思わず耳を覆いたくなるような轟音が響き渡る中、一人の青年だけが他の人々には染まらず身じろいだだけだった。
飛行機の離発着時の轟音は普通ならば耐え難い騒音のはずなのだが、青年にはそれが全く耳に届かないのか、ごく平然とその場に佇んでいる。
白い布に一滴の黒液を滴らせたかのようなその光景。
青年はその場にそぐわない異質さを、一瞬で際だたせていた。
青年の傍らに立つ壮年の男は耳を押さえ至極迷惑そうに顔を顰めていたが、ここまで一緒に来た青年が涼しい顔をして佇んでいるのを見て、怪訝に眉を引き上げた。
自分が現在どんな感情を周囲に芽生えさせているのか知らぬげに、青年は感情の宿らぬ人形めいたその顔をゆっくり上げた。
俯き加減だったその容貌が、陽の光のなか露わになる。
青年はどうやら東洋人らしかった。らしいと表現したのは、いわゆる東洋人の標準体型からすれば青年の肢体はそれから大いに逸脱しているものだったからである。
細身でありながらもその背はかなり高く、手足も自然な感じにすらっと伸びている。いわゆるモデル体型というもので、全体のバランスがかなり良く、東洋人にありがちなアンバランスさが全く感じられなかった。そして東洋人にしてはその肌の色は抜けるように白く、象牙に象徴されるような柔らかい白さを持っていた。
その容貌は端麗という言葉の相応しい眉目秀麗なものだったが、感情という色が削ぎ落とされてしまっていて冷淡な印象に彩られている。そのため精巧なビスクドールのような作り物めいた雰囲気を漂わせていた。
少々長すぎる前髪が風に煽られて翻り、その間からやはり感情の宿らぬ黒曜石の瞳が覗く。その黒曜石の双眸が捉えたのは、これから青年が向かう戦地へ向けて唯一運行されている輸送機だった。それはUNマークをつけた国連機であり、地球と青年がこれから向かう戦地、フェアリィ星とを結ぶ超空間の<通路>を往復するシャトル機だった。
これから自分を未知の世界へ連れて行く輸送機を見つめる青年の双眸に、しかし何の感慨も浮かぶことはなかった。ただそこにそれがあると認識しただけに過ぎなかった。
慣れない轟音に身を竦ませていた人々が落ち着きを取り戻した頃、青年を含む一行は先頭を行く人間の指示に従いそのシャトル機へと向かう。直ぐ横にいる男に促され、目の前を歩む人間の後に付き従い青年も歩き始めた。
やがて目的のシャトル機が目前に迫る。それにあわせて列を成している人々の雰囲気がざわついたものへと変化していく。
それは仕方のないことだと、男は思った。
これから人々が向かうのは戦争という非日常的なことが当たり前の場所であり、命の保証など一切無い過酷な地なのである。そこへ旅立とうという今気持ちが落ち着かないのは当たり前だった。
隠しきれない動揺をそれでも必死に抑えようと努力している人々の流れが、徐々にシャトル機へと吸い込まれていく。なかには緊張のあまり足が動かなくなってしまう者もいたようだったが、その者はシャトル機に常駐している兵の手によって内部へと連れ込まれていったり、また場合によっては搭乗を辞退する者もいた。
それは、男にとってはいつもの光景だった。この地に来る度に目の前で繰り広げられるごく当たり前の風景。
地球に住む人々にとってその地を離れるのは実に耐え難く、母なる大地から切り離される精神的苦痛に負けてしまう者は後を絶たないのである。
事実、男が前回この地までエスコートしてきた人物は結局フェアリィ星まで行くことはなく、現在某国で収容所に収監されていた。伝え聞いた噂によれば、良い模範囚となっているという。
男がそんなことをつらつら考えている間に青年がシャトル機へ乗り込む順番がやってきていた。
青年はあくまでも表情を動かさず、ごく自然にタラップへ足をかける。その瞳に宿るのは限りない虚無であり、一切の感情はない。
他の者とは明らかに異なるその色の無さに、男は背筋を駆け抜ける悪寒に絶えきれず全身を震わせた。今まで無数のFAF志願者を見送ってきた男だったが、ここまで自分の処遇に対して無感動な人間を見たことはなかった。どんな凶悪犯罪を犯してきた人間にしろ、この場に立った瞬間には必ずといっていいほど何かしらの感慨を抱くはずなのである。
それが、この青年にはない。タラップを上り行く後ろ姿に躊躇いや戸惑いは一切見られなかった。
男は思わず目を瞠って青年を凝視してしまった。
端麗極まりない容貌ではあるけれども、それほど特異な様子をみせている訳でもない。この場にいる以上精神的に特に均衡を欠くという問題を抱えている訳でもないだろう。それなのに、青年は異質な存在だった。男には理解できない存在だった。
青年の姿がシャトル機に完全に吸い込まれたのを見届けた途端、男は無意識のうちに大きなため息をついていた。
