〜 アンジェリーク 〜
宇宙を統べる尊い存在である女王に仕える九人の守護聖のなかでも年若い部類に入る鋼の守護聖ゼフェルは、背後をしきりに気にしながら大のお気に入りである森へと足を踏み入れた。
遙か遠くから自分の名を呼んでいる緑の守護聖マルセルの声が聞こえていたが、それを敢えて無視したままゼフェルは迷わず森の奥深くへと入り込んでいく。
マルセルに見つかったらどうせ『一緒にジュリアス様のところへ行こうよ』などと、今にも泣き出しそうな顔つきでいってくるに決まっているのだ。あの口うるさい“金ぴか野郎”と顔をあわせるのに飽き飽きしている自分のことを知っている癖に、執拗にそう誘うだろう相手の顔が想像できてしまい、ゼフェルは忌々しげに舌打ちした。
自分を呼ぶマルセルの声が完全に聞こえなくなった頃、ゼフェルはやっと歩調を緩めると、吐息とともに肩から力を抜いた。
マルセルの言い分が正しいことは自分でも重々承知しているのだが、それを素直に認められない。
こうやって一人きりになれば自分のどこに非があったのか判るというのに、皆と一緒にいると頭に血が昇ってしまって冷静に判断しきれない。
そんな自分に常々苛立ちもするのだが、それでもそんな自分を変えることができず、そのためゼフェルはよりいっそうその心を屈折させてしまうのだった。
“金ぴか野郎”の言い分だってそれが正論だと言うこともよく理解している。
常に冷静な判断のもとで下される数多の命令も理性では全部納得している。
でも、それでもゼフェルは理性で割り切れない、自分の感情とは相容れない判断に憤りを感じもし、恐れを抱きもしていた。
やがては自分もああやって自分の感情を閉じこめてしまうようになるのだろうか。
自分の感情を封印してしまったらそこには最早自分という個は存在せず、ただ鋼の守護聖がいるのみになってしまうのだろうか。
そしてこの地で宇宙の営みを長らく眺めているうちに自然と、人は、自分たちという存在はそうなってしまうものなのだろうか。
自分たち守護聖が実際にはどう思っていようが、他の人々にとっては自分たちは“守護聖”以外の何者でもなく、それを証明するかのように守護聖となった時点で生家との繋がりを示す姓は奪われる。
そう、守護聖には姓が存在しない。
守護聖を拝命した時点で、ただ守護聖という肩書きのみが自分を証立てる唯一のものと化すのである。
ゼフェルには、そんな守護聖の有り様が我慢ならなかった。
そんなことを守護聖に強いる世界の仕組みが嫌だった。
そしてそれは宇宙を統べる女王という貴い存在にも言えることなのだ。
抗いがたい掟によってこの地に縛りつけられ、人としての営みから切り離されてなお、通常人には想像のつけようがないくらいの長い間、かつては自分も属していたはずの世界を遙か高処から見守り続けなくてはならない。
同じ人であるはずの自分が、同じ人である多くの人々の生殺与奪件を無条件に与えられるのだ。これは神の視点を得たも同じことであり、人にしか過ぎない自分には荷の重いことだった。
それでも守護聖である以上、それを実行しなくてはならず、そしてそれが守護聖の存在意義なのだ。
そんな不自然な存在が、自分たちが、ゼフェルはたまらなく嫌だった。
この地のそこかしこに染みついてる閉塞感に、淀み続けている孤独感に、息がつまりそうだった。
誰よりも感受性が強く、ナイーブな一面を有するゼフェルは、しかし自分がそんな風に感じているということを周囲に示すようなことはなかった。
年長の守護聖たちのように上手く別の方向へその憤りを誘導する術を持たないゼフェルは、ただ自分が我慢できないような時、それを否定するような乱暴な言動をとるのだった。
慣れた足取りで森の奥深くへと入り込んでいくゼフェルの顔が段々と穏やかなものへと変わっていく。
鬱蒼とした森のあちらこちらには温かい生命の息吹が満ち溢れ、自分でも制御しきれない思いに刺々しくなっていった気分を和らげてくれる。
きつい光を宿していた紅玉の瞳に優しさが滲むようになる頃、ゼフェルはお気に入りの木陰へとたどり着いた。
周囲の木々に比べてそれは若い木なのだが、何故か他のどの木よりも優しく温かい波動を放っている感じがして、その木を見上げた途端、ゼフェルは嘆息した。
