天空に浮かぶ夜の女王がその加護を薄れさせつつある今宵。
それでも女王の威厳が薄れることはなく、遍く天空を支配していた。
下弦の月のもたらす光は普段のそれに比べれば限りなく弱かったが、それでも無数に散らばる星々にその座を譲ることなく、地上へ冷ややかな光を投げかけていた。
慈悲深き冷淡な女王が地上へもたらす恩恵はか細く、常人ならばあまりの暗さにその歩みを止めるであろう程度だったが、今宵地上を行く青年にはさしたる障害にはなり得ぬようで、青年は足許をとられることもなく歩んでいた。
何時の時代の、何処の文明のものとも知れぬ遺跡の中を、青年が一人、ゆっくりとした歩調で歩んでいる。
時々その場に立ち止まり、時の流れという浸食を受けて脆く朽ち果てている石壁をじっと見つめるのだが、如何せんこう灯りが足りなくてはそれを仔細に調べることなど出来るはずもなく、青年は自分の居場所を特定できずにいた。
そう、青年は迷っているのだ。
つい先程まで軽い微睡みのなかで漂っていたというのに、それは何の前触れもなく終焉を迎えたのだ。そしてそれまで緩く閉じていた目を開けてみたら、この遺跡の只中で佇む己の存在に気がついたのだった。
青年が今まで存在していた世界とは、まるで異なる理に支配されているであろう世界。
回避不可能な、理不尽としか言い様のない力に導かれて、青年は今この場所に在る。
だがしかし。
普通であれば恐怖し怯懦に心震わせるであろう事象に遭遇しながらも、青年の心は凪いだ湖面のように落ち着き払っていた。
心の奥底で何かが囁くのだ。
今この地に己が在るのは必然からなのだと。
だから。
青年は顔色ひとつ変えることなく、心の赴くままに足を運んでいた。
不意に、青年の歩みがぴたり止まった。
今までのように遺跡を調べるのでなく、ただその場に佇んだ。
休息をとるように、それはごく自然な動作だった。
満足な月灯りを望めぬ夜のなか、青年の顔はゆっくりと己の左斜め前方に凝る闇を静かに見据えると同時に、黒革に包まれた右手が、さりげない動作で腰に下げている愛剣の柄へとのばされていた。
青年の手が愛剣の柄に触れたと思った瞬間、それは神速の早業で抜き放たれ眼前に掲げられたと同時に、鋭い金属音が闇夜を震わせ、その場に火花を散らした。
想像以上の重い打ち込みに苦鳴を漏らしつつも、青年は暗闇より突然放たれた刃を防ぎきり、返す力でその場から後ろに飛び退き間合いをとる。
通常であれば飛び込むのに躊躇を覚えるであろう距離を、青年は咄嗟にとったはずだったのだが、奇襲者には歯牙にもかけないそれだったのだろう、すぐに次の攻撃がしかけられた。
目に捉えることのできない早さで繰り出される斬檄の数々を、青年は今までの経験で培ってきた経験のみでかわし続ける。ほんの少しでも判断を誤れば、一瞬に満たない僅かな時間でくだすそれが少しでも遅れれば、青年の身体は凶刃によって切り裂かれてしまうだろう。それほどに凄まじい剣風が、青年に襲いかかっていた。
二合、三合、四合・・・・・・。
刃と刃が交じりあう度、あまりの衝撃に火花が飛び散る。
火花が散る度、互いの姿がうっすら闇の中に浮かび上がり、青年は、自分に無言のまま襲いかかってきた相手の姿を朧気ながら知ることとなった。
人外の、獣のそれを思わせる翡翠の双眸が闇を透かす鋭い視線で、青年をじっと見据えていた。
刃のぶつかり合いで生じる火花に照らされて、互いの視線が絡み合う度毎に、背筋を這い上がる戦慄に青年は心が震えるのを感じていた。
心の奥底で何かが囁きかけるのだ。
目前に存在するモノは、戦うべき敵なのだと。
だが。
青年は一方的に押しつけられる感情を、是とはしなかった。
自分が戦うべき相手は自分で見極めるべきなのだと、口元をきゅっと引き締める。
何合目の切り結びだったのだろうか。
二つの刃は激しく交わりあった後、そのまま力の押し合いに切り替わっていた。
青年はかけられるだけの体重を刃に乗せて相手を圧倒しようと試みるが、如何せん切り結んでいる相手の方が体躯が良く、そう容易くは成し遂げられそうにない。青年は元来戦士にしては体格が華奢な方で、敏捷性と瞬発力を主体とした戦い方を得意としているのだ。それゆえ、こうした力比べには分が悪かった。