シャトル機に乗り込んだ青年は指示されたとおりの席へと腰を下ろし、無感動な瞳で窓から望める光景を見つめた。
地球という生まれ育った大地から完全に切り離された異世界へと向かう時はすでに目前に迫っている。
青年の隣りに腰を下ろしている頑強な体躯の男ですらその目の潤みを隠しきれずにいるというのに、やはり青年の面には何の感慨も浮かんではいなかった。
何があればここまで虚無的になれるというのか。
青年はただ、そこに存在しているのみだった。
機内にアナウンスが流される。出発の時を知らせる淡々とした機長の声。
すぐにシャトル機が地球の引力から逃れるためのパワーを得ようと滑走に入り走り始めた。その途端、全身にずっしりと重力がかかる。大地との決別にはかなりのパワーが必要だった。
しばらくの滑走の後、飛び立つために必要なだけのパワーが十分蓄積されたシャトル機は、そのパワーのベクトルを自身の浮力へと変換し空へ舞い上がる。それは地球という名の大地との絆が引きちぎられる瞬間だった。
この時初めて窓外を捉えている黒曜石の瞳に微かに感情の色が窺えたが、それもほんの一瞬のことですぐにかき消えてしまった。
シャトル機は地球とフェアリィ星を結ぶ唯一の通路、超空間<通路>へ向かって大空を飛翔していく。
超空間<通路>。
それはある日突如として南極上空に現れたもので、一見したところ紡錘形をした雲のような集合体に見える。しかしその正体は現在の地球の科学では証明することのできない不思議な存在であり、その雲のような集合体の向こう側にフェアリィ星と名付けられた未知の惑星が存在している。
地球と良く似た大気組成を有しているその惑星上で、人類は現在、ジャムと呼ばれる未知の異種生命体と闘いを強いられていた。
いつ果てるともしれない闘いによって次々と人的資源が喪われていくことに業を煮やした人類は、いつからかその戦場に自分たちの社会にとって害悪にしかならない人間たち、いわゆる犯罪者たちを送り込むようになっていた。
今、<通路>を目指して飛んでいるシャトル機に収容されている人々の大部分がそんな犯罪者たちだった。
どんな犯罪を犯してきたのだろう、およそそういうものとは無縁に見える青年は、ただ黙然と窓外を見つめている。
そこにあるのはどこまでも広がる青と白の世界。人間という存在が入る余地のない自然界の光景だった。
再び機内にアナウンスが流れ、超空間<通路>へ突入するという報告が為される。
そのアナウンスが流れる少し前から、黒曜石の双眸は空間にそそり立つ真っ白い壁を認知していた。
その白い壁はそこにただあるだけだというのに、それ自身が異様な存在であることを主張するように、威圧的な雰囲気を醸し出している。一般的に霧柱と称されるこの壁は、その密度の濃さからいって雲の塊のようなものだった。
シャトル機は無感動にその塊へ突入していく。地球と未知の世界フェアリィ星とを繋ぐ空間への侵入は、たいした衝撃が来るわけでもなく、ごく淡々と終了した。
その侵入する一瞬、しかし青年は何とも言えない圧迫感を覚え、やや性急に瞬きを数回繰り返した。ちらり視線を横に流すと隣席の男はごく平然と座席に収まりかえっていた。視線をさらに周囲へと向けてみれば、他の人間も男同様特に何も感じていないらしく、あまり様子は変わっていなかった。それを認めた青年の眉間が微かに顰められた。
一度霧柱へ侵入したシャトル機は、今度はそこから脱出するべく再び塊へと飛び込んでいく。
青年は再度違和感を覚え、剣呑な光を讃えた黒曜石の眼差しを機内から窓外へと滑らせた。そして初めてそこで青年の表情が大きく動いた。
雲海に突入して脱出した。ただそれだけのことだったはずなのに、今目の前に広がる空は、人類の知っているそれとは明らかに異なるものだった。まさに異空間だ。
シャトル機内にどよめきが広がっていく。
隣席の男が身を乗り出すようにして窓を覗き込んできたことに、青年は注意を払わなかった。いや、注意を払う余裕など残されていなかった。
黒曜石の双眸が捉えているのは、やや上空を、シャトル機を睥睨するように悠々と飛翔していく戦闘機だった。その機体は、青年の知る限りどこの国のそれらとも異なるもので、この異空の空を飛ぶに相応しい一種異様な美しさを醸し出していた。
機体がみるみる遠ざかっていく。人の運搬に用いられる定期便でしかないシャトル機と戦闘機とでは、最初から飛んでいる速度が違っていた。
それはほんの束の間の邂逅に過ぎなかったが、その戦闘機の姿は青年の心にしっかり根を下ろしていた。
これより数年後、青年はこの時の戦闘機のパイロットとなる。
パーソナルネーム『雪風』。
それがその時この機につけられることになる名前だった。
END