〜 アンジェリーク 〜
執務から離れることの許される日の曜日。
緑の守護聖マルセルは友達である小鳥のチュピとともに、森へ向かっていた。
「ねえ、チュピ。今日はとってもいいお天気だね」
肩に止まって呑気に毛繕いをしている小さな友人に話しかける姿は無邪気そのもので、それを見る者がいたら思わず笑みを誘われてしまいそうなくらい愛らしかった。
「これだったら、どこでだってお昼寝できそうだよね」
いつしかその歩みは、鼻歌交じりの軽いステップへと変わっている。
緑の守護聖マルセルは陽気な足取りで森へと足を運んでいった。
穏やかな気候が保たれている聖地のこと。
森は健やかな活気に満ち溢れ、生きるものすべてが伸びやかに過ごしていた。
森に住む顔見知りの動物たちに声をかけながら、マルセルは最近お気に入りの大木の元までやってくると、枝を大きく四方に広げた大木を嬉しげに見上げた。そしておもむろに周囲を見回して自分に注目している人がいないことを確認すると、するすると幹を登っていく。
緑の守護聖マルセルの楽しみのひとつに『木登り』がある。
こうして高い処から見下ろす聖地の美しい姿が大のお気に入りで、暇さえあればこうして適当な大木に登りその眺めを堪能しつつ、時々は穏やかな風に身をまかせ、葉ずれの音を子守歌にしながらしばらく昼寝をしたりもするのだった。
危なげない様子でかなり高所に位置する枝に腰を落ち着けると、マルセルは思い切り深呼吸し、緑の香りが濃厚な空気を思う存分堪能する。チュピが軽やかな羽ばたきでその傍らにちょこんと止まった。
すみれ色の瞳を輝かせながら遙か彼方に広がる美しい景色を見つめていたが、ふと視界の片隅を何か白いものがよぎった気がした。大きな目をさらに大きく見開いて白いものが見えた方角を見つめると、何のことはない、白い衣服を身に纏った人が森の木立をすり抜けていくところだった。
「あれ?ジュリアス様だ。こんなところにいらっしゃるなんてどうしたんだろう。ねえ、チュピ?」
迷いのない足取りで森の奥を目指すその姿を高処から見つめていたが、やがてジュリアスが目指す方角に何があるのか思い至ったマルセルは急いで幹を滑り降り、その後を追いかけた。
豊饒を司る緑の守護聖の名に恥じず、マルセルはこの森のことを隅から隅まで熟知していた。だから、今ジュリアスが足を運んでいく先に何があるのか知っていた。そしてそれはマルセルにとってとても懐かしい思い出に結びつく場所でもあった。
久方ぶりに執務から完全に解放されたジュリアスは、気の赴くままに森へと足を運んでいた。
森は生命に満ち溢れていて、職務上硬くなりがちな己の精神を解きほぐしていってくれるような感じが実に心地よく、ジュリアスは意識しないまま表情を和らげていた。優しい開放感とでもいうのだろうか。久しぶりに暖かく穏やかな心地に包まれたジュリアスは、以前幾度か足を運んだことのあるとある場所へと赴いた。
その場所にたどり着くまでの道すがら、昔の光景が甦ってきた。
何気なく森を散策していて偶然見つけたその場所で、ジュリアスはある人物と出会ったのだ。
ふと人の気配を感じて目を開けば、よく見知った顔が私を見下ろしていた。
『何を見ている?』
物珍しいものを見たといわんばかりの視線が煩わしく、ついそんなことを口にしてしまった。
『珍しい客人を』
そんな私の態度を気にした風でもなく、相手は屈託のない笑顔を浮かべていた。
『・・・・・・ああ』
咄嗟に光の守護聖としての己を装えず、素の自分を無様にも曝けだしてしまったあの一瞬。それを少しでも取り繕おうと私はゆっくり身体を起こしたのだ。
『そなたの場所だったか。すまない、邪魔をした』
あの時、あの男は自嘲気味に呟く私のことをどう思ったのだろう。
『気にするな。森は誰のものでもない』
そんな私に気づかなかったかのように屈託のない笑顔で、あの時あの男はそう答えたのだ。
マルセルの前任である緑の守護聖カティス。
年齢に不似合いなくらい好奇心旺盛でいつも陽気な男。根っからの世話好きでいつも周囲に気を配っていたが、それを苦にした風もなく、実にさっぱりとした気性の主だった。
『・・・・・・また、ここに来てもいいか?』
そう尋ねた私に、カティスは無言で微笑んでくれた。
そしてそれから幾度かその場所を訪れ、時々そこでカティスと出会い、様々な話を交わした。しかしいつしか忙しさにかまけて足が遠のいてしまったのだ。
記憶を頼りに森を進んでいるジュリアスの歩みはやや遅く、マルセルがその背中に追いつくのは可能だった。しかしマルセルはジュリアスに声をかけようとはせず、そのまま後を追いかけていった。
追いかける道すがら、マルセルはある人物を思い出していた。
『なあ、マルセル。これからちょっと俺につきあってくれないか?』
年齢の割に少年のように無邪気なあの方はそう言って、僕のことをあの場所へと案内してくれた。
『わあ〜、とっても素敵な場所ですね。お昼寝にぴったり!』
僕が思ったままそう口にするとあの方は金砂色の瞳を嬉しげに細めてみせ、大きな手で僕の肩を思い切りたたいてくれた。
『そうだろう、そうだろう』
豪快に笑ったあの方はその場所に座り込み、僕にもそうするよう促した。
『ここは俺のとっておきの場所なんだ』
