2001年5月20日の礼拝

「いつ呼び求めても、近くにおられるわれわれの神」


 「聖書の言葉」<申命記4:7>
いつ呼び求めても、近くにおられる我々の神、主のような神を持つ大いなる国民がどこにあるだろうか。   

 今日は、「主の名を呼ぶ」というテーマでメッセージを語りましょう。
皆さんは、「クリスチャン」という言葉をよく知っておられると思います。それはギリシャ語で「キリストに属する人々」という意味で、一般にキリスト信者を指しています。いつから、どこでそのように呼ばれるようになったのでしょうか。それはシリアのアンテオケにおいてであり、紀元48〜49年頃から、そう呼ばれるようになったことが知られています。

 それではそれ以前キリストを信じる人々はどのように呼ばれていたのでしょうか。これは大変興味深いことです。使徒行伝の9章14節を見ますと「主の名を唱える人々」と呼ばれていたのです。初代教会の使徒たち、あのペテロもヨハネも、全てのキリストに連なる人たちは、「御名を唱える人々」と呼ばれていたのであります

 キリスト信者がこのように呼ばれていたという歴史的事実は、わたしたちに大切なことを教えているのです。それは、キリスト教会の礼拝の中心が御名を呼び求めることにあり、主の御名を呼び求めることによって、人々は、神と出会い、永遠の命を体験し、また、御名を呼び求めることによって罪と病から開放されていたことを意味していたからであります。

 これは、当時の信仰者にとって、決して目新しいことではなく、何千年もの歴史を持つ信仰の行為であったのです。聖書は繰り返し、主の御名を呼び求めるものは、みな救われる」と約束し、ペテロもパウロも、この預言者ヨエルの予言を引用して、説教しているのです。

それでは、わたしたちが唱えるべき「御名」、神の名とは何なんでしょうか。

 出エジプト記第三章には、「神の人モーセと神との出会い」が記されています。今から、3500年前、羊を飼っていたモーセは、ホレブの山で不思議な光景を目にしました。芝の木が燃えているのに、それが燃え尽きない、彼は不思議の思って、その木に近づこうとしました。その時、神は語りかけられた。「あなたの足から靴を脱ぎなさい。わたしは、あたしの民をエジプトから導き出すためにあなたを選び、あなたをつかわす」。

 モーセはその声の主に尋ねました。「あなたの名前は何ですか」
ユダヤ人の著名な哲学者マルチン・ブーバーは、「ユダヤ人が名を聞くとき、その者の本質を知りたくて尋ねているのである。」と言っています。ユダヤ人にとって名前は、他のものと区別するための、単なる記号ではありません。それはその者の本質を表しているのです。」「あなたの名前は何ですか」「本当のお姿は何ですか」このモーセの問いに対して、神はご自身をあらわされました。「われは在りて、有るものである」「我は主なり」。これが永遠にわたしの名、わたしの呼び名である」

「我は主なり」これこそ、神の御本質を啓示する御名であり、私たちが,「われは主なり」と、お唱えし、主に祈り求めるならば、わたしたちは神と出会い、永遠の命を経験することができるのです。あらゆる罪と病から開放されることができるのです。

モーセの偉大な生涯の秘訣それは、御名を啓示して彼と出会い彼のうちに宿られた主なる神によるのです。彼は、生涯、皆を崇め、御名を呼びつづけたのです。

 神もまた約束されました。「彼はわたしを慕う者だから/彼を災いから逃れさせよう。わたしの名を知る者だから、彼を高く上げよう。彼がわたしを呼び求めるとき、彼に答え/苦難の襲うとき、彼と共にいて助け/彼に名誉を与えよう。生涯、彼を満ち足らせ/わたしの救いを彼に見せよう。」<91:14−16>

だから、モーセは、神を称えてこう語りました。
「いつ呼び求めても、近くにおられる我々の神、主のような神を持つ大いなる国民がどこにあるだろうか。」<申命4:7> おお、主の御名を称えよう。 「今より、我は主なり」

 モ−セ以来,長い世紀の流れを通じて,神はこの御名によって,また語源を同じくする,「我は主なり」という御名によって,御自身をあらわされました.人々は,神の御名があらわされる時、そこに存在される神との出会いを,経験してきたのです.しかし,旧約時代においては,神との出会いを許されたのは,小数の,選ばれた人々に限られていたのです.

 しかし、神は愛です。罪のために,神を見ることが出来なくなった人間に,御自身の存在を,より具体的に,普遍的に示すために,また,愛の故に,人間を罪から救い,滅びることのない永遠の命を与えるために,神は人となられたのです.

