はしがき

 

 本書は、1999年、一橋大学大学院法学研究科に学位論文として提出し、大阪経済法科大学法学論集474954号に掲載した、「刑事裁判における証明基準の研究──『合理的な疑い』の機能的検討」に加筆、修正を施したものである。

 刑事裁判における事実認定の研究、とりわけ証拠評価方法に関する研究の進展は著しい。しかし、証明基準である「合理的疑いを超えた証明」の意義については、この言葉が有名なわりには、十分に検討がなされていないように思われる。個々の裁判例における証明基準の「あてはめ」の当否が俎上にのせられることは多いが、大前提たる証明基準の意義については、抽象的な定義の提示に留まっているのである。事実認定における訴訟関係者のコミュニケーションをより豊かなものにし、事実認定を適正なものとするためには、「合理的疑いを超えた証明」の意義を具体的に明らかにする必要があるのではないか。本書は、このような問題意識に基づき、「合理的疑いを超えた証明」というフレーズが果たしている機能、果たすべき機能、果たすべき機能を阻害しないシステムについて検討したものである。

 刑事裁判における事実認定研究には膨大な蓄積がある。本書がこれらの先行研究にどれだけのものを付け加えることができたのか、はなはだ心もとないが、強いていうならば、本研究の特色として次の2点が挙げられると思う。

 第1に、裁判官が具体的事件において行う証拠評価自体の当否ではなく、証拠評価をめぐるシステムを検討対象にしていることである。日本における刑事裁判の事実認定に関しては様々な評価がなされ、その当否をめぐり華々しい議論が展開されているが、その議論状況をみると、多分に水かけ論に陥っているようにも思われる。その原因は、それぞれの主張の根拠につき、検証可能性が不十分な点にあるのではないか。本書は、そのような幣に陥らないよう、研究対象と研究方法を吟味したのである。

 第2に、直接主義、口頭主義、当事者主義、職権主義、事後審論といった、事実認定に関する研究では不可欠といってもよい、訴訟の構造に関わる概念装置を使用していないことである。訴訟の構造がどのようなものであるかに応じて証明基準の意義が変わってはおかしい。むしろ、証明基準の本来の意義を明らかにすることによって、あるべき訴訟の構造を再検討する必要があるのではなかろうか。そのような思いがあったのである。現在、司法制度改革が進められており、刑事手続きにおいても、今後大規模な変化が生じることになると思われる。これまで当然のように使用されてきた様々な道具概念の意義が改めて問われていくことになるだろう。このような時代における研究として、前述のようなアプローチも無意味ではないと考えた。なお、現在進められている司法制度改革の中には、いわゆる裁判員制度の導入など、本研究と直接・間接に関わるものも含まれている。そこで、これらの動向についても論じなければならないが、基礎的研究という本書の性格に鑑み、本書中では触れず、別稿に譲ることにした。

 本研究は、以上のような方法論に基づいている。もとより、合理的疑いを超えた証明の意義を明らかにするという前述の研究目的がこの研究により十分に果たされたとは言い難いが、各方面からの批判を仰ぎ、今後の研究に活かしたいと考え、本書を公刊することにした。

 このような拙い研究ではあるが、まがりなりにもここまで形にすることができたのは、多くの方々のご支援によるものである。特に、大学院生時代、刑事法研究に関して直接指導いただいた、後藤昭、橋本正博、福田雅章、村井敏邦の各先生には、心から御礼申し上げる。

 また、「あるがままの私」を受け容れ、のびのびと私が生きるのを許してくれる人たち、とりわけ、大阪経済法科大学の構成メンバー諸氏、両親の中川孝造、中川治美、そしてパートナーの佐智美に感謝する。

 本書の公刊にあたり、平成14年度科学研究費補助金(研究成果公開促進費)の交付を得た。一橋大学大学院生の緑大輔氏には校正を手伝っていただいた。最後に、出版をオファーしてくださり、かつ、何かとわがままな私に根気強くつきあってくださった現代人文社の桑山亜也氏、および同社社長の成澤壽信氏に深く感謝する。

 

200210月 日 中川 孝博

 

 

 

『合理的疑いを超えた証明──刑事裁判における証明基準の機能』 目次

 

 

はじめに

 

第1章 日本における事実認定審査の現状

 第1節 検討の方法

   1 証明基準を検討する視点

   2 最高裁による証明基準の定義

   3 検討方法と対象裁判例

 第2節 最高裁有罪判決破棄・無罪判決維持事例

   1 原判決に叙述がない事情の指摘

   2 原審が疑いを解消した過程に対する批判

    (1) 原判決の叙述に対する具体的批判

    (2) 原判決の証拠評価を直接具体的に批判しない場合の叙述

   3 小括

 第3節 最高裁無罪判決破棄・有罪判決維持事例

   1 原判決に叙述がない事情の指摘

   2 原審が提示した疑いに対する批判

    (1) 原判決の叙述に対する具体的批判

    (2) 原判決の証拠評価を直接具体的に批判しない場合の叙述

   3 小括

 第4節 控訴審の裁判例

   1 原判決に叙述がない事情の指摘

   2 原審が疑いを解消した過程・原審が提示した疑いに対する批判

    (1) 原判決の叙述に対する具体的批判

    (2) 原判決の証拠評価を直接具体的に批判しない場合の叙述

   3 小括

 第5節 1審で確定した無罪事例

   1 反対仮説の検討

    (1) 被害者供述の信用性

    (2) 自白の信用性

    (3) 一部否認事件

   2 「合理的疑い/説明」に対する姿勢

    (1) 「一般的疑い」に対する姿勢

    (2) 「一般的説明」に対する姿勢

    (3) 捜査、検察側の立証に対する帰責

   3 小括

 第6節 日本の裁判例検討総括

   1 本章のまとめ

   2 従来の認識・評価との関連

    (1) 最高裁は無罪判決破棄に慎重か

    (2) なぜ無罪判決理由のほうが詳細になるのか

    (3) アナザーストーリーを裁判官は要求しているのか

    (4) 「適正な事実認定」と判決理由

 