子供が自分の宝物を自慢しているような口調で言いながら、あの方はその場に手足を投げだして横になる。
『でも、ちょっと寂しいと思わないか?』
そう言われて慌てて僕は周囲を見渡したけど、あの方の言いたいことがよく判らなかった。多分、その時少々情けない顔をしてしまったのだろう。
『もう少し、いろいろな色彩があった方が楽しくないか?』
あの方はがばっと身を起こし、苦笑を浮かべてそう囁いた。
『そう・・・ですね。もう少しお花があればここももっと素敵になりますよね』
再度周囲をぐるっと見回して、やっと納得できた。充分な日差しがあるにも関わらず、ここには可憐な野の花が咲いていないのだ。あるのは緑の色だけだった。
『マルセル。俺はここに花を植えたいと思うんだが、それを手伝ってくれないか?』
とても良いことを思いついたと言わんばかりに嬉しげな笑みを浮かべたあの方。
『一人だとやっぱり骨が折れるし、俺一人だと、多分、全部植えきれないし・・・な』
ちょっと寂しげな微笑を浮かべてそう言ったあの方。
あの方は自分に残された時間が少ないことを知っていた。もうすぐここを去らなくてはいけなかった。僕が一緒にいることこそ、その証だった。
あの方、僕の前に緑の守護聖の地位におられた方、カティス様。僕はカティス様が大好きだった。
それから僕たちは一生懸命、その場所に花々を植えていった。勿論、周囲の生態系に大きな変化を与えないよう細心の注意を払ってだけど。そしてそこが色とりどりの花で満たされた時、カティス様は言った。
『マルセル、お前に頼みがある』
いつになく真剣なその声に、僕は思わず背筋をぴんと伸ばしてしまった。
『おいおい、そんなに硬くなるなよ。ちょっとした頼み事なんだから』
苦笑しつつカティス様は花に彩られた日だまりを満足げに見つめた。金砂色の瞳に優しい光が浮かぶ。
『ここを気に入っているやつがいるんだ』
そこに何を見ているのか、見つめる眼差しはどこか遠くを見ているようだった。
『なかなかに忙しいやつだから、最近は全然顔を見せないがな』
誰を思い浮かべているのか、とてもとても優しい顔つきで話し続ける。
『そいつがここに何時きてもいいように、マルセル、俺の代わりにここを守っていてくれないか?』
勿論、僕に異存はなかったから、思い切り頷いた。カティス様の大切な思い出の一部を守っていけることが、とても嬉しく感じられた。
『ありがとう』
金砂の瞳に涙が浮かんでいたと思ったのは、僕の気のせいだったんだろうか。
そしてそれから間もなくカティス様は聖地を去られ、僕のもとにはたくさんの思い出が残された。だけど、カティス様のおっしゃっていた『あいつ』が誰かは結局判らず終いだった。
やがてジュリアスは目的地に辿り着き、紺碧の双眸を驚きに瞠った。
記憶にあるこの場所は、穏やかな日差しの降りそそぐ居心地のよい場所だった。
思わずここで昼寝をきめこんでしまったくらい優しい日溜まりがたゆたう緑の絨毯だった。
それが今は一体どうしたことだろう。色彩豊かな花々が咲き乱れている。
以前とは様変わりしてしまったその場所を目にしたジュリアスは落胆の表情を浮かべ、踵を返す。そして少し離れた場所に佇む現緑の守護聖を見つけた。
「マルセルか。このような場所に何用だ?」
一瞬、その幼い姿に前緑の守護聖が重なり、ジュリアスは睫を伏せる。
「ジュリアス様。ここって、とっても素敵な場所ですよね」
ジュリアスの様子に気づいているのかいないのか、マルセルは軽やかに隣に駆けよっていった。
「この場所、カティス様も大好きだったんです。僕もですけど」
ジュリアス様はいかがですかと無邪気に問う。
自分を見つめるすみれ色の瞳があまりに真っ直ぐすぎて、ジュリアスは思わず苦笑した。
「そうだな。私も以前よりこの場所は気に入っていた」
ゆっくりとした動作で、ジュリアスは再度周囲を見つめた。
優しい木漏れ日が創りだす日だまりのなか、色とりどりに咲き乱れる小さい花たち。目に染みるような緑のなか、淡い色彩を抱いた可憐な花たちが精一杯咲いている。
以前とは様相の異なる景色だったが、それでも自然の美しさは損なわれることなく、もしかすると以前よりもより一層鮮やかに目に映る。
「ここは・・・美しいな」
ぽつりそう呟いたジュリアスの口許に、自然、優しい笑みが浮かんだ。
いつも厳めしい顔つきで命を下す時とは異なるその穏やかな表情に、マルセルは意表をつかれて硬直した。
普段のジュリアスからは想像のできない優しく慈愛に満ちたその顔。
『ここを気に入っているやつがいるんだ』
(カティス様のおっしゃっていたのは、まさか・・・)
『なかなかに忙しいやつだから、最近は全然顔を見せないがな』
(あの頃は、カティス様と僕の、緑の守護聖の交代の時期で、ジュリアス様は何かと忙しかった)
マルセルのなかで欠けていたピースがかちりとはまる。
カティスが優しい顔つきで話してくれた『あいつ』とは、ジュリアスのことに違いなかった。
「ジュリアス様、ここにお花を植えたの、カティス様と僕なんです」
満面の笑みで、マルセルは胸を張った。
「そうか」
一瞬紺碧の双眸が驚きに丸くなったがすぐに笑み崩れ、ジュリアスはマルセルを手招きし、花々に彩られた日だまりへと腰をおろした。
それは、のどかな時間が流れる日の曜日のことだった。
END