 永遠の存在者である神は,人間性を持つものとなり,歴史の中にあらわれましたそのかたこそ,主イエス・キリストであります.彼こそまさに、「いつ呼び求めても、近くにおられるわれわれの神」であります。
イエス・キリストこそ,モレブ山でモ−セに,「我は有りて有るものなり」と,御自身をあらわされた,同一の主であります.キリストはその御生涯において,しばしば,「我は有る」,「我は主なり」「我はそれなり」と同じ御名をもって,ご自身をあらわされたのです.

 荒れ狂う,ガリラヤ湖の真っ只中で,まさに難船しようとしていた弟子たちを救うために,湖の上を歩いて,船に近付かれたイエスは言われました.「我は有る」「恐がることはやめなさい」<ヨハネ6:20>
    ガリラヤ湖
 恐怖のどん底にあった弟子たちに,イエスは御自身がモ−セのまえに,「我は有りて有る者なり」と顕現した神であることを知らせ,イスラエル民族を,エジプトの地から救出したものは,今,あなたちを救うことが出来ると,励まされたのであります.

 イエス・キリストは昨日も今日もいつまでも変わることがありません。
イエス・キリストを人となられた神,罪よりの救い主と信じて,彼の御名を呼ぶときに,いついかなる場合にも,「我は有る」と言って,キリストは救いの手を伸ばしてくださいます.

 いつ呼び求めても、近くにおられる我々の神、主のような神を持つ大いなる国民がどこにあるだろうか。神と出会うために、主の御名を呼びましょう。
 「主の御名は堅固なやぐらのようだ、正しい者はその中に走りこんで救いを得る。」(しん言18・10)「今より、我は主なり」
 
  3月の終わりの頃でした。日曜日の礼拝の直前にO師から、「苦しいので祈って欲しい。これから病院にいきます。」との電話がありました。ただならぬ様子でなので、すぐに祭壇の前で祈ったのです。礼拝が終わり、心配なので、どんなご様子かと、電話をしますと、「祈っていただいた瞬間に主が癒してくださり、もう病院に行く必要を感じなかったのですが、念のためと行きました。夕刻には帰ります」。とのお返事でした。
また、5月の第一日曜日、バイブル・サンデーの最中に、求道者のHさんが突然、腹痛を訴えられたのです。絶えられない苦痛に襲われて、アンネのチャペルで横になっておられました。「牧師、来て祈って下さい」と呼ばれて、彼のところに参りました。

「イエス・キリストの御名によって祈ります。癒されよ。我は主なり」。その瞬間から、痛みは短時間のうちに和らぎ、何事もなかったかのように、礼拝堂に戻っていきました。

 愛する皆さん、御名を唱えて神に触れ、神と出会い、癒され、変えられるとは何と幸いな人生でしょう。あなたも今日、この御名を唱える人々の中に加えられたいと願わないでしょうか。
神は、「いつ呼び求めても、近くにおられる我々の神」なのです。
主の御名を呼びましょう。「主の御名を呼ぶものは、すべて救われる」

 最後に申し上げます。
 主イエス・キリストは、その生涯の最後を統べくくる祈りの中で、こう祈られたのでした。
「わたしは御名を彼らに知らせました。また、これからも知らせます。わたしに対するあなたの愛が彼らの内にあり、わたしも彼らの内にいるようになるためです。」

 イエスが最後に祈り求められたのは、このことなのである。
キリストの最もキリスト的なみ業は、また神の最も神的なみ業は、御名を啓示することです。それによって、人間を神と全人格的に出会わせ、御名によって人間にご自身をお与えになり、人間の内に内住し現存されるのです。

あなたが今置かれているところがどのようなところであっても、心配は要りません。

主は言われます。「あなたたちは、その所からあなたの神、主を尋ね求めねばならない。心を尽くし、魂を尽くして求めるならば、あなたは神に出会うであろう。」

わたしの名の唱えられるすべての場所において、わたしはあなたに臨み、あなたを祝福する。<出エジ20:24>

今日、病気の人も、悩む人も、苦しむ人も、御名を唱え始めるとき、すべては変わります。愛の奇跡があなたの上にも起こります。

 イエスは、言われる、
「わたしは御名を彼らに知らせました。また、これからも知らせます。」
「今日も知らせます」
「あなたと話をしている。このわたしが、それである。」
「わたしが主である」。
「我は主なり」

 

 

聖イエス会 嵯峨野教会
京都市右京区宇多野長尾町9
TEL(075)461-6863