第2章 ドイツにおける事実認定審査の現状

 第1節 検討の視点

 第2節 上告審による事実認定審査手続の概要

   1 上告理由

   2 上告趣意

    (1) 実体的瑕疵

    (2) 手続的瑕疵

   3 小括

 第3節 あとづけ可能性による事実認定審査

   1 上告審によるあとづけ可能性審査の採用

   2 あとづけられないとされた有罪判決破棄事例

    (1) 事例分類の方法

    (2) 経験則、論理則違反があるとして破棄された事例

    (3) 単なる推測にすぎないとして破棄された事例

    (4) 証拠を余すところなく評価していないとして破棄された事例

   3 あとづけられないとされた無罪判決破棄事例

    (1) 批判が具体的な場合

    (2) 批判が抽象的な場合

   4 小括

 第4節 心証概念による事実認定審査

   1 ライヒ裁判所の心証概念審査

    (1) 確信に至らなかったことを示す表現

    (2) 具体的事情との関連

   2 連邦通常裁判所の心証概念審査

    (1) 「合理的疑い」、「個人の疑い」基準による審査

    (2) あとづけ可能性審査への包摂

    (3) 間主観説と「上告審の判断の優越」

 第5節 ドイツの裁判例検討総括

   1 本章のまとめ

   2 日本に対する示唆

    (1) 「適正な事実認定」とあとづけ可能性審査

    (2) 「合理的疑い」とあとづけ可能性審査

 

第3章 英米において「合理的疑い」基準が果たしている機能

 第1節 検討の視点

 第2節 アメリカ陪審裁判における証明基準の定義をめぐる動向

   1 「合理的疑いを超えた証明」に関する説示のパターン

    (1) 説示のパターン

    (2) 合憲性判断のアプローチ

   2 「合理的疑いを超えた証明」の説明

    (1) moral certaintyの歴史的意味

    (2) moral certaintyという言葉が現代の陪審に与える影響

    (3) moral certaintyに代わる説明

   3 「合理的疑い」の説明

    (1) 疑いの「程度」を示す表現

    (2) 根拠の説明可能性

   4 小括

 第3節 「合理的疑い」と全員一致評決制

   1 「合理的疑い」と評決制に関する従来の議論

   2 イングランド・ウェールズにおける多数決評決制の導入経過

    (1) 内務大臣の法案趣旨説明

    (2) 審議

   3 Johnson事件判決

    (1) Johnson事件判決以前の判例

    (2) Apodaca事件判決

    (3) Johnson事件判決とその意義

   4 評決制の果たす機能

    (1) イングランド・ウェールズにおける多数決評決制の効果

    (2) 実証研究

   5 Johnson事件判決以後の連邦最高裁判例

   6 近年の議論

 第4節 英米における証明基準の機能検討総括

   1 本章のまとめ

   2 日本に対する示唆

    (1) 合理的疑いの相対性

    (2) 評議の充実

 

第4章 「合理的疑い」をめぐる諸問題の検討

 第1節 前章までのまとめ

 第2節 心証概念としての「合理的疑い」の定義

   1 象徴としての「合理的疑い」

   2 機能的定義

    (1) 心証状態からの定義

    (2) 他の証明基準との区別

    (3) 具体的な疑い

    (4) 上訴審との関係

    (5) 説明可能な疑い

    (6) 心証形成プロセスの規制

    (7) 合理的疑いの定義に必要なもの

 第3節 評決制

   1 全員一致による有罪判決を要求すべきか

    (1) 現行法の規定

    (2) 少数者の疑いは不合理な疑いか

    (3) 合議体の意思は個人の人格を捨象してできるものか

    (4) moral certaintyの要請

    (5) 多数決評決制は合理的疑いの程度を高める

    (6) 多数決評決制は評議の充実を阻害する

   2 有罪につき全員一致とならなかった場合,裁判所はどう行動すべきか

    (1) シンメトリー・ルール

    (2) メーアーの評決不能廃止論

    (3) 結論

 第4節 事実問題に関する控訴理由と判決理由

   1 心証形成過程を審査する場──理由不備、理由齟齬

    (1) あとづけ可能性審査

    (2) 理由不備・齟齬

   2 判決理由の法的位置づけ

    (1) 判決理由の意義

    (2) 有罪判決の理由

    (3) 無罪判決の理由

    (4) あとづけ可能性審査の方法

   3 心証を優越させる場──事実誤認

    (1) 事実誤認に関するこれまでのアプローチ

    (2) 心証の優越が許される根拠

    (3) 合理的疑いを超えた証明と事実誤認

 第5節 日本における「合理的疑い」の検討総括

 

むすびにかえて