪深い我々も心から詫びるしかない。

 30年後に書かれたヨハネ福音書の受難劇では様相が全く違う。

まず民衆の離反はないのだ。イエスを殺さないと、我々の立場が脅かされると恐れた一握りの祭司層が行った秘密の陰謀によって、全ては進んだと描いている。「人々は」とあるが、それは祭司長たちとファリサイ派の人達とその下役、それに従うローマ兵士であると明記している。決してユダヤの民衆とは書いていない。

これが真相であろう。権力を握ってはいたが、少数派であった彼らが怖れていたのは、民衆の反抗であった。民衆は、イエスが1週間前にエルサレムに入場したとき、歓呼の声を挙げたのである。イエスを逮捕したときに予想される民衆の反抗騒ぎを怖れ、民衆の気付かぬ間に、一夜で処置してしまう計画を立てた。

しかし死刑の権限はユダヤ祭司にはない。ローマ総督ピラトに宣告させねばならない。巻き込まれたピラトは良い迷惑であった。ユダヤ祭司たちの意図が理解できないので、ぐずぐずするピラト。彼が一番怖れるのは本国のローマ皇帝だ。祭司たちはその弱みにつけ込んで、ユダヤの王と僭称したイエスを殺さないとローマへの、反逆罪になるぞと脅し、早朝2時間での決断を迫った。 時間がかかれば、かぎつけた民衆が騒ぎ立てると感じていたためだ。このあたりの緊迫はヨハネが良く伝えている。

マタイが書くように、民衆の支持が一夜でひっくり返るというのはありそうにないことだ。それはイエスの教えが、それくらいに上っ滑りであったと告白するようなものである。

ヨハネのイエスはこの受難の過程で終始堂々とし、祭司たちもピラトも逆に裁かれている。

イエスを神の子主と仰ぐキリスト教の神学が、ここに確立したことを見て取ることができる。

付記すれば、カトリックの復活徹夜祭で読まれる受難の物語は、常にヨハネ福音書であることも、それをものがたっている。

 

3、バッハの二つの受難曲を作る姿勢

 同じ事件について、このように基本的な見方が違ったシナリオが描かれた場合、それにつける劇音楽は、その違いに気にしないふりをして、同じような音楽とするか、違った事件のように取り扱うか、興味あることだ。バッハの時代は、調和福音書という4つの福音書をまとめたものがでたように、元来イエスを伝える記事は一つであるべきだと考えられていた時代だ。

しかしバッハは、この違いを深く理解し、むしろその違いをその通りに音楽に表現した。それは勇気のいることだった。

バッハは、マタイ受難曲を作るに当たっては、マタイの理解のままに音楽をつくった。

すなわち、ことの本質が分からぬままに、悲しむ民衆の目で眺めた ピカンダーの詩がふさわしいと考え、それに音楽を付けた。  我々の罪のために殺されたイエスを悲しむのである。悲しい音楽は感情に訴えやすい。自責の念に絡む悲しみはなおのことだ。マタイ受難曲が名作とされるのは、この深い悲しみの表現にあるのだろう。

しかしそれはイエス・キリストの受難の本質をついてはいない。(例の「その責任はユダヤ民族の子孫にまで責任が及んでもよい。」との罪深い一句につけた音楽は、もっとも難解で、正確に歌うのは難しい。聞いても騒乱状況で言葉は聞き取れないようにしてあるのが、バッハの意味深長な配慮かもしれない。)

 ヨハネは最初から、イエスは神ロゴスの受肉であり、正しくメッセージを残し、民衆に受け入れられたとする。光を理解しない闇である祭司支配層の陰謀が起き、彼の読み通り、受難となり、これによって神の啓示は完成したと考えている。ヨハネのイエスは、裁判でピラトにも、祭司長にも堂々と意味深く対応した。十字架上でも「ことは成し遂げられた」と言って終わった。当然のように愚痴はない。

 受難は悲劇ではなく、神の救いの業の重要な結び目なのである。だからヨハネ福音書の受難の部分は、イエスの全ての物語の集大成として現れるのである。

 バッハは、ヨハネ福音書を深いところで理解していたので、ピカンダーなど他人に詩を頼まなかった。全て自分で選定した。39歳でこれと取り組み、亡くなる前年まで15年間、終生手を入れ続けた。そのような曲は他にない。

2度目の修正では、冒頭の曲として別なものを作った。しかしそれは歌詞としてもヨハネにふさわしいものではなく、歌って感動するものではない。それは結局マタイ受難曲に移し替えて第1部の終曲にもっていった。誰が見てもオリジナルの最初の曲の方が神秘に満ちてすばらしい。ヨハネ受難曲はその冒頭から、そして終曲まで、神秘の喜びに満ちあふれているのだ。私はこれを、人類にいただいた「最高の祝祭へ参加しよう」との呼びかけの音楽だと言いたい。