それでも青年がこの場で退くことなどありえるはずもなく。
青年は青灰色の双眸に闘志を滾らせ、至近で輝く翡翠の双眸を睨み据えた。
そんな青年の気概を感じ取ったのだろう、翡翠の眼差しが面白いといわんばかりの光を湛え、笑みの形に細められる。
「良い目をしている」
闇夜に放たれたその声音は、聞く者の魂を揺さぶらずにはおかない響きを宿していた。
あまりにも唐突な囁きに意表をつかれた青年の眼差しが微かに揺らぐ。
それを過たず認めた相手はふうっと闘気を静め、極あっさり刃を退いたのだった。
始まったときと同様、唐突に戦いは終わりを迎え、しんと静まりかえった夜気のなか、刃を鞘に収める音が響いた。
「名を、聞いておこう」
夜の闇を切り裂く様に放たれる声音は蠱惑に満ち、青年の心に波紋を呼ぶが、それでも青年はそれに抗し言葉を返す。
「人に名前を聞くのならば、まず最初に自分から名乗るのが筋だろう」
凛とした響きのそれに、相手が苦笑を浮かべたのが気配で判った。そしてそれがずいっと自分に近づくのを感じ、青年は反射的に半歩後退りかけ、その場に踏み留まった。
「私は、セフィロス」
人にはありえない輝きを宿した翡翠の主の、端麗な容貌がぽっとその場に浮かびあがった錯覚に青年は囚われ、無意識のうちに唇をきりっとひき結び、
「俺はスコール。スコール・レオンハートだ」
凛とした眼差しで魔性の双眸を見つめ返す。
両者の間に小気味よい緊張感が生じた。
それが楽しいのだろうセフィロスの口元に明らかな笑みが浮かべ、すうっと右手を差し出した。
「スコール。滅びの先にあるモノを、私と目指す気はないか?」
悪魔の囁きとはこういうものを言うのだろうかと、スコールは背筋を駆け抜けていくざわめきを意思の力でねじ伏せ、
「断る。滅びの先には・・・・・・。無があるのみだ」
魔性の誘惑を、一刀両断切って捨てる。
「面白いことを言う」
声音に含まれる真摯な響きに興味を惹かれ、セフィロスはそう言を重ねた。
「時間も思い出も、何もかもない世界など、決して求めてはいけないものだ」
スコールは言いながら、眼前に差し出されたその手をゆっくりとした動作で払いのけた。
それはセフィロスの言を決して入れぬという示威行為。
払われた己の手に視線を落としたセフィロスは、再度笑みを浮かべスコールを見つめた。
翡翠の双眸と青灰色の眼差しが暫時交じりあう。
それに呼応するように、再び闘気が高まり合っていったのだが、それが不意に止んだ。
セフィロスの視線が背後に注がれたのだ。
セフィロスが見つめた方角は、東。
昼の支配者たる太陽が姿を見せる方向。
「どうやら時間切れだな」
翡翠の視線に世界が白み始める予兆が見て取れた。
セフィロスと同じものを、スコールも肌で感じていた。
夜明けが、近い。
未だ明け切らぬ夜のなか、セフィロスは冷ややかな笑みを口元に湛え、目前に佇むスコールの顔をじっと見据える。
極上の獲物を前にした肉食獣のような鋭い視線に、スコールは戦慄を覚えた。
二人の視線が交わりあい、やがて逸れた。
ゆったりと仕草でくるり背を向けたセフィロスの背中で、銀糸の髪が揺れる。
「次に会う時を楽しみにしているぞ、スコール」
セフィロスの声がそう耳朶を打った瞬間、遙か稜線から差し込んだ曙光がスコールの視界を奪い去る。
反射的に目を瞑り、眩しさから立ち直って目を開けたときには、そこにはすでに誰の姿もなかった。
あまりにも鮮やかすぎる退場に、今の出来事は夢だったのかとスコールはちらと考えたが、現実にあったことなのだと、愛剣を握る手の汗が訴えかけていた。
ことさらにゆっくりとした動作で、愛剣を腰に戻す。そして深く大きく息を吸い込み、スコールは新たな一歩を踏み出した。
この先で誰かが待っているのだと、心のなかで何かが訴え続けている。
それを信じて、スコールは遺跡を後にする。
これから何が起ころうとも自分は自分の信じた道を進むだけだと、スコールは心のなかで誓うのだった。
END