紅玉の瞳が優しく和む。
表情を和らげたゼフェルは周囲に誰もいないことを確認し、無造作にその木陰で寝ころんだ。
穏やかな日差しが木の葉の間から降り注ぎ、眠るのに心地よい柔らかな光を提供している。
森に足を踏み入れた時とは比べものにならないくらい優しい気分になったゼフェルは、明日にでもマルセルには謝ろうと心に誓った。それと口喧し屋の“金ぴか野郎”には、まあ気が向いたら会いに行こうかという気分にもなっていた。
刺々しくなった気分を宥めるのにこの森は適していて、ゼフェルはしばしばここへと足を運んでは気分を入れ替え、守護聖としての自分と何とか折り合いをつけていた。
森はいつも優しくゼフェルを受け入れてくれ、ゼフェルはそれをそっと甘受していた。
この森には、守護聖になることで自分が捨てなければならなかった何かがあるような気がして、心がくじけそうになるとこうして森にやってきては自分の心を懸命に守っていた。
木漏れ日が、目蓋を通して感じられる。
緑の香気をいっぱいに含んだ涼やかな風が吹き抜ける度に木漏れ日がゆらゆらと揺れる。
心地よい日溜まりのなかでゼフェルはいつしかうとうとと微睡み始め、やがて夢のなかへと滑りこんでいった。
健やかな生命に満ち溢れている森のなかを、漆黒の衣装を纏った人物がゆったりとした歩調で歩んでいた。
闇の守護聖クラヴィス、その人である。
身に纏うのは闇の守護聖としての正装ではなく、平服であった。
本来ならば平日である本日、とうに聖殿へと出仕し執務に励んでいなければならない時刻なのだが、クラヴィスはそれを気にした風もなく森を歩んでいた。
いつもならば、光の守護聖が未だに姿を見せない闇の守護聖に苛立ち、出仕をしろと使者をたてて探している頃合いだったが、今日はそんな幕劇もなく、長閑な日差しに相応しいゆったりとした時間をクラヴィスは過ごしていた。
今朝方夜明け近くまで“星見”をしていた関係上、闇の守護聖は本日の出仕を免除されていた。
“星見”。
それは卓越した占星術を有するクラヴィスに与えられた職務の一つである。
“星見”によって得られる情報は王立研究院が色々な観測結果からもたらす情報とよく相関しており、その情報は王立研究院のそれをよく補佐し得るものだったため、クラヴィスには定期的な“星見”が義務として与えられていた。
“星見”で得られる情報が有益であることを知りながら、それでも光の守護聖は苦い顔つきでクラヴィスを見つめ嘆息するのだった。もしかすると“星見”など本来闇の守護聖としての責務とはかけ離れたものだと思っているのかもしれなかった。
どれほどの間森を散策していたのだろう。
闇の守護聖は木陰で眠りに就いている鋼の守護聖を見つけた。
いつもきつい表情で周囲を威嚇している雰囲気のある少年だが、今は年相応のあどけない顔をしていた。
珍しいものを見たと言わんばかりにクラヴィスはそのすぐ近くまで歩み寄り、その寝顔を見下ろす。
唇から漏れる寝息は至極穏やかで、険のない顔が存外幼いことがよく判る。
ゼフェルが微睡んでいる木を見上げた黒水晶の双眸が優しく和んだ。
(この木は・・・)
鋼の守護聖がお気に入りの木。
それは前緑の守護聖が以前自ら植樹していた木に違いなかった。
過去を思い返すかのようにすっと目を眇めるクラヴィス。
その脳裏で前緑の守護聖の声が木霊する。
『いい木だろう?この木、ここが気に入ったらしいぞ。なあ、おまえさんも時々でいいから会いに来てやってくれよ』
自分の館だと土があわないと言ってここに勝手に植樹してしまったカティスは、手も足もそしてその顔すら土まみれにしながら、素晴らしく爽やかな笑みを浮かべてみせた。
クラヴィスの口許がふっと柔らかく解けた。
無言のままいつ果てるとしれない眠りを貪る少年の額に己の手を翳し、密かに『闇』の祝福を与える。
(おまえが心穏やかであるよう『闇』の安らぎを)
心のなかでそっと呟くと、クラヴィスは音をたてぬよう踵を返した。
この森は、闇の守護聖の館をとりまく森。
森に満ちる穏やかな空気は『闇』の安らぎそのままだった。
END